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総資産100億令嬢の転落人生。野心の果てに掴んだ、これが私の生きる道!


これは遺書です。

過去の自分を葬り、新たな自分に生まれ直すために書いている遺書です。私が私自身のことについて書くのは、おそらくこれが最後になるでしょう。

だからお願いです。

あなたには、あなたにだけは私の全てを受け止めてほしい。最期の一行まで読んでほしいという「祈り」を込めながらこの文章を書いています。


■芸能界という暗闇、表現しないと生きていけないという錯覚


「あなたの中にある一番古い記憶は何ですか?」と聞かれたら、私は間違いなく5才の時のことですと答えるでしょう。

私は右手にヌイグルミを抱え、たった1人で新幹線に乗り込み新大阪駅へと向かっていた。

父親が過労で倒れ、生まれたばかりの兄妹の世話で手一杯となった母親に関西にいる祖父母の家へ行ってくれないかと頼まれたからだ。

駅のホームに迎えに祖父母に手を継がれて到着したのは、一軒家が8個分は入るであろう広い敷地の中に建つ「お屋敷」だった。

当時、ある程度の財を成していた祖父は起業家だったので生活自体はとても裕福で、しばらくの間両親と離れて暮らす私にはキラキラとしたプレゼントがたくさん用意されていた。流行りのお人形におもちゃ。可愛いバレッタに綺麗な色をした金魚。

なかでも「食」に対するこだわりの強かった祖父母はありとあらゆる贅沢な味を経験させてくれた。紅茶はFAUCHON。チョコレートはGODIVA。花の飾りのついた角砂糖を薄紫色をした色の変わるお茶に浮かべたり、時々は鶴屋八幡の和菓子と一緒にお抹茶を立てたり。

週末は吉兆やなだ万などの名店をはじめ、ホテルのラウンジやフレンチやイレストランに連れて行ってくれた。どこのお店もおいしい。私はいつも感動するような一皿と出逢うたびに、このお料理はどんな人が作っているのだろう?と想像しては胸をときめかせていた。いつか直接「おいしいです」と伝えることができたらいいのにとも。

しかし、こうやって祖父母と一緒に食事をするのは休日のみのことで、日中は一人で過ごすことが多かった。起業家である祖父は忙しく、そのサポートをする祖母もパタパタと家中を走り回っていたからだ。

私はそんな2人の様子を見ながらお手伝いさんが仕事として作ってくれたご飯を口に入れ、ペットのポメラニアンを相棒にお屋敷をグルッと囲んでいた庭を探検したり、花を摘んだり石を集めたり、本を読んだりテレビを観たりしながら「ひとり時間」を愉しむようになった。


私は、そんな自分が好きだった。


誇らしいとも思っていた。自分と同じ年齢くらいの子供はみんなお母さんにベッタリ。きっと、私と同じ境遇に立たされた他の子はみんな毎日泣いていると思う。

でも、私は大丈夫。

自分で自分のことを愉しくできる。泣き言だって言わない。これからも自分の中に生まれた感情は自分でどうにかしていこう。

それから間もなくして、家族で祖父母のお屋敷の近くに引っ越してくることになった。父親が激務であった会社を辞め、祖父の会社で祖父の右腕として働くことになったからだ。

私は、東京や幼稚園の友達から離れたくないと思った。この時ばかりは口を四角にしながら号泣したけど仕方ない。大人の事情に抗うことはできないんだと観念した私は、絶対にまた東京に戻って来るんだ!と心に誓いながらイヤイヤ関西へ行くことになった。友達なら向こうでもつくればいいんだと自分に言い聞かせながら…。



小学校の入学式当日。



私は、砂場で遊ぶ5人の同級生に近寄り大きな声で「いーれーてー」と言った。当然、すぐに「いいよ」という返事が返ってくるだろうと期待していた。けれど、目の前にいた5人組は顔を見合わせてクスクスクスクス。

「いれてだってぇー。変なの~。"よせて"って言わないと入ってきちゃだめぇー」

そう言って、私に対してこれ以上入って来るなよ!といった空気を醸し出してきた。悔しい。という感情を通り越して唖然とした。

なんという幼稚な…。

こんなガキどもと一緒に明日から学校生活を送らないといけないなんて…。

私は、人生で初めて経験する「差別」にギュッとこぶしを握りしめてはみたけど喧嘩をする気は1㎜もなかった。なかったけど、何とかして見返してやりたい。絶対にこの差別に屈して「関西弁」を話すことだけはしない!と強く心に誓った。


それから数週間後。


引き続き、同級生から三つ編みを引っ張られるなどのライトな嫌がらせを受け続けていたある日のこと。遂に、やり返すチャンスが巡ってきた。先生が、来週の国語の時間に「朗読のテスト」をやると言ったのだ。しかも、標準語のイントネーションで読みましょうと。

これだ!

これしかない!

私はその日からの1週間、朝も昼も夜も暗記するほどに練習し、テスト当日は1番に手を上げて発表。これ以上はないだろうというくらい「完璧」にスラスラと読み上げた。

クラス全員が拍手喝采。

先生からも「読み方もイントネーションも素晴らしかったけど、何より1番に手を上げて発表したことがすごいですね!」と言ってハナマルをくれた。

この日以来、私に対する嫌がらせは止まった。関西弁は「めっちゃ」という言葉以は話さない。標準語のままの「自分」を認めさせることができたのだ。おそらく、私の中にいる「完璧主義者」や「自我の強さ」はこの時に生まれたのだと思う。この先の人生でも「自分」を曲げることはしない。絶対に自分を貫き通してやる!と思った。

その一方で、また同じような嫌がらせを受けることだけはごめんだと怯える気持ちがあった。

というのも、私が通っていたのはエスカレーター式のお嬢様学校。小学校から高校を卒業するまでの期間は軍隊に入っているというよりは「牢獄」に閉じ込められているようなものだ。

懲役12年。

一度いじめられたら終わり。

狭い牢屋の中でいかに無難に点数を稼いで「出所」していくいか?強烈な関西弁で自己主張しまっくてくる同級生も結果しか見てくれない先生も恐怖の対象。

私は、気づいたら周りの顔色ばかりをうかがいながら自分を押し殺す「存在感の薄い生徒」になっていた。

運動も勉強も中の下。
得意なことも特にナシ。

人気があるワケでも嫌われているワケでもない。ただ、ペアやグループを組む時には一緒になったクラスメイトがちょっとだけ残念そうな顔をする。

そんな存在だった。

教室移動やお弁当の時間が嫌いだった。1人でいる時の「独り」には慣れていたけど、大勢の中の「孤独」というものにだけは耐えられそうにない。いつも必死になって強いグループの端っこに机をくっつけたり、嫌なことを言われてもニコニコと笑いながらみんなの後を追いかける。

毎日、帰宅するとグッタリだった。

高校を卒業するまで…あと10年以上はある…。こんな毎日に、一体全体何の意味があるのだろう?幼いながらに、これから続いていくであろう果てしない人生を思うと「恐怖」でしかなかった。


だがしかし、

小学5年生の時に転機が訪れた。


仲良くなりたいと思っていた友達を追いかけて入った「演劇部」で「主役の少年」に抜擢されたのだ。嬉しくて嬉しくて、朗読テストの時と同じように朝も昼も夜も夢中になってセリフの練習をした。

そして迎えた本番。

放課後の講堂にはたくさんの生徒と先生が。同級生もクラスメイトもいる。

私は、1㎜も緊張していなかった。その代わりに足元からエネルギーが湧いてくるのを感じ、練習してきた通りによどみなくセリフを展開。

最後の最後。

何度も何度も1人で練習してきた「この宝石の力を…!」というセリフを叫んだ瞬間、観客席からは「おおっ!」という歓声が。カーテンコールの時に舞台中央に登場すると会場が壊れるんじゃないかと思うほどの拍手喝采。

まさか、これほどまでのリアクションがあるとは想像していなかったので私はなんだか夢のようだと思っていたけれど、何よりも嬉しかったのは衣装から制服に着替えて講堂から出た時のことだった。

一度も話したことのないクラスメイトが駆け寄ってきて「めっちゃよかった!感動したわ!」と言われた。一瞬、何が起こったのかと戸惑ったけど、それは1人2人ではなく通り過ぎていくみんなが同じように声をかけてくれた。人生が変わったと言えば大袈裟に聞こえるかもしれないけど、はじめてみんなの瞳の中に映ることができたと思うと胸が熱くなった。


私は、ここに存在している。


それからの学校生活は演劇一色。相変わらず朝も昼も夜も。休み時間に1人でいることも怖くなくなった。脚本を握りしめては一人ブツブツとセリフの練習に励み、文化祭ではほとんど毎年主要キャスト。観客席では家族も見守ってくれている中、日常では出すことのできない「感情」を「爆発」させて学校中の注目を浴びていた。

不思議だった。

私は、私自身のために演じているだけなのに舞台が終わるとみんなが笑顔になって喜んでくれる。家族も、先生も、同級生も、先輩も、後輩も。

「良かったよ!」
「感動した!」
「すごいね!」

演じている時は、舞台が終わったその日だけはみんなと「繋がる」ことができる。

演劇は、いつの間にか私にとってなくてはならない「コミュニケーション」のツールであり「アイデンティティの一部」であり学校という「サバイバルを生き抜くための武器」にもなっていた。生き甲斐というよりは、もはやこれを失っては生きていけないといった「生命線」のような感じ。

演じることは、
私にとって「命」そのものだった。

がしかし、その命が脅かされる時が刻一刻と近づいてきていた。高校2年生。

進路相談の時。

薄々気づいていた恐怖の瞬間。知ってたよ。いつかは失うんだってこと。大学に入学して、その後は普通に会社に就職すればいいんでしょ?いや、それはムリだ。今、演じることを失ってしまったら?私は、これからどうやって人とコミュニケーションを取っていけばいいんだろう?怖い。演劇がなくなったらもう誰とも関わっていくことができない。


表現しないと…
生きていけない…!!!


そんな強迫観念に囚われた私は、両親や担任の先生の心配をよそに「女優」になることを決めた。とりあえず、東京にある付属の大学に進学しながら演じることを仕事にしようと。そうやって、表現することを仕事にすることさえできれば一生カラダから離れることはない。

それに、万が一失敗したとしてもその時は祖父の会社に入れてもらえばいいだろうといった今から考えると甘い甘いシナモンロールなような考えで私は上京することになった。



2年後。



大学2年生の時。私は、祖父の知り合いのツテで紹介してもらった芸能事務所に入所。翌年の4月に『医龍』という連続ドラマで念願の女優デビューを果たした。レギュラー出演だったから、新人にしては異例の大抜擢。自分も家族も事務所のスタッフも、絶対に売れる!と期待していた。


でも、結果は大失敗。

これ以上の失敗はないだろうというくらいに現場で大コケした私は、事務所の社長から「次のチャンスは5年後だと思っておいたほうがいい」という懲役宣告を受けた。

5年…。

当時の私にとってはあまりにも気が遠くなるような年数。他の同級生は就職活動の真っ只中。

一瞬、みんなと同じように就職するか、もしくは決断を先延ばしにするために大学院に進もうかとも考えた。が、ちょうどその頃から実家の経済状況が急変。祖父が亡くなったことをきっかけに会社のバランスが崩れ、両親はすべての財産を悪徳弁護士をはじめとする3人の悪魔に奪われるという事態に陥ってしまった。


青天の霹靂。


アテにしていた「はしご」がいきなり外れてしまったような感覚。お嬢様大学に絶賛在学中だった私は、こうした崖っぷちの現状を誰にも話すことができなかった。というより、誰かに話すことによって「現実」になってしまうこと、裕福な暮らしというアイデンティティを失ってしまうことが怖くて怖くて何とかして取り戻したいと思うようになった。

祖父のように稼がなくては…!

と、そう無意識に野心を抱きはじめた私はこのまま一般企業に就職しても得られる「お金」には「限り」があると判断。5年という歳月は長いけれど、一攫千金を狙うためにもこのまま芸能界に身を置くことを決めた。

と同時に、やはり潜在意識の奥の奥では「表現」を失うことはできない。一般企業に就職することができたとしても「芸能あがり」ということでいじめられるかもしれないといった「恐れ」もあった。

どうせ、バカだの役立たずなどと言われて終わるのがオチ。だったら、万に一つでも可能性のあるほうに賭けよう!

こうして私は「女優という名のフリーター」として常時3つほどのアルバイトを掛け持ちするようになった。


別名、夢追いフリーターとも言う。


飲食店、ティッシュ配り、ビルの清掃、受付嬢、六本木の高級クラブ…etc.

芸能界にいると急に仕事が飛び込んでくることがしばしば。そうすると、どのバイトも無理矢理シフトを代わってもらわなければいけない。約20個ほどのアルバイトを点々としながら耐える日々。

将来が不安。

明日が来るのが怖くて、
毎晩4、5時まで眠れない日々が続いた。

とてもじゃないけど、自分のことを「女優です」なんて名乗ることができないから出逢いもない。時々呼ばれる合コンでも仕事を聞かれた時には売れていないことを知られるのが恥ずかしくて「広告関係です」とウソをついては自己嫌悪に陥っていった。

「今、何してるの?」

と、友達から聞かれるのがイヤだった。だって、何もしていない。バイト以外は仕事がない。いくら女優ですとはいっても出演しているドラマや舞台がなければフリーター同然。毎日毎日、バイトに明け暮れている今の自分は何なんだろう?と何度思ったことか。

なのに、そんな私の心中を知ってか知らないか就職したばかりのサクール仲間から「税金払えてんのか?」とか「ニートなんでしょ?」と笑われた時には「カジュアルな殺意」を抱いた。悪気のない冗談だということは分かっていた。でも、どうにもこうにも「言い返す」ことができずに「恨み」が募っていった。

芸能界で売れていないと、人権も発言権もないような気がしてつい言葉を飲み込んでしまう。いつか売れた時に見返してやろうといった「復讐心」だけが育っていく。成功したら天狗になったと陰口を叩かれている芸能人がいるけど、その気持ちは痛いほど分かる。私だって、売れたら今まで我慢していたすべてを爆発させたい。

だけど、私の中にいた「モンスター」は売れるまで我慢するということができなかった。

段々、性格がキツくなり、身近にいる人たちを攻撃しはじめた。傷つく言葉を放ってきた友人・知人に対しては鋭く研いでおいた「言い返す言葉」を相手が弱っている時にグサリと突き刺し、時には家族に対してでさえもハリネズミ対応。特に、一番心配してくれていた母親に対しては今から考えると自分がおぞましくなるような「罵詈雑言」をぶつけては傷つけ、激しい自己嫌悪に陥ることが多々あった。

最終的には、通りすがりの業界人から「お前が売れていないのは生まれ育ちが悪いせいだ!こんなヤツを育てた親の顔が見てみたい!」という暴言を飲み会の場で約2時間近く吐かれてメンタル崩壊した。


もう、これ以上は頑張れない…。


その日のことは忘れもしない。ちょうど、両親が久々に実家から様子を見に来てくれていた日だった。本当は一緒に楽しく夕食の時間を過ごすはずだったのに…。私は、仕事欲しさに急に飛び込んできたくだらない飲み会を優先してしまった。

深夜2時過ぎ。

飲まず食わずで帰宅。真っ暗なリビングで呆然としていると、寝室から母親が起きてきてくれて何も言わずに夕食の残りの海苔巻きを出してくれた。

おいしい。

私は夢中になって海苔巻きを口に詰め込みながら嗚咽し、「もう女優は辞めようと思う」と母親に宣言した。


to be continued…

※次の項目は、本記事に随時UP予定です。


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