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【エッセイ】米寿の神様

 朗読セミナーに通って、丸6年にもなる。「にもなる」のに、ほとんど上達しているように思えず、我ながら悲しい。歩みは牛歩の如くというより、ハシビロコウのようだ。
 ハシビロコウが6年も、ピタリとくっつき、教えを乞うているのは、「ナレーションの神様」と呼ばれる矢島正明先生である。神様は昨年4月、米寿をお迎えになっていた。日本人ならこの神様の御声を、知らぬ者は無いと思うが、念のため、石橋を叩いてみる事にする。
 テレビ映画「0011ナポレオン・ソロ」のロバート・ボーンや、「スタートレック」のカーク船長が日本語を話す時、それは神様の声だった。「クイズ・タイムショック」でよどみなく出題していたのも神様。CMでは「違いのわかる男」とか「リポビタンD」とか、おっしゃっていた。
 そんな神様の朗読セミナーには、プロやセミプロ、プロ顔負けのアマが集まっていて、その美声と隠し切れないインテリジェンスを、惜しげもなくさらけ出していた。聴講制度はないかと、ハシビロコウは申し入れたが、あえなく却下。千尋の谷へ自らダイブする事になったのが、6年前であったのだ。
 声は遺伝的要素も強く、神様の御声は、本物の神様からのギフトのようにも思われた。ゆったりと「おはようございます」とおっしゃりながら教室にお見えになる時、周囲の空気層は、それを世間に伝導させる事のできる任務を得た僥倖に、打ち震えているように思われる。

 さて、秘密裏に進められていた神様の米寿お祝い会は、コロナ禍において延び延びになっていた。ボヤボヤしてたら神様は89だ。

 五つ星ホテルの大広間で、数千人を集めての会も、考えないことは無かったが、結局普通のセミナーの日、その教室で、はじめの5分ほどを頂戴して開催された。22年間続く神様のクラスに、22年間通い続けていらっしゃる学級委員長から(こちらは87歳)祝辞の後、記念品が贈呈され、みんなで紙コップの紅茶をズルズルとすすった。

 考えてみれば神様は、既にその称号を得ながらも、さらに新しいお仕事を22年前からはじめられたのだった。この間、ご紹介された作家は52人、作品は109作品(学級委員長調べ)、その守備範囲の広さに改めて驚愕した。そしてなお「共にまた、勉強させていただく」とおっしゃった。

 セミナー終了後、エレベーターホールまで行く途中でハシビロコウが見たのは、受付カウンターで、早々と新年度の申し込みをなさる、学級委員長の丸いお背中だった。


●随筆同人誌【蕗】346号掲載。令和3年4月1日発行。


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