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【エッセイ】それは物語

「人は物語が聴きたいの」
 時々想い出す、恩師ヴィヴィアンの言葉です。
 ヴィヴィアン・マッキーは、1931年生まれ。カザルス最後の弟子と言われた人で、スコットランド人。天才少女との噂も高かったチェリストでしたが、同時代にジャクリーヌ・デュプレという人がいらして、天才少女は二人もいらないと、教育者となった人物です。カザルスの言葉を、世界中の若者に伝えていました。
 その日は東京でのマスタークラスで「人は何を求めてコンサートに行くのか」がテーマでした。数人の若手音楽家が集まっていました。白熱したやり取りの後に、ヴィヴィアンが言ったのがこの言葉。「人は物語が聴きたいの」でした。
 プロの歌より感動させられる、お遊戯会の子どもたちの歌。脚が悪いのに、心揺さぶられる、老ダンサーのフラメンコ。金メダリストよりも印象的な、4位のオリンピアン。
 人は優れたものが見たいのではなく「物語」が欲しいのだ。だからそれを、充分に音としてくれ、と彼女は我々に言ったのでした。
 あの時以来「物語」について、考えるようになりました。ヴィヴィアンの言ってくれた「物語」について。
 さて数週間前、この「物語」の反対語のような「情報」という言葉が目に止まりました。
 「情報」は人を救えない。それは消費の対象で、道具として使われるしかないものです。新しいものが出てきたら、すぐに捨てられてしまう。そんな「情報」が溢れています。
 それに対して「物語」は、私の為だけに準備されたと、受け止めるもの。生き方自体を変えるもの。それに出会う以前と、以降とに二分するようなもの。
 「情報」が氾濫する近頃、我々はその扱いに段々慣れてきているけれど「物語」の扱いには、それを求めながらも苦手になっているのかも知れない。「情報」は自分で操作できるけれども「物語」は、それが出来ない。逆に、自分のありようが問われ、変わらなくてはいけなくなったりする。
 思えば「物語」は、もっと小さな形で、手近なところにもありました。
 ストーブの上の、お鍋の中に煮える豆を見つめながら、それを決して孫娘に触らせようとしない祖母から、昔話を聞きました。鬼ヶ島の話ではないけれど、ある意味ホンモノの、墓石の下の鬼たちの話しだったりしました。朝ドラの原作として、売れそうな話でした。
 私のクローゼットには、母手作りのコートやワンピースがたくさんあります。和箪笥の中で、将来忘れ去られるであろう母の、あるいは祖母の、また祖父の和服ばかりではなく、母の先輩方の衣装までもが、母の手により、私の洋服になっています。その全てにやはり、「物語」がある。今のファストファッションとは全く次元の違う「物語」があります。
 「物語」は支えてくれる。力になってくれ、変化を促してくれる。
 「物語」は、人そのものかも知れません。
 ヴィヴィアンが我々に伝えたかったのは、「自分自身を音にしろ」という事だったのでしょうか。「音そのものとなれ」「音となれる自分であれ」という事だったのでしょうか。

 350号おめでとうございます。
 先輩方の「物語」が350を重ね、その末席を汚す御縁をいただけた事に、心より感謝申し上げます。これも私自身のひとつの「物語」となります。

●随筆同人誌【蕗】、創刊350特大記念号に掲載。令和4年4月1日発行。

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