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【Story of Life 私の人生】 第45話:高校入学

こんにちは、木原啓子です。
Story of Life 私の人生 
前回は、 第44話:高校受験 をお送りしました。
今日からは、高校生時代のお話をしていこうと思います。
高校生時代は、私の2度目の暗黒時代の序章でした。
まずは、入学当時のお話から始めたいと思います。

1979年4月10日、私は高校に入学しました。
私達がこの学校の4期生なのですが、校舎も、体育館も、プールも、前の年に完成したばかりの真新しい学校でした。

母校です

3月の春休み中に、学校説明会があり、その日に制服や体操着の注文をしました。
中学時代の上履きは「スリッパ」でしたが、この学校も変わっていて、何と男子は茶色、女子は黄色の「健康サンダル」でした(笑)
同じ中学から来た同級生と、大爆笑したことを覚えています。

上履きは黄色の健康サンダル(笑)
中学はスリッパだったけど…

4月に入ると、入学式の前に学校に行き、制服や体操着、教科書などを受け取りました。
そして両親からは、約束通り「1万円のお小遣い」をもらい、最初の授業料の支払いと、通学定期を購入しました。

制服は、男女共にネクタイだから、ワイシャツを着ることになります。
ブラウスとは違い、なんだかシャキっとした気分!
父からネクタイの締め方を教わり、入学式までの間、毎日練習しました。

男子は紺、女子は赤のネクタイでした

学校は、アメリカ空軍の家族宿舎のグラントハイツの一角にありました。
私が入学した当時は、現在の都立光が丘公園の造成工事を始めたばかりの頃。
家から自転車通学という選択肢もあったのですが…
朝7時から夕方5時までの間だけ、守衛さんにお願いして、グラントハイツの中を通らせてもらうことが出来ました。
中を通ることが出来れば、家から学校まで自転車で45分位。
でもその時間を外してしまうと、かなり遠回りしないといけないので、1時間以上かかることになってしまう。
雨の日のことも考慮して、結局は確実な「電車とバス」で通学することにしました。

当時のグラントハイツ
今とは大違い!

家から東武東上線の上板橋駅まで自転車(雨の日は、家から徒歩20分)で行き、電車で成増駅まで。
成増駅からバスに15分位乗って、最寄りのバス停から10分位歩いて学校へ。
当時は、学校までの道が途中までしか整備されていなかったから、もし成増駅から歩くとなると、学校まで30分以上掛かりました。
また、学校の住所は「東京都練馬区」だけど、道の向かいは「埼玉県和光市」なので、毎日「和光市役所からのお知らせ」という放送が、授業中に大音量で聞こえてきました(笑)
そもそも、都心にある「おしゃれな私立の学校」に行くつもりだったから、最初は何となく複雑な心境でしたが、慣れとは恐ろしいもので(笑)
そんな日々にもすぐに慣れてしまいました。

余談ですが、新潟出身の友人に卒業アルバムを見せたことがあります。
航空写真が載っていたのですが、それを見た友人「本当に東京?新潟かと思った!自分の学校の方がよっぽど都会だ」と驚愕していましたっけ。
よく言えば「自然豊かな環境」、悪く言えば「東京とは名ばかりのド田舎」学校でした。

話を元に戻します。

私たちが入学した時、1学年は8クラスあり、私は1年1組となりました。
担任の先生は、英語のリーディングの先生で、見た目はかなり「ファンキー」な感じ。
当時40代だったと思いますが、風貌は全く学校の先生らしくない(笑)
後日談ですが、私はこの先生のお陰で、無事に高校を卒業出来たと言っても過言ではないかも知れません。詳細は後日お話ししようと思います。
また、小学校が一緒だったけど、中学校は別の学校に行ってしまった子が2人が同じクラスにいて、とても懐かしく、嬉しかったです。

入学式が終わり教室に戻ると、担任の先生から「明日は破傷風の予防接種をする」といきなり言われ、問診票を渡されました。
元米軍施設の一角にある学校だから、破傷風菌がとても多いエリアであることと、通学中や体育の授業中に怪我をして破傷風になっては困るからという説明を受け、みんなビックリ!入学初日から、かなりショックを受けた記憶があります。
確か、2回か3回の予防接種を受けた記憶が…
他の学校に行った友達に聞いてみましたが、どこの学校も破傷風の予防接種はしていなかった…
やはり、立地上の問題だったのだろうか?

高校入学翌日に、破傷風の予防接種!

新しい学校だったこともあり、全体的な雰囲気はかなり「自由気まま」でした。
先生も進学校とは違い、ガチガチでは無かったと思います。
そういう意味では、小学校の頃の雰囲気に近かったかも知れません。
中学校が進学校だったから、ギャップが大きく、ある意味とても新鮮でした。

部活は、吹奏楽部からお声は掛かったのですが、どうしても運動部に入りたかったので丁重にお断りして、バトミントン部に入部しました。
やっと念願の運動部に入部したのですが、中学校でレギュラーだった子が多かったので、初心者は、ほとんどシャトルを打つところまでいきませんでした。
半年後、入院することになったことで退部することになりましたが、それまで素振りとマラソンしかさせてもらえませんでした(笑)

また、バトミントン部は室内競技のため、体育館を使えるのは週に2日だけ。
その為、部活は週3日だけしかありませんでした。
中学時代の先輩から「手伝え」と言われ、結局「放送部」も掛け持ちしました。
当時はラジオのDJが全盛期だったので、お昼休みに音楽を流したり、色々なラジオ局に訪問したり、NHK主催のアナウンサー教室に行ったり、文化祭でDJやったりして、それはそれで、かなり楽しかったです。
放送部は、入院中休部しましたが、結局3年間在籍しました。

放送室の設備はこんな感じでした

高校生活は、こんな感じで順調にスタートしたのですが、その頃から徐々に身体の不調が出てきていたように思います。
アトピーも酷くなっていましたが、やけに疲れやすくなっていました。
最初のうちは「通学時間も長くなったし、寝不足気味だから、慣れたらそのうち良くなるだろう」程度で考えていたので、誰にも相談せずにひたすら我慢していました。
結局、半年後の10月から入退院生活に入ることになるのですが、それまでの間は、部活やアルバイトにも精を出していました。

その辺りの詳しいお話は、後日させていただこうと思います。

〜続く

今日はここまでです。
次回は、第46話:初めてのアルバイト に続きます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう♪

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