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【Story of Life 私の人生】 第88話:スポーツ・ジャンキー時代 Part 2 〜 テニスどハマり

こんにちは、木原啓子です。
Story of Life 私の人生 
前回は、 第87話:スポーツ・ジャンキー時代 Part 1 〜 テニス事始め をお送りしました。
今日は、テニスに関するお話の続きをしようと思います。

夏休みに、集団会の仲良しグループ10人で行った、2泊3日の那須高原「テニス合宿」で、人並みにスポーツが出来るようになった喜びを味わった私でしたが、一方で、あまりにも無様な自分の姿に幻滅してしまい…
テニスの楽しさを知ってしまい、「せめて、まともにラリーくらいは出来るようになりたい」という野望と、元来持っている「負けず嫌い」がむくむくと顔を出し、東京に戻ると直ぐにテニススクールに通うことを決め、即座に初心者クラスに申し込み、ラケットを手に入れてしまうという、驚くべく行動力を発揮した私(爆)
そのお陰で1年半位続いていた、スポーツクラブの幽霊会員状態から、無事に卒業することが出来ました(笑)

スクールを申し込んでからは、真新しいラケットを眺めながら9月のスクール開校を、指折り数えながらワクワク待つ日々が続き、そして遂にレッスンの初日がやってきました。
日曜日の朝10時40分にレッスンスタートなので、 Tシャツとジャージに着替えて、真新しいラケットを握りしめてスポーツクラブへ。
受付で指定されたコートに行ってみると、初心者クラスは私を含めて6人でした。
しかし…
他の5人の出立ちはジャージ姿ではなく、コーチと同じようなテニスウエア!
私1人だけが「ジャージ姿」だったので、何だか場違いで、ジロジロ見られて気まずい思いをしましたが、「とにかくテニスが上手くなれば良いんだ!」と割り切りました(汗)

点呼から準備体操、そして今日のレッスンの説明。
まずはフォアハンドの練習からとなりました。
ラケットの握り方を教えてもらい、素振りとなったのですが…
普通は「ワン・ツー・スリー」の三拍子なのですが、元来左利きの私の場合「何も考えずに右を向く」ことが全く出来ない!
どうしても、左足が先に出てしまうのです。
何度やっても上手くいかず、泣きそうになったところで、コーチから「じゃあ四拍子でやってみましょう!」とのご提案が!
まず「ワン」で右足を90度右に向けてから、みんなと一緒に「ワン・ツー・スリー」をやれば良いというのです。
やってみると、あら不思議!
楽に右を向くことが出来るではありませんか!

素振りが何となく出来るようになったら、次はコーチが目の前でボールを出してくれ、ラケットに当てるという練習をしました。
殆どの生徒さんが空振りをする中、那須高原の合宿の成果なのか、空振りすることなくラケットにボールを当てることが出来ました。
初日のレッスンはここまででしたが、ウエアや素振りで恥ずかしい思いをしたものの、とても楽しく、あっという間に終わってしまいました。
レッスン後は、スポーツクラブの大きなお風呂にサウナを堪能して、お昼過ぎに帰宅しました。

教わったことを忘れてはいけないと、その日から次のレッスンの日まで、毎日家の中でラケットを振り回し、四拍子のフォアハンドの素振りをやっていました(笑)
家でのコソ練の成果もあり、3回目のレッスンが終わる頃には、フォアハンドでボールを打ち返すことが出来るようになっていました。

そして4回目のレッスンからは、バックハンドの練習になりました。
バックハンドは両手打ちで習いましたが、そもそも左利きの私にとっては、メチャクチャ楽チン!
無意識で左を向くことは全く苦にならない上に、中学生時代に左でテニスをしたことがあるので、身体が感覚を覚えていたことと、両手打ちだからパワーがかなり出る訳です。
他の方が苦戦しているのを横目に、ずーっとニコニコ状態だったことを覚えています(笑)

8回のレッスンが終わる頃には、とりあえずフォアハンド、バックハンドともに、コート内に打ち返すことが出来るようになっており、めでたく1つ上の初級クラスに進級が決まりましたが、日曜の初級クラスに空きがなかったので、平日の夜間のクラスに入ることになりました。

初級クラスは、恐らくスクール全体で一番人数が多かったと思います。
クラスの数も他の級よりも多く、また1クラスの生徒さんも12人位で、初心者クラスの倍。
となると、同じ60分のレッスンだとボールに触れる時間は半分しか無い訳で…
この頃には既に「テニスジャンキー」状態、ラケットを触っていないと「禁断症状」が出るようになっており、週2回クラスに変更してもらいました。

初級クラスでは、サーブやボレーを教わり、ある程度コーチとのラリーが続くことが出来、簡単なダブルスのゲームが出来るようになれば1つ上の初中級に進級ということになっていました。
レッスンを倍に増やしたお陰もあり、2ヶ月後には、めでたく初中級に進級することが出来ました。

初中級になったら、テニスジャンキーの禁断症状が更に強くなってしまい…
何を血迷ったのか、週2回クラスを2つ受けることに!
つまり、週4回レッスンに通うという暴挙に出たのでした。
また、スクール内の試合にエントリーして出場するようになったのもこの頃です。
「もっともっと上手くなりたい!」という気持ちがとても強く、ショット別のクラスを受けたりするようにもなり、気付いた時には、スクールが休みの月曜日以外、毎日コートに立っている状態になっていました(驚)
こんな状態だったので、スクールに入ってからわずか1年で、上級クラスまで進級してしまいました。
また、試合に出るようになってからはジャージから卒業し、ウエアやラケットにもこだわるようになっていきました。

結果として、このスクールは3年間通ったところで辞めました。
理由は3つ。
毎日ほぼ同じメンバーで2年の間レッスンを受けていたので、レッスンそのものが惰性になってしまったこと。
スクール内の試合で負け知らずになっていたことで「外の世界を見たい」という気持ちになったこと。
そして一番大きな理由は、パートナーに気を遣わなければならない「ダブルス」が大の苦手だったので、いっそ「全責任は自分」というシングルスに転向したいと考えていたのですが、このスクールではシングルスは出来ないということでした。

ここから3年間は「武者修行」のような日々を送ることになりました。
まずは小手調とばかりに、テニス雑誌でシングルスの試合を探し出し、いくつか出てみることにしました。
10試合出てみたのですが…
結果は2勝8敗と惨憺たるものでした。
ここで、いかに自分が「井の中の蛙」で3年過ごしていたかということを、改めて痛感したのでした。

となると、またまた負けず嫌いの顔がムクムクと出てくる訳です。
シングルスをメインでレッスンをしているスクールを探し始め、どうにか週末や連休に合宿をするスクールを見つけて、そこの門を叩くことになりました。
合宿ですから、レッスンは都内ではなく、千葉や山梨になる訳です。
そこで普通自動車の免許を取り、車をゲットし、毎週末合宿レッスンに通い、月に1回試合に出るという生活になりました。
また、コーチにお願いして、週1回マンツーマンでレッスンをしてもらうようにもなりました。
結果として、シングルスでもある程度は勝てるようにはなってきていたのですが…

「ジャンキー」には、それなりの落とし穴がある訳です。
テニスをしている時は、楽しいし、幸せだし、充実しているのですが、一方で上手く出来ないとか、勝てたはずの試合に負けた時などは、やりようの無い怒りや不安がどんどん増していく。
そしてさらに上を目指してレッスンを増やす、という悪循環スパイラルにどんどん陥っていきました。

また、テニス漬けの生活を6年もしていた訳ですから、身体も悲鳴を上げていたのだと思いますが、自分では全く気が付かなかったのです。
最初のトラブルは、レッスン中にボールを拾おうとして、ギックリ腰になってしまった事でした。
もう息が出来ないくらい痛くて…
レッスン帰りの車の運転中、痛みで吐きそうになりました。
「安静が一番だ」と、お医者さんに言われたものの、会社は事務員さん1人だから絶対に休めないということで、どうにか頑張って会社には通っていました。
こんな状態なのに、練習しないと不安だからと、コルセットを巻いて練習しに行ったことも!
結局激痛に耐えられず、練習にならず、すごすご退散…
そんな状態だったから、全治するまで1ヶ月位掛かってしまいました。

そして極めつけは、右膝の前十字靭帯、半月板の損傷でした。
土砂降りの金曜日の夜、帰宅中の乗換駅で、雨で濡れてツルツルになった駅の階段から滑り落ちてしまったのです。
その時「大丈夫ですか!」と、周りの人たちが駆けつけてくれたのですが、あまりにも恥ずかしくて「平気です!」と言って、激痛に耐え、足を引きずりながら帰宅しました。
家に帰ったら、膝がパンパンに腫れてきて、膝を曲げることが出来ない状態になっていき…
翌日、整骨院に行ってみたら「多分、靭帯が切れていると思う。これはウチじゃ手に負えないから、病院に行きなさい」と言われたのですが、土日は病院は休診…
2日間痛みに耐え、月曜に紹介してもらった、スポーツ整形外科のある都立台東病院に行ったところ、前十字靭帯損傷(ほぼ断裂状態、結局半年後に完全に切れました)に半月板損傷、軟骨損傷という重症でした(泣)

膝がパンパンに腫れていた原因は出血。
注射器で血を抜いてもらい、やっと膝が曲がるようになりましたが、先生から「落ちた時に救急車で病院に行くべきだった」と言われてしまい…
「ある程度炎症が治るまで何も出来ない」と言われ、その後1ヶ月くらい毎週通院して血を抜いてもらう始末。
当時、靭帯の再建手術はリスクの方が高いということで、靭帯は筋トレリハビリで保存することになり、半月板は内視鏡で損傷部分を取り除く手術を受けることになりました。
取り除いた半月板を見せてもらい、また内視鏡で膝の中も見せてもらいましたが、かなりボロボロになっており、何かに食いちぎられたような感じで…
この時点で、もうテニスの試合に出ることは無理だと悟り、6年間の「ジャンキー生活」にピリオドを打つことになったのでした。

その後、スポーツをする際には、金具の入った装具(私は大リーグボール養成ギブスと名付けています)を巻くことになりました。
大ハマりだったテニスですが、その後は会社のお兄さん達の遊び相手や、後に通うことになる夜学の同級生達とのお遊び程度になりました。

また、テニスにはもう一つ苦い思い出があります。
スクールに通い始めてから2年目の頃、母が亡くなりました。
母に向き合えなかった私は、テニススクールに行くことで逃げていたのです。
今になって思えば、母に対して本当に申し訳ないことをしたとしか言えません。
このお話は、後日詳しくしようと思います。

〜続く

今日はここまでです。
次回は、第89話:スポーツ・ジャンキー時代 Part 3 〜 スキー事始め に続きます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう♪

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