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【Story of Life 私の人生】 第37話:英語狂想曲

こんにちは、木原啓子です。
Story of Life 私の人生 
前回は、 第36話:クラブ活動 Part 2 〜 課外クラブ をお送りしました。
今日は、英語にまつわるお話をしようと思います。

以前の投稿で少しお話ししましたが、私は中学に入学して、初めて「英語」に触れることになりました。
というのも、両親は昭和一桁生まれ。
すなわち「戦中教育をまともに受けた」世代。
「英語」といえば「鬼畜米英の敵国」の言葉な訳です。
そういう心理的なものもあったのかも知れませんが、我が家は「英語」とは全く無縁の生活を送っていました。
小学校の国語の時間にローマ字は習いましたが、ヘボン式ではなく、訓令式。
それしか知らない状態で中学生になった私は、恥ずかしながら、自分の名前すら、まともに書くことが出来ませんでした。

一番最初に受けたショックは、英語の授業が始まって3回目くらいの授業で行われた、ミニテストの時に起こりました。
テストでは、ローマ字で自分の氏名を書くことになるのですが、訓令式のローマ字が正しいものだと思い込んでいる私は、テストの提出後に、先生に呼び出され「自分の名前ひとつ、まともに書けないのか!」と言われてしまい、冗談抜きで晴天の霹靂状態になりました。
何が間違っているのかが全く理解出来ておらず、先生に理由を聞いてみると「し」は「si」ではなく「shi」なのだと…
同様に「ち」は「ti」ではなく「chi」とか。
「そんな基本的な事も知らないとは、呆れてものが言えない」とまで言われてしまい、しまいには、ため息混じりで「せめてヘボン式のローマ字くらいは、覚えてきなさい!」とのお達しをいただいたのでした(泣)

そんな状態で、あろうことか「英会話クラブ」に入部してしまった訳ですから、先生からすれば、かなりの問題児を抱えてしまった状態だったと思います。

家に帰り、両親にその話をしたのですが、言われた一言は「お前は日本人だから、鬼畜米英の言葉よりも、ちゃんとした日本語を覚えるべきだ」でした。
まあ、それはそれで、ある意味正しいのですが…
学校の授業に「英語」がある以上、無視するわけには行かないのです。
かなり後になってから分かった事ですが、「聞こえない音は発音出来ない」から、当然英語の発音もダメ、完全にカタカナ読み。
通っている学校は、有名な進学校だから、宿題はいっぱい出るけど、青色吐息でどうにか終わらせている状態。
正直なところ、一年生の1学期は、中間試験も期末試験も英語は完全に「落ちこぼれ」に近い状態でした。
以前、英会話クラブのお話でも触れているのですが、こんな状態の時に英語の先生から「親の顔が見たい」と言われてしまったので、母は本当に先生に「親の顔を見せに」行った訳です(笑)

とはいえ、1学期が終わり、通信簿を見た両親は、さすがに「これではまずい」と気がついたようでした。

母は、仲良しのお母さん仲間に相談を持ちかけ、打開策を模索し始めました。
と同時に、「英語の聞き取り」と「ラジオ英会話」を聞くためにということで、ラジカセが、我が家にやってきました。
結果としてラジカセは、本来の目的とはかなり違う使い方をすることになるのですが(笑)、初めて「自分専用のもの」として使える家電品を与えられて、とても嬉しかったです。

さて、夏休みに入って数日後の、とある日の夕方のこと。
私は、母と、母と仲良しのお母さんに連れられて、全く知らないお宅に行くことになりました。
当時では、かなり珍しい、洋館風の一軒家にお邪魔し、とても「物静かなおばあさん」を紹介されました。
この方は、津田塾大学で英語の教授をされていたそうで、数年前にリタイアして、英語の個人レッスンをされていました。
イギリスのオックスフォード大に留学して卒業されており、当時70代前半くらいだったと思います。
その時、大人達の話を聞いていたのですが…
小学校から一緒だった同級生数人は、中学入学前からこの先生から英語を習っていたという事を初めて知りました。
あちゃー!

同級生達は、週に1日、1時間半のレッスンだったのですが、私の場合は「ローマ字」すら、まともに書けない状態だったこともあり、夏休み期間中は、1回2時間のレッスンを週3日受けることになりました。
部活の練習や、プール登校もあったので、夕方5時半に伺い、7時半までみっちり英語をマンツーマンで教わるという生活が始まりました。

マンツーマンの英語レッスンは、毎回とても緊張しました。
先生の雰囲気は、アルプスの少女ハイジに出てくる「ロッテンマイヤーさん」のような感じで、とても厳しかったです。
ただでさえ「物静か」なのに、お歳のせいか声もかなり小さかったので、お話を聞き取るのが割と大変でしたが、一方で「集中して聞かないと」という効果もあったように思います。
1日おきのレッスンなのに、毎回の宿題も多くて。
学校の宿題の量も半端なかったので、かなりアップアップ状態でした。

毎週、最後の授業の日に、先生お手製の「テスト」がありました。
最初は本当に無惨な状態でしたが、夏休みが終わる頃には、どうにか点数を取ることが出来るようになっていたので、二学期からは「週に2回のレッスンで良い」ということになりました。

夏休みの集中特訓?が功を奏したらしく、二学期になると「完全な落ちこぼれ」状態からは、どうにか脱出することが出来ました。
また、Beatlesの曲も、歌詞カードをカタカナ読み出来るようになってきて、曲に合わせて一緒に歌えるようになりました。
最初の英語学習大会に出場する頃には、英語アレルギーもかなり治まっていたと思います。

これも英会話クラブのお話で触れていますが、英語学習大会後の活動は、英検対策も入っていたこともあり、一年生の3学期に、上級生に混じって英検4級を受験。なんとか合格することが出来ました。
ここで勢いがつき、二年生の夏に三年生に混じって英検3級に挑戦。
一次試験に合格し、先輩達と一緒に拓殖大学まで二次試験を受けに行きました。
個人レッスンで、面接試験対策はしっかりしていただいていたし、落ちても二年生だから恥ずかしくないと、待ち時間中は、大緊張の先輩方を横目に、完全にリラックスモード。
また面接官は見た目が「優しそう」だったので、面接試験は、全く緊張することなく終わりました(笑)
リラックス出来たことが幸いしたのか、二次試験も無事に合格出来ました。
これには、両親も自分も、かなり驚きましたが、学校の先生方、特に英語の先生が一番驚いていていましたっけ。
「英語の先生の、あの一言があったお陰だったね」ということで、両親も感謝していました(笑)

この頃から、宿題のお供は「ラジオ」になりました。
FEN(現在のAFN)が、一番のお気に入り。
当時、夜中0時で放送が聞こえなくなってしまったので、ある意味「時計代わり」になっていました。
ネイティブの話すスピードは速すぎて、何を言っているのか殆ど聞き取れないし、大好きな洋楽しかかからないから、聞き流すにはちょうど良かったのです。
これが日本語放送だったら、何を話しているのかとか、曲の歌詞も全部分かっちゃうから、そちらに気を取られちゃう。
FENが聞こえなくなる時間に布団に入り、イヤホンで「オールナイトニッポン」を聴きながら寝落ちするという日々が、ここから長い間続きました。

後日談ですが、個人レッスンは高校一年の秋まで続けていましたが、私が病気で入退院を繰り返すようになってしまい、そこで終わりになりました。
あのまま続けていたら、もっともっと英語が出来るようになっていただろうなぁと思いますが、まあ仕方ありません。
少なくとも、英語嫌いにならなかったことだけでも、有難いと思います。

今でも洋楽は大好きですし、海外ドラマも大好き!
30代からずっと、外資系企業で働くことになりましたが、出来ないながらも「英語アレルギー」が全くなかったことで、これまで乗り越えてこられたと思います。
あの1年間の「英語狂想曲」が、今の私を作った大きな要素の一つだったんだなぁと、改めて感じている今日この頃です。

〜続く

今日はここまでです。
次回は、第38話:幻の遠泳大会 に続きます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう♪

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