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【Story of Life 私の人生】 第6話:幼稚園時代の思い出 〜 番外編 Part 1 

こんにちは、木原啓子です。
Story of Life 私の人生 
前回は、第5話:幼稚園時代の思い出 をお送りしました。
今回は、私の幼稚園時代の思い出〜番外編 Part 1、田舎へ行くお話です。
まずは母の田舎編です。

十条銀座商店街は、お盆と年始の数日しかお休みしないお店が殆どだったので、我が家は相変わらず「託児所」状態でした。
お店をやっている家の子供が多かったので、小学生になっていたお兄ちゃん、お姉ちゃんを含む元々のメンバーに加えて、幼稚園に入ってからの友達も、学校が終わると我が家に集まってきて、親の仕事が終わるまで一緒に過ごす毎日。
更に賑やかで楽しい日々が続きました。

幼稚園に入ると、当然ですが夏休み、冬休み、春休みの期間があります。
その期間は、朝から晩まで大人数で遊べるので、幼稚園とはまた一味違った、楽しい日々でした。
でもお盆になると、お店を休みにして田舎に帰る家が多くなります。
その間は誰も家に来なくなるということもあるのですが、我が家では、お盆の前後1週間くらいは、母方の田舎に連れて行かれることが定番になっていました。

高崎線に乗って、熊谷で秩父鉄道に乗り換えて、行田(現在は行田市)まで行き、そこからひたすら砂利道を歩く。
まだバスも走っていない時代、真夏の暑い中、子供の足で30分歩くのは本当にきつかったなぁ。
母の実家は、長男の兄が継いでおり、水道屋と農家を兼業していました。
お盆休みの期間を除いて、母を含めて大人達は全員で畑仕事や、水道工事に行ってしまいます。
いとこ達は、当時高校生だったから、部活で家にはいない。
ということで、まだ幼稚園児だった私だけ、ポツンとひとりで家に残され、留守番と水道屋の電話番をすることが役目となっていました。
一応、挨拶、礼儀作法と言葉遣いだけは、みっちり仕込まれていたので、幼児でも役には立っていたらしいです(笑)

お盆の期間に入ると、まずは母が育ったお寺にある、ご先祖様のお墓参りと、親戚にご挨拶周り。それが終わると、母はお盆の間はずっとお寺の手伝い。
お盆が終わったら東京に戻る、という感じでした。

また、お盆以外にも、ゴールデンウイーク前後1週間は田植え、秋は稲刈りで1週間滞在することが年中行事となっていました。
当時はまだ、田植えも稲刈りも機械化されていない時代。
親戚がお互いに協力しての手作業です。
「親兄弟には頼らない」が信条の母ですが、人手が足りないからと「兄から頼られる」と断れなかった模様。
となると、必然的に私も一緒に連れて行かれることになります。

昭和40年代の稲刈りはこんな感じ

春も、夏も、秋も、子供の私は「留守番と店の電話番」がお仕事。
友達とも遊べないし、誰も構ってくれる人もいない中、朝から夕方まで一人でポツンと家にいなければならない。
もう苦痛以外の何ものでもありませんでした。

また、当時トイレは外にしかなく、特に夜は真っ暗で怖い!
虫は大嫌いなのに、沢山飛んでいて怖い!
田舎は怖いものだらけ!!

更に辛かったのは食事でした。
埼玉は海なし県です。
魚料理といえば鯉の洗いか、雑魚やどじょうの煮付けばかり。
肉料理は殆どなし。野菜も煮物か漬物がほとんど。
子供用の料理なんて、全くありません。
魚の泥臭さが耐えられず、味の濃い漬物や煮物も沢山食べられない。
全然美味しく感じない。嫌だといえば叱られるし…

でも、自家製のお米はだけは美味しかったので、私なりの反抗をします。
手作り味噌のおにぎりと味噌汁以外は、何も食べませんでした(笑)
叔母が作ったご飯を全く口にしようとしない私は、彼女からずっと嫌味を言われ続けていましたから、私は叔母が大嫌いでした(笑)
「早く十条に帰りたい」と、毎日指折り数えて過ごしていた行田滞在の日々でした。

父方の実家については、次回お話ししようと思います。

〜続く。

今日はここまでです。
次回は、第7話:幼稚園時代の思い出 〜 番外編 Part 2 に続きます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう♪

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