「正しいこと」を巡って考えたこと
"石破や、お前は自分の言うことが正しいと思っているな。だけど自分だけが正しいと思うな。そして正しいことを言っている時は、人を傷つけることがある。決して忘れるな。じっと私の目を見て、竹下総理がそのようにおっしゃったことを、いま強く思い返している"という記事を目にして私なりに考えてみた。
「正しいこと」は人を傷つける。
「正しいこと」と上から目線で言われると気分が悪い。
「正しいこと」は支配権力と親和性がある。
「正しいこと」は不完全な人間にとって灯のようなものである。
「正しいこと」は人間が知らず求めていることであると思う。
常に誰にとって「正しいこと」なのかも問題である。一義的な正義もあるだろうけれど、多くの場合自分が正しいと思っていて相手が間違いだと思っているからである。
支配権力にとっての「正義」は人を犠牲にする。
「正義」のない社会は力による(実際的な暴力装置としての力、金銭的な力、社会的地位による力等)弱い物への蹂躙が恣に行われる。
「正しいこと」の押し付けは人を頑なにさせる。
例えば、青少年に「正しいこと」を無理やり行わせようとしても、思うようには「正しいこと」は青少年の心に沁み込まない。
しかしある時、はっと気づくことがあるかもしれない。
「正しいこと」を教え込むことは「矯正」「思想の押し付け」ではないのか?
「正しいこと」は人類の未達の理想ではないのか?
「正しいこと」が完璧に実施されたら、天国のように退屈な世界になる?
「多様性」は「正しいこと」ではないのか?
「正義」と「自由」は共存できないのか?
私は、「自由」の上位概念に「正義」があると思う。
だが、「正義」を標榜した軍人や警察官が民衆の「自由」を侵すことには抵抗がある。
学級委員長的に人の逸脱を指摘する人は嫌われる。
立憲民主党が自民党の腐敗を追求することへの忌避感はこの感情なのだと思う。
そしてポリティカル・コレクトネスが嫌われるのも同じ理由だろう。
そこでは、公平・公正の概念は脇に追いやられる。
しかし、日本独特の感性のようだ。
気候正義も、民族多様性、弱者への救済も世界では達成されるべきものとして(現在は達成できていなくても)掲げられているからだ。
困ったことに、私は「正義」が好きなのだ。
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