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「同志少女よ、敵を撃て」 逢坂冬馬著を読んで

第二次世界大戦のソ連の少女の物語である。

イワノフスカヤ村のセラフィマは数十人の村人のなかで、村の畑を荒らす害獣駆除をする母に教えられて10歳の頃から銃を扱っていた。その村でナチ・ドイツに村人は虐殺され、一人生き残ったセラフィマは赤軍のイリーナという狙撃兵に狙撃兵として育てられる。そしてナチ・ドイツへの憎しみを糧として一流の狙撃兵へと成長する。

この小説が秀逸なのは国家の意志と同調するセラフィマ、戦争という極限状態のなかで敵と認識した者を容赦なく撃ちそれに対する感情も摩滅してしまったセラフィマ、戦果を競いスコアを伸ばすことに楽しみを見いだすセラフィマ、戦場で出会った多くの同志を失い見送るセラフィマ、敵味方という区別を問い直すセラフィマ、女性を救いたいというセラフィマ、という風に場面によって変化していくセラフィマとともに戦争の実相を描き、その中で生きる人間の人生を描き、戦争に最適化してしまった狙撃兵の「戦後」を描いたところから、私たちも戦禍を疑似体験しその戦後をともに生きることを可能にしたことだと思う。

また、ソ連側から見た戦争のみならず、ドイツ側から見た戦争、女性から見た戦争、男性から見た戦争と、今まだ戦争中のウクライナから見た戦争など多面的に描かれている。

そして、戦争讃歌ではない深い人間洞察が随所に表現される。戦闘場面での高揚とともに私たちはその喪失にも言葉を失い、そして確かなる人間愛をもつ同志の言葉に救われる。

戦争が終わったらある意味人生を奪われる兵士も慣れない日常に戻っていく。それでいいのだと思わせてくれる小説である。軍事産業も永続的に利益追求せずに、戦争が終わったら民需に転用して戦後を生きてほしいと思った。

しかし、大学に進んで理学を習得し教師になろうとしたセラフィマの夢は永遠に閉ざされたままだった。同志少女たちも、戦争にならなかったら「ああしよう、こうしよう」という夢を訓練の合間に語っていたが、戦争が終わって用済みの兵士には夢を叶える場がなかったばかりではなく、その凄惨な記憶のために夢に戻ることができなかったのだ。このような描写からも、戦争は始めてはいけないというメッセージをこの本は発しているのだと思う。

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