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小さな子どもふたりを育てながらの資格取得

10ヶ月の孫の世話をしていて、座ってご飯も食べれなかったあの頃のことを思い出した。

娘が2歳と4歳の時、夫は病気で寝ていて私は昼間は娘の面倒を見て、夜、寝る間を惜しまず資格取得の勉強をしていた。

いつもいつも眠かった。
昼間は外で遊び、帰ってきたらご飯の用意して、お風呂と寝かしつけ…
抱っことおんぶで肩も腰も痛い毎日だった。
ファイナンシャルプランナーの資格は当時まだ技能士検定はなく、日本FP協会のAFPとCFP®︎のふたつ。
AFPは提案書を提出することが必須となっており、作成が終わって印刷していた時に、ガガガガガガガと音がしてプリンター🖨が壊れた。
提出期限まであと1日とか2日…
当時は今のようにネットで買い物できる時代でもなく(少なくとも私は)、まだ2歳と0歳の娘を連れてプリンターを買いに。
その時のプリンターの送料が700円だったことを今でも覚えている。
送料をケチったのか、時間がなかったのか、ふたりの子どもを連れてプリンターを持って帰ってきた。
プリンターをベビーカーに乗せ、1人をおんぶし、1人の手を引いて、さながら夜逃げ状態。
当時、母乳をあげていてガリガリだった私がこれだけの大荷物で移動していたので、通りすがりの人に声をかけられ、ずいぶん手伝ってもらった。
やっとの思いで印刷し提出することができAFPは合格❣️
CFP®︎は半年に1回試験の機会があったが、6科目を分けて受験して2年(4回の試験)かかった。
落ちて受け直した科目もいくつか…
まずテキストを試験から逆算して1日に読むページ数を決めて読んだ。そして過去3回分の過去問を3回繰り返した。
合格して母に電話で報告した時、普段泣いたことのない母の声が涙声だったことは、今でも忘れられないことのひとつだ。
それだけ私が苦労していたことを母は知っていたから。
そもそも私がなぜ資格を取得しようと思ったのかというと
ある人が「33歳は女性のターニングポイントだから」と言ったことが記憶に残っていて、子育てとは関係のない何かを始めようと探していたところ、たまたま目についたのがFP資格のチラシだった。
資料請求はしたものの迷っている私に、資格の学校から電話があり「チューターという立場で受講しないか」というお話をもらった。しかもチューターなら講座代が半額程度の10万円で良いとのこと。ちょうどその時、私の普通預金残高が10万円だったので、受講することに決めた。
チューターは受講者のテキストを配布したり、出欠をとったり、先生のアシスタント的な役割だった(これがのちに独立するきっかけとなる)。
CFP®︎の講座からはチューターの仕事を時給でもらうようになり、私は最初の講座はほぼトントン、あとの1年半はお金をもらいながら勉強することができた。
なんて、なんて、ラッキーなのだろう。
週に一度、幼いふたりを家に残しての講座通い。
私が出かける時、大泣きのふたりをふり払って、私も泣きたい気持ちで毎回講座に通った。
夫はいたが、病気で寝たきりだったので、お弁当を作っておき、お昼に目覚まし時計をセットして、「これが鳴ったら食べてね」と4歳の娘に託した。
今、こうして振り返っても涙が出てくる。
今思えば、下の子のおむつはどうしていたんだろう?
しょっちゅう娘から大泣きの電話がはいり、私はその度に廊下に出て、なんとかなんとか娘をなだめていた。
気持ちもいつも焦ってはいたけれど、実はこの週1の子どもから完全に離れてひとりで過ごす時間が私にとって救いになっていた。
勉強を始めた頃にはまだ夫は病気ではなかったが、途中で夫が病気になり、そして私が働かなくてはという状況に追われ、この頃から「私はFPになりたいです」と言いまくる。
(この言いまくったことが私の人生を進めていくることに)
周りのママ友の中には「子どもがかわいそう」とか「子どもを犠牲にして自分で好きなことをするの?」と言う人までいたけれど、「誰がこの子たちを育てるの?私しかいない」という強い気持ちを心に抱き、私は淡々と前に進む。
私が自分で生計を立てられるようになるまでには何年もかかったが、収入の多い年は普通のお父さんの何倍も稼ぐことができるまでになれた。
あの時、あのチラシがなかったら…あの電話がなかったら…私はどんな生活をしているのだろうかと思うことがある。
道を導かれるが如く、今日に繋がっている。
あとから知ったことだけど、私にとっての33歳は算命学では大運の切り替わる時期だった。そして資格取得の学校に通い始めたのは、「種を撒く」時期だった。














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