見出し画像

読書日記 和辻哲郎の『風土』2024.5.17


今日は、一日仕事が入っていない日、というより、仕事がたまたま入らなかった日といった方がいいだろう。私のような仕事をしていると、仕事の入り方は毎月違う。自然とぽっかり空いた日は、なににも増して、ほっとするようなオアシスのような一日だ。前日にいつも翌日の予定を確認して、連絡などをするので、たいてい、そのときに気づく。
そうすると、そのときから、明日はどのように過ごそうかと考え始める。大抵はオフィスで本を読みたいので、どの本を読もうかということになる。そんなウキウキした気分が、昨日は一瞬で緊張に変わった。
パソコンのトラブルだ。せっかくの時間が前日の夜から、翌日の午前中それで終わってしまった。
解決してみれば、ほんとに簡単な作業で改善するものだったが、不慣れ者はそれも絶望的気分で長時間過ごすことになる。

ひとまず、安心してこの後過ごせることに感謝しよう。

先日来の本の流れが、フリーダカーロからゴッホの手紙、平山郁夫画集、クリシュナムルティ、ときた。
今日は、以前、岸見先生に勧めていただいた、和辻哲郎の『風土』に取り組もうと思った。私が、砂漠の民に関心があり、この本の中にも砂漠が取り上げられているからだ。砂漠の民への関心はまた別の機会に書こうと思う。
和辻哲郎の内容はとても深いので、私には難しく感じて、何度も途中で投げ出している。
それでも、今日は、また序言から読み始めて、「時間制と空間性相即しきたる」というところを読んだとき、今まで感じなかった繋がり感と気づきがあった。
クリシュナムルティの本にあった文を思い出したからだ。
「頭脳はあらゆる意識の中心であり、意識がより注意深く鋭敏であれば、頭脳はより明晰になる。頭脳は記憶という過去の中心であり、経験や知識という伝統の貯蔵庫である。そのため頭脳は限界づけられ、条件づけられている。それは計画し、考えだし、推論する。だがそれは限界のうちで、時空の内で機能するのである。従ってそれは全体的なものの、包括的なもの、完全なものを明確に述べたり理解したりすることはできない。完全なもの、全体的なものは心マインドである。それは空っぽ、完全に空っぽであり、この空性の故に、頭脳は時空の内に存在する。頭脳がその制約、羨望、野心を自ら浄化した時にのみ、それは完全なものを理解することができる。愛がこの完全なものである。」
これは、『クリシュナムルティの神秘体験』の6月19日の記述だ。
これらは、最近私が読んでいる本や学びも繋がりを持っている文だ。
私の中では、時間と文字がそれを限界づけていると思っていたが、クリシュナムルティがいう空間もそうなのだと知り、驚いたのだ。
その驚きの次に読んだのが先に取り上げた時間制と空間性だった。
この本の中で、和辻はハイデッガーが時間制に焦点をあてたものの、空間性に即していないことを取り上げている。
私たち人間が、知らぬ間にどうしようもなく影響を受けるのが風土である。そこを無視するのは、たしかに数学的な厳密さと片手落ち感がある。
私が現在している仕事にも、組織や社会風土は影響を与え、そこを無視しては物事が進んでいかないのを痛感している。

風土への視点は本当は必要不可欠なのに、私たちはつい、そこを見ずに、個だけを切り取って考えたくなる。それは、本質でも、普遍でもないだろう。なぜそのようなことをしたくなるのかと言えば、風土まで視野に入れると、混沌とし過ぎて全く手に負えない状態になるからに他ならない。それでも、私たちは、そこを見なければならないだろう。

この本は、ただ風土のみを取り上げて論じたとある。
実際、読んでみて、どう感じるかわからないが、ここに読む前の今の考えを書き留めておく。
今度は投げ出しませんように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?