一つの事実として常に「正しい」認識というものは実際にあるが、それは論理学的トートロジーとして「正しい」わけではない

A→Bが「正しい」とはどういうことなのか ~真理(値)表とは何なのか
http://miya.aki.gs/miya/miya_report40.pdf

に7章と8章を加えました。7章は前回のブログ記事と似たような内容です(修正はしています)。8章はまとめです。

8.一つの事実として常に「正しい」認識というものは実際にあるが、それは論理学的トートロジーとして「正しい」わけではない

 私たちの日常的、または科学的思考において論理学的トートロジーというものがアプリオリに存在しているわけではない。一つの事実として(特定の条件のもとで)常に「正しい」事実認識というものは実際にある。繰り返すがそれはあくまで一つの事実として常に正しいのであって論理学的トートロジーとして正しいわけではない。これは論理学がもたらす誤った認識の一つである。
 少なくともA∨¬Aはトートロジーではないか、と問われるかもしれない。しかしそれも一つの事実として正しいだけであって、一見Aは真と偽との真理値をとりうるように見えるかもしれないが、結局のところA∨¬Aが¬A∨Aとなり単に書く順番が入れ替わっただけになる。A∨¬Aの持つ意味(∨の持つ意味)としてAと¬Aとの順番はそもそも問われないはずである。
 日常的論理、さらには科学研究で用いられる論理において、アプリオリに論理学的トートロジーというものが存在しているわけではない。日常的(さらには科学的)事実と相容れない真理表(真理値表)という手法を導入し、架空の真理値というものを設定した上でトートロジーというものがあるかのように見せかけているだけなのである。
 まずこの事実を認識した上で、電子回路と論理というものの擦り合わせを行うべきであって、(くどくて申し訳ないが)私たちの日常論理として論理学的トートロジーが(アプリオリとして)あるという誤った認識は捨てなければならないと思うのだ。

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