哲学は本当に”愛知”なのだろうか?

哲学はいったい何の”知”をもたらすものなのだろうか?

私にとって、一般的な哲学とは”空論への崇拝”にしか見えないのだが・・・プラトン、カント、フッサール、ハイデガー・・・

哲学から自然科学が生まれたようなことが言われるのだが・・・実際のところ、古代ギリシア人たちの思索の中から事実・現実に即した「正しい」認識を求めるものが(時代を経て)科学へと発展し、事実・現実に即していない「正しくない」認識が哲学として残ったようにも思える。

・愛知というより反知識(特に経験的知識)、科学批判
・生きづらさ⇒現世、とくに日常生活(的感覚)の否定
・抽象化による論点のすり替え(答えを出しうる現実的問題を答えの出せない抽象的問題へと変換する)

知を愛するのだったら・・・科学に関する本を読んだり、日々の生活の知恵ならば人生のベテランの方にいろいろ話を聞けばよいし、ビジネスや仕事の話だったらその専門家に話を聞けばよい(専門家ではない人たちの見方が発想の転換になったりすることもあるが)。

ソクラテスのように、専門家のところに出向いて「あなたは何もわかっていない」と論破することが”愛知”だとでも言うのだろうか? 

科学哲学も科学研究を助けるというより、邪魔をしているだけのように思える。言葉の意味の問題、数学や論理の正しさの根拠の問題、そして因果関係の問題・・・哲学者たちは(すべてとは言わないが)ほぼ間違っている。

哲学は科学ではない。科学が成立する前提を問うものだからだ。しかし哲学が「正しい」ものであろうとするならば、それは徹底して「事実学」でなくてはならない。事実に即するものが「正しい」認識だからだ。

「事実学」であって「本質学」では決してない。そもそも事実認識・事実関係(因果関係に関する認識)というものが先にあり、それらのどの部分に注目するのかによって本質というものが決まって来る。本質は事実関係の前提なしに見出されるものではないのだ。

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『存在と時間』の序説を読み終えて、第一部に入ったところ。仕事の合間に少しづつ進めている。とりあえず序説第二章の分析もある程度まとめておきたいのだが・・・はっきり言って出鱈目、空想の産物以外の何物でもない。こんなものが正式な学問として大学などで教えられたり研究されたりしていることに憤りさえ感じる。


<関連するレポート>

『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析
~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解

http://miya.aki.gs/miya/miya_report23.pdf

・・・『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店)第II部(55ページ以降)、因果関係・法則に関するヴェーバーの見解、そして理念型に基づいたヴェーバーの方法論の問題点を指摘するものです。



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