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「ニヒリズム」という考え方の問題点~問題は、存在の無根拠性ではなく“100か0思考”


「ニヒリズム」という考え方の問題点
~問題は、存在の無根拠性ではなく"100か0思考"

http://miya.aki.gs/miya/miya_report46.pdf

書きました!  ここでは目次と第一章を掲載します。

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 本稿は、古東哲明著『ハイデガー=存在神秘の哲学』(講談社現代新書、2002年)について分析した拙著、

ハイデガー理論における「概念の実体化の錯誤」
~古東哲明著『ハイデガー=存在神秘の哲学』に関するいくつかのコメント、およびヒューム理論との比較

http://miya.aki.gs/miya/miya_report44.pdf

の続編である。上記レポートでは扱っていなかった第五章「惑星帝国の歩き方」(古東、193~272ページ)に対し、特にニヒリズムに関してコメントするものである。

 結論から言えば、ニヒリズムそのものというより、ニヒリズムについて考える(おそらく一部の)哲学者たちの思考パターンの方がむしろ問題なのではないか。一部がだめなら全部だめ・・・と失敗や悪い事柄のみひたすら取り上げ全部を否定したり、絶対的な目的や指針、理念がないからといって目的、指針、理念に向かって行動することを否定したり空虚だと考えたりする、いわゆる“100か0思考”に陥ってはいないだろうか。

<目次>

()内はページ
1.正しい事実認識に基づいているのか(2)
2.”100か0思考”に陥ってしまっている(3)
3.ニヒリズムは<存在問題>ではない(4)
 3.1.「現前」していることは「存在」していることである
 3.2. 念々起滅・刹那生起=”流れゆく瞬間”という一般的時間認識をエポケーできていない考え方
 3.3. 存在は「隠蔽」などされていない
<引用文献> (7)


1.正しい事実認識に基づいているのか

一日は《今この時この場》。それだけが、リアルな時であり空間だったということである。一日はぶ厚く奥行をおびていたし、時々に生きている場所には、幾層にも重なり合った意味表情があふれていた。濃密なイマという瞬間と、無尽蔵なココという場所が、ゆったりおおきな振幅をえがいて、すっかり小宇宙をつくりあげていたように思う。

(古東、195ページ)

・・・この説明に共感する人はどれくらいいるのだろうか? 子どもの頃に“幾層にも重なり合った意味表情”など読み取っていただろうか? むしろ年を重ね様々な経験を経てきた人だからこそそういうものが感じ取れるようになると思うのだが。
 子どもの頃は集中力が続かない。時間を忘れ物事に打ち込めるようになるのもむしろ大人になってからだと思う。子どもの頃は知識もないから遠い未来について明確に想像はできないが、明日のことやら今日の晩御飯のことなどは想像できる。夏休みに何をして遊ぼうとか、クリスマスのプレゼントは何が欲しいとか、お年玉で何を買おうかとか考えたりもする。瞬間瞬間に生きていたという実感は少なくとも私にはない(むしろ大人になってからの方がそういう場面が多い気がする)。目標を持つからこそ瞬間瞬間が大事に思えたりもするのではないだろうか。
 こういう”昔はよかった”、”子どもの頃はよかった”という回顧は時折見かけるのであるが、よくよく振り返ってみれば、本当にそうなのか疑わしいものである。もちろん子どもの頃の方が実際に良かったという人がいることも否定はしないのだが。しかしそういう場合も子どもの頃は気楽で良かったとか、責任がなくて楽だったとか、現在のつらさと比較したものなのだろうと思う(ほかにも人によっていろいろ事情はあるだろう)。古東氏の説明は、過去を美化しすぎているように思えるのだ。
 周囲にいる人々の気持ちを推測したり、その人たちの人生について思いを馳せたり、まったく知らない人に関する本を読んで、その人の人生をささやかながらかみしめ味わうなんてことは、子どもにはできないことである。
 様々な失敗をしてきたからこそ、他人の失敗に対し寛容になれたり気配りが出来たりする。打ち込めることが見つからなかったり、満足できる仕事が見つからなかった時期があったからこそ、あることに打ち込めたり一生懸命仕事をできることに有難みを感じたりもできる(ブラック企業は論外であるが)。


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