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電流学において述語論理は成立するのか?

※ これまでの記事は以下のマガジンを見てください。

電流が流れるか流れないか学(電流学)|カピ哲!|note

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 繰り返し説明してきたが、電流学(電流が流れるか流れないか学)において命題とはあくまで特定の電子回路であり、電流が流れるか流れないかを問うものであって真偽を問う論理ではない。
 たとえばA→BのAやBに一般的な命題、つまり(真偽を問うことのできる)言葉による事実・事態の説明文を挿入・代入することは”原理的に”誤謬である。代入することができても、それが常に正しいかどうかの保証は得られない。なぜなら論理学における命題論理は真偽判断とは別次元の人工言語であり、私たちの日常的・一般的真偽判断に基づいた事実認識とは別次元の論理であるからだ。
 述語論理は議論領域、つまり具体的な対象の範囲を定めた上で成立する論理である。戸田山氏は次のように述べられている。

言語の意味は他の言語への翻訳ではなく,言語が世界を描写することによって与えられるからだ。

(戸田山和久著『論理学をつくる』名古屋大学出版会、135ページ)

・・・世界という議論の分かれる用語を持ち出してはいるが、これは結局のところ言葉が意味を持つということは言葉に対応する具体的対象(物・事象)を有しているということなのだ。具体的対象を有しているからこそ真偽が問える。それがモデルであろうと具体的事物であろうとである。D={■, ●,◆}であろうと(戸田山、137ページの事例)、D=N(自然数の集合)であろうと(戸田山、137ページの事例)、D={◇,◆,☆,▼,◎,●,¥,$,₤}であろうと(戸田山、138ページの事例)具体的対象を有していることには変わりない。
 事実として現れる具体的事象の真偽について論じるということは、そこに具体的事実関係における一般的認識が適用される。
 私たちの日常的事実認識に基づく真偽判断を前提としない命題論理を、私たちの日常的・一般的事実認識に基づく真偽判断を前提とする、”すべて(∀)”、”ある(∃)”によって拡張することは根本的に・原理的に不可能なのである。
 もちろん命題論理のすべてが私たちの日常的真偽判断と乖離しているわけではなく、一部(論理学者や分析哲学者たちの言う)自然言語から拝借しているのも事実である。
 つまり私たちの日常的真偽判断における論理と”たまたま”合致していれば正しい認識となるし、合致していなければ間違いとなる。そしてどこで正しくてどこで間違いになるかは、個々の事例において実際に事実関係と照らし合わせ検証するしかない。
 私たちはA→(B→A)という判断が日常的真偽判断から見ても間違っていることを知っている。日が昇ったという事実から「鳥が空を飛ぶから日が昇る」という関係を導くことはできないし、それが馬であるという事実から「それが鳥ならば馬である」という包含関係を導くこともできない。

 述語論理とは異なるが、例えば

空集合Φは任意の集合Aの部分集合である。なぜなら,x∈Φ→x∈Aは,前件が偽だからつねに成り立つ。

(戸田山、前掲書、353ページ)

・・・という考え方がまさにそれである。特定の対象の集合を扱う論理の真偽において、事実関係における真偽とは別論理の命題論理を適用するのは基本的に誤謬なのである。それが常に「正しい」保証はどこにもないのだ。


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