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命題を(論理学的)トートロジーと決めつけた上でA→Bの真理値を逆算するのは正当か?

戸田山和久著『論理学をつくる』(名古屋大学出版会、2000年)
3.10.2 「→」の定義の正当化(82~83ページ)の手法は、

(1) A→BとB→Aとは論理的同値ではない。
(2) ((A→B)∧(B→C))→(A→C)はトートロジーである。
この2つの制約を満たすように「→」を真理表により定義

(戸田山、82ページ)

・・・というものである。(1)(2)から条件法の(前件が偽の場合の)真理値を逆算する、というのが戸田山氏の手法である。

私たちの日常的事実認識においては、

(1) A→BとB→Aが同値になるかならないかは、具体的事実が指し示すだけ。同値ではだめという必然性はない。
(2) ((A→B)∧(B→C))→(A→C)が”論理学的”トートロジーである必然性はない。一般的に(たぶん私たちが)三段論法が正しいと思うのは、少なくともA、B、Cがともに真のときであると思う。

・・・これらのことを考えたとき、そもそもトートロジーとは何なのか、真理値表とは何なのか、という根本的問題についても考え直す必要性を感じてしまうのである。

そもそも真理値表において下の二行は必要なのだろうか・・・?

前原昭二著『記号論理入門』(日本評論社、新装版、2005年)でも、論理学的トートロジー(とされるもの)から真理値表が逆算される、という手法がとられている。

そもそも演繹論理は、それぞれの命題が真、¬がついたときには偽という前提で構築されているように思える。たとえば「2つの命題AおよびA→Bの真理値がともに⋎であるならば,Bという命題の真理値も⋎である」(前原、62ページ)というふうにである。

そもそもAとBを前提としてA∧Bが成立する場合、Bが偽だったら成立するはずがない。AもBも真だからこそA∧Bが成立するのである(前原、42ページにおけるB→(A→B)の証明に関して)。

・・・こういった日常的事実認識に基づく真理関係から構築した演繹論理であるはずなのに、ある時突然、Aが偽のとき、Bが偽のとき・・・という話になってくるのである。これはおかしい。

B→(A→B)は、AもBも真であるという前提で演繹された論理である。BかAが偽だったら成立するはずがない(もちろんAとBとの関係性の問題もあるのだが)。

それなのに、B→(A→B)が急に(論理学的トートロジー)であるという話になり、そこから(+その他の二つの命題から)A→Bの真理値が逆算される、という手法(前原、62ページ)がとられてしまっているのである。

トートロジーとはいったい何なのか・・・?

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