見出し画像

ヒューム哲学をきちんと評価してほしい

 なんだかヒューム哲学人気ないですね・・・

 カントはヒュームを超えた(?)ような見方が一般的ですが、私から言わせれば、カントはヒュームの重要な指摘・見解を台無しにしてしまっただけだと思います。カントの理論は現実離れしていて、まるで架空の世界の話を読んでいるようです。カント自身が考えた仮想モデルなのだと思います。

 ちょっと前に、ヒュームの『人性論』(抄訳ですが)を読んで批判的分析をしました。下にその一覧が示してあります。ヒュームの見解には素晴らしいものが多いですが、その意義をヒューム自身がどこまで気づいているのかよくわかりません。
 ヒュームは因果律を否定してはいません(因果律を用いて説明をしようとしている箇所も多いです)。そしてヒュームの因果律についての見解は、むしろ現代科学の手法そのものであるように思えます。
 また特筆すべきは時間論です。ヒュームは時間論に関して究極的な答えを提示しています。なんで誰も評価しないのだ!!!(声を大にして言いたい! マクタガート読む前にヒューム読め~~)
 時間論に関しては、以下のレポートの14~17ページで説明しています。

ヒューム『人性論』分析:「関係」について http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf

(※直接ダウンロードできない場合は、以下のページをお試しください)
純粋経験論(カテゴリー別) 


 ただヒューム自身、自らの見解の意義をどこまで理解しているのかよく分からないところがあります。おかしな懐疑論に陥ってだんだんと内容がグダグダになっていくのです(抄訳ではない『人間本性論』を読んでいるとさらにグダグダ感が増します)。そこに焦点を当ててしまうと、確かにヒュームを評価することはできないとは思います。
 因果律にしても、理論が不徹底でかなりブレが生じています。おかしいところは確かにたくさんあります。しかし、かなり重要な論点を提示していることは確かです。

 現代のヒューム研究者の論文も読んでみたりしたのですが、ヒューム理論の重要な部分を全然拾えてない感じがします(時間論に関しても!)。分析哲学に毒されて正当な評価ができずにいる印象も受けます。
 抄訳『人性論』には一ノ瀬氏の解説が掲載されていますが、やはりヒュームの真価が理解されていないのでは・・・と思ってしまいます。

 哲学者という人たち、あるいは哲学をしたいと思うような人たちは経験論という手法が苦手なのかな・・・? ジェイムズや西田も含めて。

 ヒューム理論の批判的分析に関しては、以下のページに私のレポートを掲載しています。

純粋経験論(カテゴリー別)http://miya.aki.gs/mblog/category.html


一応、私の書いたレポート一覧もここで紹介しておきます。そのうち抄訳でない『人間本性論』を読んでまた別のレポートを書くかもしれません。

ヒューム『人性論』分析:「関係」について http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)における「関係」に関する分析です。経験が(経験則としての)知識として成立する際に「関係」というものは避けて通れません。経験どうしの「関係」とはいかなるものなのか、「関係」を経験論として説明するとはどういうことなのか、ヒュームの見解を批判的に検証することで明らかにしています。

ヒューム『人性論』分析:記憶と想像の違いとは? http://miya.aki.gs/miya/miya_report27.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編です。因果関係を構成する印象・観念における、記憶の位置づけ、記憶と想像との違いについてのヒュームの説明の問題点を明らかにし、いかに修正すれば実際の具体的経験と齟齬なく説明できるのか論じています。

ヒューム『人性論』分析:「信念」について http://miya.aki.gs/miya/miya_report28.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編、「信念」に関するものです。ヒュームは「印象⇒観念」という枠組みに固執するあまり、信念の問題における情念・情動的感覚の位置づけを見誤っている、そのため信念とは何か正確に説明できなかったと言えます。そもそも信念の問題は、「印象⇒観念」という枠組み、あるいは観念の「勢いや活気」というもので一律に説明できるようなシンプルなものではありません。

ヒューム『人性論』分析:「同一性」について http://miya.aki.gs/miya/miya_report29.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編、「同一性」に関するものです。ヒュームは同一性も「知覚」であると説明しているにもかかわらず、一方で「万物は流転する」のような哲学的常識に縛られ、印象は常に変化・消失し、同じものは現れないという"思い込み"を取り払えないまま同一性について説明しようとして袋小路に入り込んでいるように思えます。
 しかし、私たちが「同じだ」と思うのは、ただ"端的に"そう思うのであって、「違う」「変化した」と"端的に"思うのと同じことなのです。

ヒューム『人性論』分析:「存在」について http://miya.aki.gs/miya/miya_report30.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編、「存在」に関するものです。存在に関しては、「存在の観念は、存在しているとわれわれが思いいだくものの観念とまさしく同じもの」というヒュームの言葉が既にその解答になっているように思えます。存在の有無(に対する信念)は究極的には知覚の有無にたどり着く。
 しかし、存在の信念の「原因」を問う過程でヒュームは思考の袋小路に入ってしまったように思えます。因果関係、そして同一性・恒常性に関するヒューム自身の誤解が、説明を混乱させているのです。

ヒューム『人性論』分析:経験論における「経験」の位置づけについて http://miya.aki.gs/miya/miya_report31.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編です。ヒューム理論における「経験」の位置づけ、「経験⇒原理⇒観念」という分析フォーマットの問題点を指摘するものです。経験がいかに知識や関係(の観念)をもたらすのかではなく、知識や関係そのものがいかに経験として現れているのかを示すことが経験論なのであって、それらをもたらす「原理」「原因」を問うたところで、一元的な回答を得ることなどできないのです。

いいなと思ったら応援しよう!