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知っていなければ主張もできないし議論もできない

プラトン「ソクラテスの弁明」(プラトン著『ソクラテスの弁明・クリトン』三嶋輝夫・田中享英訳、1998年、9~102ページ)分析つづきです。

過去の記事は、以下のマガジンをどうぞ。
ソクラテス批判|カピ哲!|note

引用部分は「ソクラテスの弁明」からのものです。
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実際、だれ一人として死というものを知りもしなければ、ひょっとするとそれは人間にとってありとあらゆる善いものの中でも最大の善であるかも知れないということも知らないくせに、それが災いの中でも最大のものであるということをまるでよく知っているかのように恐れているのです。

(プラトン、47ページ)

・・・まさにソクラテス自身は「死」について“知っている”とでも言いたげである。もっとも、「死」に関しての知識がなければ、「死」について知っていなければ、「討ち死にする危険」(プラトン、47ページ)云々の議論などできないはずである。何一つ知らなければ死に関連する議論などできようはずもないのだ。
 死を恐れていることが無知(プラトン、47ページ)だと断言できるソクラテスは、他の人よりも死について知っていると言うのだろうか? 彼は知らないと言っている。わけがわからない。整合性とはどこの世界の話であろうか? (※注)
 結局、ソクラテスの発言は議論(というか言い合い)に勝つための、その場だけのテクニックにすぎないのだ。
 「君んちにいる犬見たいから今度連れて来て」と言われ、犬を連れて来て見せる。当然犬について知っているわけである。様々な「犬」について想像をめぐらすこともできるし、「犬」がいれば「犬だ」と指し示すこともできる。まさか犬について何一つ知らないとは言えないであろう。もちろん犬の性質やら犬が何を考えたり感じたりしているのかとか、”すべて”を知っているわけでもない。しかし何一つ知らないわけではない。
 それでもソクラテスのように「犬とは何か」なんて(漠然とした)質問をされたらおそらく答えに窮してしまうだろう。そんな漠然とした問いに答えようがないからだ。そのような問いは学問の領域に属さないものなのだと言えよう。
 犬を長い間世話してきて、いろんな犬の表情やら行動やら、様々なことを知識として得てきた人がいたとする。突然、犬を飼ったこともなく全然関わりもなかった人がやってきて「犬とは何か」と問いただす。漠然とした問いに対し答えに窮していたら、その訪問者に「あなたは犬について何一つ知らない」と断言されるのだ。腹が立つのも当然であろう。
 ソクラテスは次のように主張する。

不正を犯したり、それが神であれ、人間であれ、自分よりも優れた者に従わないことが醜悪であるということは、知っているのです。

(プラトン、48ページ)

・・・では「不正」とは何か「人間」とは何か、「優れた」「優れた者」とは何か、「醜悪」とは何か・・・問いただせばきりがないであろう。
 それでもソクラテス自身、そしてソクラテスの言う言葉を聞いていた人たち、皆(あるいはほとんど)がその言葉の意味を知っているからこそ、議論(あるいは言い合い)が成立するのである。たとえお互いに共感・合意することができなくても相手が言っていることはそれなりに理解できているということなのだ。


(※注)三嶋輝夫著「『ソクラテスの弁明』解題」(103~118ページ)においてもこういった不整合について議論されている。特に「不知の自覚と知」(三嶋、109~112ページ)とソクラテスの政治姿勢について(三嶋、112~118ページ)である。前者に関しては、この不整合を”難問”(三嶋、112ページ)とし、様々な研究者たちのつじつま合わせ的見解を紹介しているのだが、私見としては、単なる不整合で良いのではないかと考える。議論を完全に整合的に進めること自体、なかなか難しいことであるし、ソクラテスに至ってはそのあたり特に無頓着であるように思えるのだ。
 とにもかくにも、ソクラテスを“学問的な”哲学者として考えるには無理がありすぎる。

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