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そこには言葉(名・命題)と事態しかない~ウィトゲンシュタインの言語観における問題点

野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』分析(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(野矢茂樹著)|カピ哲!|note)の続きですが・・・ここで、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(野矢茂樹訳、岩波新書、2003年)本文を検証してみようと思います。

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 下記の説明から、言語に関するウィトゲンシュタインの見解についてどのように解釈すべきなのだろうか? 野矢氏の説明と少し印象が違うのだが・・・

3.032  「論理に反する」ことを言語で描写することはできない。それは、幾何学において、空間の法則に反する図形を座標で表わしたり、存在しない点の座標を示したりすることができないのと同様である。
3.0321  なるほど物理法則に反した事態を空間的に描写することはできよう。しかし、幾何法則に反した事態を空間的に描写することはできない。

(ウィトゲンシュタイン著『論理哲学論考』野矢茂樹訳、岩波新書、23ページ)

・・・ここで「言語で描写する」とはいったいどういうことであろうか? 私たちは「四辺からなる三角形」「平面において交わる平行線」というふうに言葉を紡ぐことができるのである。そしてそれが実際に存在しうるかどうか検証する作業を行うこともできる(この一連の行為が「思考」でなくて何であろうか?)。
 問題は、「四辺からなる三角形」「平面において交わる平行線」という言葉に対応する事態を描写することができない、ということなのである(上記3.0321で示されているように)。もちろん想像することさえできない。まさにこれが論理空間ではないということの証左なのである。言葉はある。しかし事態(もちろん事実も)がないのである。
 つまりこれこそが言語表現の有意味性の限界を示すということなのである。有意味とは事態(もちろん事実でも良い)が言葉の「意味」として現れうるということに他ならない。一方、言語表現に対応する事態を描写できない場合、それが無意味・ナンセンスということなのである。
 論理に反する=事態として現れない、ということであり、事態として現れない=論理に反する、ということなのである。言語の有意味性、論理空間、可能世界についてこれがすべてである。
 しかし、「像」という用語に関してウィトゲンシュタインの説明にブレが見られるように思える。

2.22  像は、描写内容の真偽とは独立に、その写像形式によって描写を行なう。
2.221  像が描写するもの、それが像の意味である。
2.222  像の真偽は、像の意味と現実との一致・不一致である。
2.223  像の真偽を知るためには、われわれは像を現実と比較しなければならない
2.224  ただ像だけを見ても、その真偽は分からない。

(ウィトゲンシュタイン、22ページ)

・・・「像が描写するもの、それが像の意味である」という説明は不正確ではなかろうか。そうではなく描写したものが像なのであって、像そのものが「意味」なのである。「像の意味」という表現にウィトゲンシュタインのブレが見て取れる。像が意味でなかったら意味はいったいどこにあるのか? 「意味」という言葉に対応する対象(事態・事実)はどこにあるのだろうか?
 野矢氏の言われるようにウィトゲンシュタインは像と言葉とを混同している節があるのだが、もしそうならば像ではなく「命題」あるいは「名」と言うべきではないだろうか。わざわざ「像」という用語を持ち出す必要は全くない。そして、言葉が描写するものは事態であり(事態でしかない)、事態=意味ということになる。
 しかし「その写像形式によって描写を行う」という文章を見れば、一般的に言う(知覚される)像というものを指しているようにも考えられるのである。このあたり非常にあいまいに思える。
 像を後者と捉えれば(本稿ではこちらを採用する)、像=事態=想像可能性・描写可能性(像を想像したり描いたりできる)であり(ならばわざわざ「像」という用語を持ち出す必要もないのだが・・・)、事態・像そのものは命題の真偽について語るものではない。命題の真偽は命題と現実との一致・不一致で決定されるものである。
 ただ、像を想像した・描いたという”事実”に関して真偽を問われた場合はどうなるであろうか? 首の短いキリンの絵を描いたとする。「これはキリンである」と(命題として)言語表現したとき、真偽を問うコンテクストを現実世界に置けば(一種の議論領域とでも言えようか)、現実のキリンとは別物であるから「偽」と判断される。
 しかし首が短くなってしまったキリンの話を絵本にしたとして、その絵本が描く世界に関して問うのであれば、「この絵はキリンの絵である」は「真」となる。
 「Aさんは首の短いキリンの絵を描いた」という命題(?)は、Aさんが実際にそうしたのであればもちろん真である。
 さらにウィトゲンシュタインは「シンボル」という言葉を持ち出してくる。

3.31  命題の意味を特徴づける命題の各部分を、私は表現(シンボル)と呼ぶ。

(ウィトゲンシュタイン、29ページ)

3.317  命題変項に対する値の確定とは、この変項を共通のメルクマールとする諸命題を列挙することである。
 値を画定するとは、諸命題を記述することである。
 それゆえ、値を画定することはただシンボルにのみ関わり、その意味には関わらない。
 値の確定がシンボルの記述にすぎず、それが何を表しているかには触れないということ、値の確定にとって本質的なのはこのことだけである。

(ウィトゲンシュタイン、31ページ)

・・・シンボルとはいったい何なのか? そこにあるのは言葉、そしてそれに対応する像・事態しかない。言葉と像・事態しかない場面において、表現・シンボルとはいったい何たりえるのか、ということである。シンボルという「名」に対応する像・事態を描くこともできない(事実として現れることもない)、つまりウィトゲンシュタイン自身の言う「ナンセンス」になってしまっていないだろうか?
 像と”表現”しようと、シンボルと”表現”しようと、そこにあるのは言葉(名)と事態だけなのである。もしウィトゲンシュタインがシンボルを命題の部分として捉えようとしているのであれば、それはまさに「名」のことであるし、シンボルを像・事態として捉えているのであればそれは像・事態である。取り立ててシンボルという用語をここで持ち出す意義など見当たらない。
 「値の確定がシンボルの記述にすぎず、それが何を表しているかには触れない」と言うものの、値をシンボル(実質的には「名」)の記述として表現するとき、それを確定するものはその名を用いた命題に対応する(意味としての)像・事態を描けるのかどうかにかかっているのである。

3.32  記号はシンボルの知覚可能な側面である。

(ウィトゲンシュタイン、32ページ)

という説明はまさに言葉と像・事態とを混同しているのではなかろうか。知覚可能なのであればそれは像・事態である。もちろん言葉も視覚や聴覚として(事実として)現れるものである。しかしここにおいて「知覚可能」というのはそういうことではなく、命題(言語表現)の有意味性について問うているのだから、言語表現されたものが知覚可能であるということは、それが像・事態(あるいは事実)として知覚されうる(想像したり描写したりできる)ということに他ならない。
 こうしたウィトゲンシュタインの見解のブレ・混同について理解した上で下記の文章を読めば、ラッセルのパラドクスの原因というものを明らかにすることができると思う。

3.325 こうした誤謬を避けるために、異なるシンボルに同じ記号が使用されていたり、表現の仕方の異なる記号が同じ仕方で使用されているかのような見かけをもっていたりすることのない、誤謬を配した記号言語、すなわち、論文的文法――論理的構文論――を忠実に反映した記号言語を用いなければならない。

(ウィトゲンシュタイン、33ページ)

3.326記号からシンボルを読み取るには、有意味な記号使用に目を向けねばならない。

(ウィトゲンシュタイン、33ページ)

・・・つまり言葉が同じでも違う像・事態を描写している場合、それらを混同してはならないということである。そしてナンセンスではなく有意味な(=事態が描ける)言葉のみを採用しなければならないのである。

3.33  論理的構文論においては、断じて記号の意味が役割を果たすようなことがあってはならない。論理的構文論は記号の意味を論じることなく立てられねばならず、そこではただ諸表現を記述することだけが前提にされうる。

(ウィトゲンシュタイン、34ページ)

このウィトゲンシュタインの主張に反して、記号(というか命題や名)の意味(=像・事態)を考慮するからこそ誤謬を防ぐことができる。言語によって指し示された諸表現が記号の意味となるのである。
 ラッセルの誤りは「記号の規則を立てるのに記号の意味を論じなければならなかった」(ウィトゲンシュタイン、34ページ)ことではなく、同じ言葉だが異なる意味(=事態)を持つものを同じように扱ってしまったという誤謬にあるのだと言えよう。


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