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ヒュームの時間・空間論

ヒューム『人性論』分析:「関係」について http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf 
(※ 純粋経験論:カテゴリーのページからもダウンロードできます

の15~17ページ、時間・空間に関して説明したページを掲載します。

なお、時間論については

哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義( http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf )
でより詳細に論じています。

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本文の前に、印象・観念について説明しておきます。

 ヒュームは抽象観念・一般観念といえども、結局のところ「特定の名辞に結びつけられた個別的観念(particular ideas)」(ヒューム、29ページ)にほかならない、「抽象観念は、その代表(表象)の働き(representation)においてどれほど一般的になろうとも、それ自体においては個別的なものなのである」(ヒューム、32ページ)と述べている。実際私たちの日々の経験を振り返ってみても、実際そうなっている。
 ちなみに「印象」とは、「心に初めて現れるわれわれの諸感覚、諸情念、諸情動のすべて」 (ヒューム、13ページ)、「観念」とは「思考や推論に現われる、それら印象の生気のない像」 (faint image)(ヒューム、13ページ)である。ヒュームは人間の精神に現われるすべての知覚(perceptions)がこの印象と観念の二種類に分かれるとしている 。「観念(idea)」と呼ばれているものの、具体的には心像(image)のことなのである。

引用:デイヴィッド・ヒューム著『人間本性論』木曾好能訳、法政大学出版局、1995年

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以下、本文です。引用部分はすべて、ヒューム著『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、2010年からのものです。
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 時間・空間に関して、ヒュームは次のように説明している。

 時間の観念は、印象だけでなく観念も含めて、また感覚の印象だけでなく反省の印象も含めて、あらゆる種類の知覚の継起に起因するのであるから、この観念は空間の観念よりもさらに多種多様なものを包括し、それでいて、想像に現れるときには一定の量と質とを持った、ある特定の個別観念によって代表されるような、そういう抽象観念の一例を与えるであろう。
 空間の観念が目に見えるかあるいは触れられる対象の配列から受け取られると同様に、われわれが時間の観念を形作るのも観念や印象の継起によるのであって、時間がそれだけで現れたり、心に気づかれたりするのは不可能である。われわれが継起する知覚を持たないときにはどんな場合でも、たとえ対象に実際には継起があるとしたところで、われわれは時間についてなにも知ることはできないのである。時間は、それだけで心に現れたり、動かず変化しない対象に伴って心に現れたりはできず、つねに、ある変化する対象の知覚しうる継起によって見出される、と結論してもよかろう。
 しかしながら、時間の観念が起因するのは、ほかの印象と混じり合い、しかもほかの印象からはっきり判別されるような、そういう一つの特殊な印象なのではない。そうではなくて、印象が心に現れる、その仕方からのみ生じるのであり、印象の数の一つをなしてはいないのである。横笛で鳴らされる五つの音は、われわれに時間の印象と観念を与える。しかし、時間は聴覚、またはどれかほかの感覚機能に現れる六番目の印象なのではない。また、心が反省によって自らのうちに見出す六番目の印象といったものでもない。心はただいろいろの音が現れる仕方に気づくだけである。

(ヒューム、34~36ページ)

・・・空間に関してヒュームの言う「配列」とは「点の配列」(ヒューム、34ページ)のことで、ヒュームによれば「感覚機能がわれわれに伝えるのは、ある一定の仕方に配列された色を持つ点の印象だけである」(ヒューム、34ページ)らしい。しかし実際のところ面は面、立体は立体、そのまま見えているだけで、「点の配列」など実際に点が描かれているのでないかぎり、見分けようもない。いったいこのあたりヒューム自身どういう気持ちでこんな説明をしているのか謎なのであるが・・・ただ、上記引用箇所にあるように「空間の観念が目に見えるかあるいは触れられる対象の配列から受け取られる」という部分のみを受け取れば、確かにそうなのである。
 そこに見えているものの形、目の前に広がる光景そのものが空間なのである。あるいは目をつぶっていても手を振り回して何かに触れたり触れなかったり、そういう具体的感覚、それら自身がまさに「空間」なのである。(カントの言うように)空間という形式があって経験が現れるのではない。経験そのものが空間と呼ばれているのである。
 時間も同様である。「あらゆる種類の知覚の継起」がまさに「時間の流れ」なのだ。それらには当然五感をはじめ想像やら情動的感覚やらも(もちろん言葉という経験も)含まれる。あらゆる経験の継起なのだ。
 時間があるから経験が推移・継起するのではない。経験の推移・継起という具体的事実がまず現れていて、それを「時間の流れ」と呼んでいるのである。この順番を取り違えてはならない。重要な箇所なのでもう一度強調しておく。

時間の観念が起因するのは、ほかの印象と混じり合い、しかもほかの印象からはっきり判別されるような、そういう一つの特殊な印象なのではない。そうではなくて、印象が心に現れる、その仕方からのみ生じるのであり、印象の数の一つをなしてはいないのである。横笛で鳴らされる五つの音は、われわれに時間の印象と観念を与える。しかし、時間は聴覚、またはどれかほかの感覚機能に現れる六番目の印象なのではない。また、心が反省によって自らのうちに見出す六番目の印象といったものでもない。心はただいろいろの音が現れる仕方に気づくだけである。

(ヒューム、35~36ページ)

・・・つまり「時間という観念」はない(そういう意味では「時間という観念が起因するのは」という表現には問題がある)、時間というものは具体的観念・印象として現れることはない、ということなのだ。「昨日」を振り返っても、具体的に現れるのは実際の出来事の心像、あるいは感じた感覚・気持ち、あるいは昨日の日付け(これも言葉にすぎない)、いくら思い起こしても「時間そのもの」の「観念」(心像)など現れようがないのである。
そして「印象が心に現れる、その仕方」とはまさに知覚(観念・印象)の継起の有無(経験が変化していたりしていなかったり)のことなのである。その継起の有無が時間の流れと呼ばれているのであって、時間というア・プリオリな形式があって知覚の継起が生じているのではないのだ。
 現代社会においても時間と言えば具体的には、地球の動き、太陽との位置関係の変化、あるいは水晶振動子や電波(電磁波)の周期という具体的事物の“動き”なのである。その動きに「秒」「分」「時」「日」「月」「年」という単位をあてがっている。具体的知覚として現れているのはそういった具体的事物の動きでしかなく、やはり「時間」そのものは印象・観念として現れることがないのである。
 そしてその「動き」「変化」「継起」というものは「論証」により示されるものではない。「動いているもの」を論理で説明することはできないのである。ただ具体的事物を示し「これが動いているものだ」と言うしかない。動いているものと動いていないものとの違いは何か・・・と聞かれても、動いているものと動いていないものとを指し示し、「これが動いていてこれが動いていないものだ」と示すしかないのである。このように、言葉と知覚経験との関係は、究極的に論理で説明できないものなのである。

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