プエルトリコ移民のためのウエスト・サイド・ストーリー
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昨年、カルチュラルスタディーズという授業を履修しました。その授業は映画や演劇などの表象を通して大衆の中にある政治的なメッセージを読み取っていくような授業でした。元々、映画に関心のある私にとってはすごく興味深く楽しい授業でした。
その教科の最終課題として2021年に公開されたスピルバーグ版の『ウェスト・サイド・ストーリー』について、1961年の『ウエスト・サイド物語』と比較しながらレポートを執筆しました。公開時に一度劇場で見たのですが、講義を終えた後に見ると着眼点や作品そのものの見方がかなりかわって非常に面白かったです。レポート評価も終わったのでnoteで公開してみようと思います。
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近年、当事者による表象が強く叫ばれるなか、多くのハリウッド映画が米国内におけるエスニックコミュニティに焦点を当て始めている。例えば、ジョン・M・チュウの『クレイジー・リッチ!』(2018)『イン・ザ・ハイツ』(2021)がその例だ。このような映画でエスニックマイノリティの俳優をキャストすることで長年白人男性を中心に営まれてきた業界に多様性を生むことになり、ステレオタイプを抑止することに加えてマイノリティの雇用機会の拡大にもつながるだろう。その意味でティーブン・スピルバーグ(2021)によって監督されたミュージカル映画『ウエスト・サイド・ストーリー』(以下スピルバーグ版)は業界において大きく貢献する作品だと言える。これは1957年のブロードウェイ・ミュージカル作品を基に制作されたものであり(IMDb 2021)、 1961年の『ウエスト・サイド物語』(ワイズ・ロビンス 1961)(以下オリジナル版)と比較すると、ブラウンフェイス俳優を起用せずに当事者による表彰がされていることなど、いくつかの点で移民の物語をより誠実に、よりわかりやすく描き出していると言える。ここでは、スピルバーグ版が民族間対立を強調していること、プエルトリコ系移民のプライドと苦悩に焦点を当てていること、そして男性を中心とする物語の中でも女性同士の繋がりを丁寧に描いていることについて論じる。
より露骨な政治的表現
まず、スピルバーグ版ではオリジナル版に比べてよりわかりやすく政治的な要素が組み込まれており、作品が単なるギャング同士の闘争ではなく、民族間同士の争いであることが強調されている。例えば冒頭のシーンは「Slum Clearance」という言葉と共にリンカーン・センターの建設のためにスラム街が撤去されることが明確に示されており、中盤では立ち退き反対を訴えるプロテストの描写も組み込まれている。これにより、後に続くJETSとSHARKSの争いが彼らを取り巻く土地や陣地をめぐるものになることを暗示している。そしてJETSはプエルトリコ移民が多く住むようになったエリアで新しくできた店の看板を外したり、プエルトリコのシンボルに落書きをしたりするなど、オリジナル版では見られない明らかな民族嫌悪を動機とした悪戯を行う。さらに、スペイン語を嘲笑するシーンやプエルトリコ移民が土地や仕事を奪っていくという考えがセリフに表れており、シュランク警部補もまた労働者階級の白人不良少年を蔑みながらも白人グループであるJETSに肩を寄せている。他方SHARKSはプエルトリコの連邦歌を歌うなどアメリカにいながらも自分たちはプエルトリコ人とであるというアイデンティティを強く持っている。加えて「Gringos」という皮肉な表現で白人コミュニティに敵対意識を常に持ちながら移民としてのプエルトリココミュニティとGringosとの間に明確な境界線を引いている。このようにスピルバーグ版ではオリジナル版よりもはっきりと民族間の対立を強調する要素が多く描かれている。
より丁寧な民族表象
次にスピルバーグ版ではオリジナル版に比べ、SHARKSを含むプエルトリコ移民の丁寧な描写に力を入れている。キャラクター設定においてまずアニータがアフロラティーナとして描かれている。これはアニータを演じたアリアナ・デボーズ自身がアフリカ系であること(カルバリオ 2022)を誠実にストーリーラインに反映し、ラテン系移民の中にもさらに人種的な階級があることを示している。また、ベルナルドの職業がボクサーということが明確にされていることも大きな特徴だ。ボクシングはアメリカにおけるスペイン語話者、特にプエルトリココミュニティにとって同胞の結びつきを象徴するスポーツであった(バンク 2016)。そして、スペイン語話者コミュニティにおけるボクシング文化の英雄であったパウリーノ・ウズクドゥンがボクシングを人種間の戦いと表現している(バンク 2016)ことからベルナルドがボクシングという職を通してプエルトリコ移民のために戦っていると解釈できる。また、オリジナル版のドクは彼を失ったプエルトリコ系未亡人のバレンティーナに描き換えられており、彼女の存在は白人コミュニティとラテンコミュニティを結びつける大きな役割を担っている。バレンティーナが「Gringos」と結婚してもなお自分はプエルトリコ人だと主張する部分からは、白人とラテン系が共存したからといって民族のアイデンティティが失われることはないとメッセージが感じられる。
『アメリカ』- Celebrating Ethnic Identity!!
さらに、オリジナル版から大きく変更のあった点として『アメリカ』のシーンが挙げられる。ここではブロード・ウェイ版の歌詞が採用されているがプエルトリコを屈辱するような歌詞は省略され、プエルトリコを愛おしく想う気持ちとその愛おしい地で暮らすことの困難が歌われている。女性たちはこのナンバーでアメリカに暮らすことの素晴らしさを歌っていると同時に、自らがアメリカでの生活の中で直面する困難への半ば諦めからそれを楽観的に正当化しているようにも聞こえる。しかしオリジナル版とは異なり、昼間の街に出て地域に住む同胞たちと交流しながら繰り広げられるこのナンバーでは、ラテンコミュニティの温かさが見てとれ、故郷を離れていながらも愛する仲間たちと生きることへの喜びが感じられる。序盤の連邦歌のシーンでも、ギャングであるSHARKSですら街のラテンコミュニティから大きな共感を獲得しているおり、彼らの故郷に対するプライドと長年をかけて築き挙げられた同胞意識が象徴的に描かれている。これは労働者階級の「落ちこぼれ」白人ギャングであるJETSにはないもので、ある意味プエルトリコ移民のアドバンテージとも言えるかもしれない。
移民としての言語の壁
また、スピルバーグ版では英語とスペイン語のコードスイッチングを多く採用することで移民が経験する言語の困難が伺える。加えて、アニータによって繰り返される、「英語を話して」というセリフからアメリカ社会に同化するための努力が表現されている。映画を通して多くのスペイン語が使われる一方、スピルバーグは意図的にスペイン語のセリフに字幕はつけていない(フェルナンデス 2021)。それは「英語を話せ」と要求される移民の生活を「スペイン語を理解しろ」という形で視聴者に体感してもらうためでもあるかもしれないと推測する、考察も見られた(アクナ 2021)。このような形で、スピルバーグはプエルトリコ移民のプライドや抱える困難を表現し、ラテンコミュニティの活気あふれる同胞意識を描くことに成功したと言える。
Sisterhood is Universal
最後にスピルバーグ版における特徴にシスターフッドをあげることができる。その象徴的なシーンとして、アニータがドクの店に出向きJETSのメンバーから暴力を受けるシーンがある。オリジナル版ではトムボーイに描かれていたエニバディズも男たちにまじってアニータに対して性的に屈辱的な言葉をかけ暴力に加担する。一方、スピルバーグ版ではドクの店に入ろうとするアニータに対してノンバイナリーの俳優によって演じられたエニバディズ(ホースト2021)は何かを察したように去るように伝える。ここではエニバディズはJETSの男らがアニータに加害することを警告していたのだろう。また、JETSの男たちに加え2人のガールフレンドらもドクの店におり、彼女らはアニータに対して人種差別的な暴言を吐く一方でアニータが閉じ込められ彼女に対する性的なハラスメントが始めると途端に表情を変えやめるように促す。その後2人も追い出されるとドアの外からエニバディズとともにやめるよう必死に訴えている。ここでは、人種や民族に関係なく搾取される女性と(エニバディズはノンバイナリーとして描かれているが)搾取する男性の対立関係になっている。JETSの女性たちは同じ女性としてアニータの苦しみに連帯し戦おうとしている。その意味でスピルバーグ版では男性中心のギャングカルチャーの中で、オリジナル版には見られなかった無条件のシスターフッドの表象が加えられている。
まとめ
2021年公開のスピルバーグによる『ウエスト・サイド・ストーリー』ではエスニックマイノリティの誠実でポジティブな表象により力を入れている。当事者による表象はもちろん、マイノリティコミュニティの中での階級や職業を含む生活環境にも触れ、それと同時にプエルトリコ移民としても誇りや喜びを意気揚々に描いている。また政治的なシンボルを積極的に取り入れることで、単なるメロドラマではなく民族対立の物語であることを繰り返し強調している。さらに民族間対立にとどまらず、搾取する男性と搾取される女性という構造のプロットも取り入れることで女性たちの絆についても触れられている。もちろん、主人公であり純潔を象徴するマリアのスキントーンが大人の女性として描かれるアニータに比べて明るかったり、ラテン系女性のセクシャライズされたステレオタイプが拭いきれていなかったりなど(ラドニー 2022)など課題は残る一方で、50年代のニューヨークにおける移民の生活をできる限り忠実に映し出す優れた作品だと言える。