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香炉峰の雪ーー白居易の詩と『枕草子』

香炉峰の雪ーー白居易の詩

昨年のちょうど今頃、当時の3年生に対して、最後の教材として使用した作品です。『枕草子』本文の講読をメインとして、その関連教材として白居易の漢詩を紹介しました。(写真はイメージです)

雪の季節にふさわしいこの詩をぜひご鑑賞ください。

香炉峰下、新卜山居、   Xiānglú Fēng xià、xīn bǔ shānjū、

草堂初成、偶題東壁      cǎotáng chū chéng、ǒu tí dōngbì                                                

                                                      白居易  Bái Jūyì 

日高睡足猶慵起    Rìgāo shuì zú yóu yōng qǐ 

小閣重衾不怕寒    Xiǎo gé chóng qīn bú pà hán  

遺愛寺鐘欹枕聴    Yí ài sì zhōng qī zhěn tīng 

香炉峰雪撥簾看    Xiānglú Fēng xuě bō lián kàn  

匡廬便是逃名地   Kuāng lú biànshì táomíng dì 

司馬仍為送老官    Sīmǎ réng wéi sòng lǎo guān

心泰身寧是帰処    Xīntài shēn níng shì guī chǔ

 故郷何独在長安    Gùxiāng hé dú zài Cháng'ān 

【書き下し文】

香炉峰下、新たに山居を卜(ぼく)し、草堂初めて成り、偶(たまたま)東壁に題す

日高く睡(ねむ)り足りて猶ほ起くるに慵(ものう)し
小閣に衾(ふすま)を重ねて寒を怕(おそ)れず
遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだて)て聴き
香炉峰の雪は簾(すだれ)を撥(かか)げて看る
匡廬(きょうろ)は是れ名を逃るるの地
司馬は仍(な)ほ老を送るの官たり
心泰(やす)く身寧(やす)きは是れ帰(き)する処(ところ)
故郷何ぞ独(ひと)り長安のみに在(あ)らんや

【桂花私訳】
 香炉峰のふもとに新たに山の住まいを占い定め、
 草葺きのささやかな家の完成に際して、
 思いつくままに東の壁に書き付けた詩

日はもう高く昇っており、睡眠は十分とったけれども、まだ起きるのはものうい。

小さな家ではあるけれど、掛け布団を重ねているので、寒さの心配はいらない。

遺愛寺から響く鐘の音は、横になったまま枕を傾けるだけで聞こえるし、

雪景色の香炉峰は、家の中に居ながらにしてちょっと簾を撥ね上げるだけで見ることができる。

この廬山は、俗世間の名声から逃れて、ひっそり暮らすのにふさわしい土地であり、

司馬という官職は、やはり老後を過ごすのにふさわしい官職なのだ。

心身ともにリラックスして過ごせる所こそが落ち着く先である。

故郷はどうして長安だけに限られようか。いや、どんな場所も故郷になり得るのだ。

【詩の形式】
*七言律詩
*押韻・・・寒、看、官、安

作者:白居易(772~846)
中唐の詩人。字は楽天。現在の河南省で生まれ、29歳にして進士に合格。以後エリートコースを歩むが、815年、宰相暗殺事件についての上奏が越権行為とみなされ、江州(現在の江西省九江市)司馬に左遷された。「司馬」は本来、州の長官の補佐役であるが、政治犯の官職という位置づけもあったとのこと。

この詩は、江州への左遷の2年後の817年、廬山の麓に草堂を設けた白居易46歳の時の作とされている。

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香炉峰は、現在の江西省九江市にある廬山の北側の峰、香炉に似た形をしているところからこう名付けられたとのこと。古来数々の伝説が伝わり、また、宗教的にも有名な仏教寺院が多く存在し、唐代の詩人たちにも愛された山です。時を経て、19世紀後半以降は列強諸国によって開発され、避暑地としても有名になりました。

雪の廬山は残念ながら知りませんが、私も夏に一度訪れたことがあり、静かな、歴史ある避暑地というイメージを抱いています。1200年前の廬山はもっと静けさに満ちた、自然溢れる場所だったのでしょう。

白居易は、母の死から三年の喪に服し、43歳で一旦官界に復帰したものの、突然の左遷の憂き目に遭いました。彼の胸に去来するのはどんな思いだったのでしょうか。 

幸か不幸か、早朝から仕事をしなければならないという縛りも無く、ゆっくりと朝寝を楽しむこともできる状況になった白居易は、草堂に居ながらにしてあの香炉峰の雪を眺めることができる、遺愛寺から響いてくる鐘の音を身を横たえたまま聞くことができる・・・その境遇を贅沢と捉えることができたのでしょうか。エリートコースからの脱線によって得た、このゆったりとした時の流れを彼はどんな思いで感じていたのでしょうか。

「長安だけが故郷ではない」という言葉が強がりではなく、心の底からの叫びとして伝わってくるような気がします。都での輝かしい官僚生活から離れ、一抹の淋しさと共に、心身の安らぎを感じていたのも確かでしょう。

この後、白居易は罪を許されて長安に戻る時期はあったものの、50代前半には杭州・蘇州で地方長官を務め、56歳で洛陽に移り隠棲生活を送るなど、熾烈を極める政治の世界の権力闘争からは一貫して距離を置き、70歳で全ての官職から退きました。

【参考書籍】
*『漢詩一日一首(冬)』一海知義著 平凡社ライブラリー

*『白楽天詩選(上)』川合康三訳注 岩波文庫

*『図説漢詩の世界』山口直樹著 河出書房新社

*『新国語総合ガイド(四訂版)』井筒雅風・樺島忠夫・中西進共著                                                    京都書房            

*『中国古典紀行2 唐詩の旅』 講談社               

*『中国の旅5 桂林と華中・華南』講談社+中国人民美術出版社    

*『庐山史话』周銮书    上海人民出版社

『枕草子』第二八〇段「雪のいと高う降りたるを」(二七六段・二七八段とする説も?)

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白居易が「香炉峰の雪」の詩を詠んだのは817年でしたが、彼はこれら自作の詩を自ら編集して『白氏文集』全75巻(現存71巻)にまとめました。そして、その『白氏文集』は、早くも彼の生前から日本にも伝わり、当時の平安貴族たちの必読書となっていったのです。

雪のいとたかう降りたるを、例ならず御格子まゐりて、炭櫃(すびつ)に火おこして、物語りなどしてあつまりさぶらふに、「少納言よ、香炉峰の雪いかならん」と仰せらるれば、御格子あげさせて、御簾をたかくあげたれば、笑はせ給ふ。(『枕草子』第二七六段ーー『明治書院 校注古典叢書』)

雪の降り積もったある日、御格子を下ろしたままの部屋にいたところ、「香炉峰の雪はどんなかしら?」という中宮(定子)の問いかけに対して、清少納言は「香炉峰の雪」というフレーズにすぐに反応し、白居易の漢詩の表現に倣って、「御簾をたかくあげ」てみせたというエピソードです。詩の表現をすぐに行動に移してみせたところが、高く評価されました。

このエピソードは994年冬のことと見られていますが、中宮定子と清少納言はもちろん、周りにいた女房たちの間にも『白氏文集』の内容が浸透し、宮中における教養の書としての地位を確立していたことがわかります。

894年に遣唐使が廃止され、907年に唐は滅亡しましたが、往来すること自体が命がけであった時代に、このように詩人の存命中に詩集が伝来し、200年も経ずして人々(貴族)の生活の中に外国語(中国語)の詩が溶け込んでいるということは、驚きに値することではないでしょうか。

『枕草子』のこの章段の後半部分には、「中宮様にお仕えする人として、(清少納言は)ふさわしい人のようだ。」と人々の賞賛を受けたという表現が付け加えられており、「自慢げで鼻につく」というような評価もあるようです。

ただ、このエピソードの翌年(995年)には中宮定子の父、藤原道隆が亡くなり、定子の兄弟も左遷されてしまい、定子は一度は出家することになります。その後、一条天皇の希望で定子は宮中に復帰しますが、その4年後には25歳の生涯を閉じました。第3子出産直後のことだったそうです。

『枕草子』の初稿本は1001年頃の成立と見られますが、白居易の詩のフレーズをきっかけに皆で笑いあった、キラキラした思い出を、清少納言は書き留めておきたかったのではないか・・・と想像してみると、雪景色の向こうに涙が光って見えるような気がします。

皆さんはどのようにお感じになったでしょうか?

【参考書籍】

*『枕草子 校注古典叢書』岸上慎二校注 明治書院

*『新国語総合ガイド(四訂版)』井筒雅風・樺島忠夫・中西進共著                                                                京都書房  

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