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先日亡くなったバンド仲間で仕事仲間の前原利行さんは僕の音楽の恩人だった

61歳、早すぎる旅立ちだった、前原さんの葬式の話を昨日書いたが、
引き続きなぜ僕の音楽の恩人だったかを書いておこうと思う。

自分の音楽遍歴は、現在このノートで絶賛連載中なんだが、
まぁ、なかなか終わらない。

「いまはもう、人生を語ろう」https://note.com/hashtag/keijiikeyamusicstory

前原さんが出てくるのは、ずいぶん先になるので、
今のうちに書いておこうと思う。俺自身がぼけて忘れてしまうかもしれないので。

ざっくり言うと俺の音楽活動史としては

・中高の吹奏楽でトンランペット、同時にギター開始
・同時に中高のフォーク、そしてロックバンド
・京都の立命館大学に進学したときのロックバンド、ムーラン・ルージュ
・早稲田大学に進学した時のバンド「はる」
・「はる」の「むらさき」でプロデビュー
・はるが+Bに改名
・+Bを脱退してプロ活動終了
・コピーライターとしてサラリーマン生活しながら、はるのボーカルだった青柳とデュオ「狩人」
・「狩人」が発展したロックバンド、羅風
・羅風解散、そして音楽活動停止(原朋直トランペットレッスンだけ継続)

という流れになっている。

羅風解散、そして音楽活動停止(原朋直トランペットレッスンだけ継続)の時期に前原さんに偶然合わなければ、この状態でバンド、音楽活動をやめている。

ちょうど子どもも大きくなりつつあり、仕事も加速度的に忙しくなりつつある時期だったからだ。普通ならあのままフェードアウトだ。

前原さんとあったきっかけは、高校時代のバンド仲間の西岡から連絡があったからだ。

西岡は高校時代のバンド仲間のギターで、早稲田大学に進学してバンドを組んだ時、最初に西岡と同じく高校同級生で、のちにはる、をいっしょにやるベースの佐藤正則と、俺で、西岡が進学した成蹊大学のロックサークルに一年だけ入って活動をした。西岡の下宿でオリジナル曲をみんなで作ったり、西岡が唐揚げを作ってくれたりという思い出があって懐かしい。

西岡はそのサークルで複数のバンドをやっていて、ヘルツという成蹊大屈指のメタルバンドもやっていたが、ポップスのバンドもやっていて、そのバンドのベーシストが前原さんだった。そのバンドは何度もライブを観に行ったし、なぜか写真もたくさん撮った。(もうそのときから写真を撮るのが好きだったのだ、キャノンのAE1だった)。

前原さんとはそれっきりだったが、前述のバンドが亡くなって音楽をやらなくなっていたとき、西岡が誘ってくれたのは西荻窪にあるヘブンズ・ドアというロックのセッション系のライブハウスだった。
そこに西岡とギターを弾きに行った時、セッションにいたのが前原さんで、その時はキーボードを弾いていた。
で、再会(というか、お互いの顔を辛うじて覚えていた程度)いっしょに演奏したりして、楽しい時間を過ごしたわけだが、帰り際に、バンドを組もうと思っているのでリハに来ない? と言われて行ってみたらリハ、すぐ本番、しかもほぼ全曲オリジナルという感じだった。
また小田急相模原のロックバーでの急遽弾き語りデュオとか。
とにかく、思い切りがいいというか、まるなげというか、任せぶりがすごかったし、自由にやらせてもらって楽しかった。

やがて「マハエラ」(前原のアナグラム)というバンドができ、
バディさんのバンドと合体した、マハバディというバンドになったりした。
そこで楽しくギターやトランペットを吹かせてもらった。
ナカゴメさん(ベース)や矢野さん(サックス)との出会いもあり、
そこから矢野さんのファンクバンド、プラスティックヤノバンド? 名前違うか? などの活動にも広がった。
ジャズへの一歩も、小田急相模原のロックバーでの自由なセッションで
サックスの若者、山本君(下の名前失念!)に声をかけられ、彼がバンドを組むときのホーンとして読んでもらったのが、ジャズの全ての始まりとなった。そのことも後述するが、ベースの榊原、そしてボーカルのミカさん(現在蒲田のクオードでのライブセッションを仕切っている)、ピアノの河野君、珠池のデュオの相方、珠美ちゃんとの出会いも山本君のバンドだった。

思い起こせば、その起点は前原さんにあった。
プロ活動から、羅風終了まで、僕の中で音楽活動は、プロ、あるいは元プロ、という意識が抜けなくて、ギターを持ったら中途半端な演奏はできない、プロ(元プロ)の凄みを見せてやらなくてはならない、と言う意識が強かった。これはたいして実力もないのにプロになってしまった時期に自分の中で培ったものだろう。
もちろん悪いものではない。あとから実力がついてくればいいのだ。しかもこの意識は音、特に音色に色濃く影響する、いいことだ、と思っている。
羅風がすごかったのも、俺とボーカルの青柳がその意識を持っていたから、アマチュアとは別格の演奏ができたのだと思う。

しかしそれが足かせになって、アマチュアのように、自由に、いろんな演奏スキルの人と楽しく音楽を共有する、という機会がなくなっていた。
そんなくだらない足かせをぶち壊してくれたのも前原さんだった。
前原さんは、別に楽器が上手いわけでもないし、歌が上手いわけでもない。でも人を集めて、その気にさせて、バンドを作ったりするのが上手い。
また、すごいスピードでオリジナル曲を作ってくる。
気軽にレコーディングもライブも組んでくるし、
CDだってがんがんつくる。

すごい人だった。そして何より音楽を愛していた。
前原さん、ありがとうございました。
前原さんと逢えなかったら、僕はもう音楽をやっていなかったと思います。
あなたは、ぼくの音楽の恩人でした。

そして、また会いましょう。ギターとラッパ、練習しておきます。

そしてできたら、追悼のセッションも、西荻のHeavens Doorで開催したいです。そのときは、フラッと現れてください。
待ってます。

俺が取材して書いた(撮影も俺)、前原さんのインタビュー記事(珍しいパターン)イエノミスタイル。

https://www.ienomistyle.com/column/20180812-1347

mahaera.exblog.jp 前原さんの映画ブログ。この写真も同じ時に俺が撮った。

https://mahaera.exblog.jp/



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