見出し画像

NO.18 「あるくみる・いのる」小笠原諸島 私の鎮魂の旅(2023年7月上旬)

 世界遺産、小笠原諸島への24時間の船旅に行った。

 いつかは来てみたいと思っていたし、東京諸島(伊豆諸島と小笠原諸島の愛称)をすべて回ることを目指しているので予定通りの行動でもある。
 だが、今回はこのクルーズに飛びついた特別な理由があった。
 硫黄島の特別クルーズが行程に含まれていたのだ。
 このブログのタイトルは、「あるくみるさがす」で、生涯にかけて何度でも行きたい心やすらぐ場所を見つけることが私の旅の目的だが、今回だけは「あるくみる・いのる」と臨時に改題する。

 硫黄島は太平洋戦争末期の日米両軍の激戦地。
 コロナ騒ぎもあり、「小笠原丸」としては4年ぶりの硫黄島クルーズとなる。
 硫黄島は港がないため上陸はできない。滑走路はあるが自衛隊の基地になっているので、通常の民間機は降り立つことできない。

硫黄島 擂鉢山と米軍が上陸した南海岸

 何故、私がこの島にこだわるのか説明しよう。

 太平洋戦争の後半、マリアナ諸島(サイパン、テニアン、グアム)を占領した米軍は、それらの滑走路から爆撃機B29を飛ばし、日本の本土を空爆する段階となった。本土までの距離は2400キロ。B29の航続距離は2500キロとぎりぎりなので、故障や被弾などに備え途中の緊急避難用基地が求めれていた。又護衛戦闘機ムスタング発着用にも本土により近い基地の存在が必要だった。

 硫黄島はちょうど中間地点1200キロのところにある日本軍が滑走路を保有する島で、米軍は25万人もの兵力、800隻の艦船と1200機の航空機で占領すべく攻撃をしてきた。対する日本の守備隊は2万1000人。ここで太平洋戦争史上最大の激戦が行われた。

 日本軍を指揮する栗林中将は、無意味な突撃などは禁止し、地下トンネルを島中に堀り徹底抗戦を全軍に命じた。
 この島を奪われると、内地の家族や子供たちが空爆で死ぬことになるので、できるだけ米軍の進軍と占拠を遅らせることが重要だった。
 そして、これだけの兵力の差にも関わらず、日本軍は1か月持ちこたえ、最後はほとんどが玉砕をした。

 城山三郎の小説によると、日本の兵隊は横浜から船に乗せられ、ここ硫黄島に連れて来られたようだ。彼らはどんな思いでその船上での時間を過ごしたのだろう。天皇、国、そして家族や子供たちを守ることが唯一のモチベーションだったに違いない。

残された戦争の残骸

 まだ、そのおおよそ半分の遺骨がこの島に残されていることはあまり振り返られていない。
 硫黄島が外国の地であれば戦争にも負けているししょうがないのかもしれない。
 しかし、この島は戦前も米国からの返還後も、東京都に属する日本の島である。
 日本の領土にも関わらず、何故、遺骨が収集されないのだろうか?
 しかも、それらの多くは現在の自衛隊の滑走路の下に埋められているようだ。元々米軍が埋葬をして、その上に滑走路のコンクリートを流し、自衛隊がそれをそのまま使っているとも聞く。

 1万人もの遺骨を78年たった今でもこの島に残しておいていいのだろうか? おかしいとは思わないだろうか?
 そのすべてを千鳥ケ淵の戦没者墓苑に収めてあげたいと思うのは私だけだろうか?

 少なくとも我々はこの事実を知り、このことに思いを馳せる必要がある。
 
 玉砕をした日本兵がきっとこう私たちに語りかけているに違いない。

 「俺たちが命をかけて守った日本、その子供たちは今平和に暮らしているのか?」

 「日本は今どんな国になったのか? 皆幸せで、立派で元気に生きているのか?」

 私たちは、どう胸を張ってこれに答えることができるのだろう?

  有史以来、数えきれない数の人間が闘いの中で死んでいった。
  生きている者は、亡くなった者のことを思うことしかできない。

  それでも、思い出すだけで多くの魂は慰められると信じている。 
                              (合掌)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?