我思う、故に我あり?

我思う、故に我あり、という言葉、デカルトの有名な言葉であるが、みなさんはこれに納得できるのだろうか。

方法的懐疑に基づき、ありとあらゆることを疑っていくが、そうして疑っている自分自身だけは確実に存在している、と考え、そこから様々なことを演繹していく、という内容だったと思う。

しかし、どうして考えているからといって自分が存在するとわかるのだろう?考えることに自分という主体が必要だということは別に自明なことでは全くもってないように感じる。むしろそれを仮定できるのなら、そんなこと考えるまでもなく自分は存在することになってしまう。

むしろ、考えていたとして、本当にその行為に主体など存在するのか、ということの方が僕には気になる。
僕の感覚からすれば、自分というものは小さな他者が集合し、連関し合うことで生まれているようにみえている現象であって、存在と呼べるような代物だとは思えない。要は様々な情報が感覚器官や脳細胞を通って通り、ぶつかり合う交差点のようなもので、存在というよりは、より小さな存在の動き回る場所、プラットフォームのようなもので、存在の間、といえるのではないか。

一つ一つの考えというのは、対象として現れる。ポンと頭に浮かぶものとして現れるだろう。これは自己というよりは他者だ。そして、それを生み出す単独の自己、というものも存在せず、様々な環境要因や、身体、感覚器官、脳細胞、といった他者の間の連関、情報の相互作用によって形成された出力がその考えだろう。

つまり、自己というのはそういった小さな他者同士で情報を交換し合う全体の作用のことをいうのではないか。こう考えるとこの相互作用は僕の脳みその中だけでなくどこでも行われている。そうするとどんなところでも少しは自己であるということができる。しかし、僕の考えが生まれるために必要な作用のかなり多くは僕の身体や、頭の中で行われているだろうから、その考えにとって、その辺りがより自己であると言うことができるのだとは思う。もちろんそれも現象としてである。

こう考えると、異なるレイヤーにおいてではあるが、全ては他者であるが、全てが少なくとも少しずつは自己であるということもできるだろう。これが、仏教でいう小我にたいする大我にあたるものなのかもしれない。


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