優先座席についての私見(若者⇔老人)
今日はビジネスとは関係のない私日記を一つ
私は優先座席について独特の考え方を持っている。
と言っても自分の身の回りに同じ考え方をしている人が居ないだけで、世の中にはたくさんいるやもしれないが
というのも、私は優先座席に老人が来ていても譲らないことが多々あるのである。(空席だらけの状態で優先座席に座らないような訳の分からない人は論外として)
これだけ書くと、なんと非情で非常識な人間だと思われてしまうので、自分なりの理屈,考えを述べたいと思う。
まず、第一に私は儒教が嫌いである。
この思想が根底にあり、儒教の考え方における「礼」、つまり家族が秩序立てられ、家族を超えて社会が安定することとなる為に必要とされる年上への意識的な尊崇という概念がどうにもしっくり来ず、そういったことを中高生の間に考えている間に優先座席を譲らなくなった。
もちろん、亀の甲より年の劫という通り何事にも置き換えがたい老人の経験というものに価値を感じるし、そういった意味で老人というものにある種の尊崇を抱く場合もある。
ただ、不特定多数の老人に対して尊崇を抱かせようとする孔子の考え方が気にくわないのである。
もちろん私は儒教について詳しいわけではないので、詳細な論理についてまでは理解していない。
その上で一つ考えるに、やはり儒教には治世の学としての役割があり世の中を上手く回していくための仕組みというマクロ的な視点も含めての考え方なのだろうが、そんなことは私の知る話ではないのだ。
第二に私は、老人かどうかで判断するのではなく、心労の度合いで席を譲るかを決めており、元気そうな老人に譲るくらいなら疲れ切って倒れそうになっている中年のサラリーマンに譲りたいと考えているということ。
よって、私は齢80を超えていそうなどうしようもなく体が衰えてしまった老人に労りの念を感じる時以外は老人には席を譲らないでいた。
ここまでであれば、私はわざわざ文章にするつもりは無かったのだが、最近心境に変化が現れたので面白くなって一つ書いてみた。
というのも、よくよく自分の優先座席に対する考え方を振り返ってみると、
体が衰えてしまっているかどうかを自分の目で判断しその上で譲るかを決めているのである。
それを今までは自己判断として納得していたのだが、よくよく考えてみるとなんと独善的な判断法なのだろうと思われるようになってきた。
傍目には元気そうに見えても、実際には神経系に痛みを感じながら過ごしているかもしれない老人,内臓系に疾患を抱えておりその中で目に見えぬ苦しみに耐え乗っているかもしれない老人
そういった老人を私は見た目だけで判断つくのだろうか?
蓋しそれは無理がある話で私は、自分の目利きにあぐらを掻いて、自己判断に自惚れて自分なりの優先座席論を組み立てていたのだ。
そして何よりも自分の経験していない60~80年以上生きることで生まれる日々の心労、立っているというだけで感じるやもしれない労、を想像するという事に頭が及んでいなかったのである。
ここまで考えが及んで私は優先座席には座らないという単純明快な考えに及んだ次第である。
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