冨樫義博論~メルエムとは何だったのか。生きていることを照らす光

■1 メルエムが照らしたもの(序章前編)

あらゆる「物語」に込められているメッセージは、突き詰めていくとすべて「生きててよかった」に集約されると思う。

「物語」には様々なものがある。残酷だったり、ひたすら後ろ向きだったり、何かを傷つけたり破壊したり、最後まで読み終えた(観終えた)あとに暗い気持ちになってしまうものもある。だけど、単純に生きることをやめたくなるような「物語」なんて無いと断言できる。もしあったとすれば、それは「悪い物語」だ。そもそも「物語」とは生きているもののために存在する。「物語」を肯定することは、生きているのを肯定することに等しい。

およそ8年をかけて完結した「ハンター×ハンター キメラアント編」は2012年現在、日本における現役の語り手として、間違いなく10本の指に入る実力と、サブカルチャーのみならず時代を幅広く穿つ感性を備えた漫画家、冨樫義博のキャリアの集大成と言っていいだろう。

本篇のボスキャラであるメルエムの存在は、ひときわ異彩を放っている。

当時商業的にも成功し、絶大なる人気を得ていた「幽☆遊☆白書」の連載を突然終了させてしまう程にかつて作者自身が葛藤に陥った、「強さのインフレーション」という問題(※週刊連載において、物語が進むにつれ主人公パーティと敵が際限なく強くなっていき収拾がつかなくなるという問題)など、痛くも痒くもないとでも言うように、蟻の王、メルエムは急速に成長し、圧倒的に強くなっていく。

ハンター×ハンターの連載当初から、最強のキャラクターとして位置づけられていたネテロでさえも傷一つつけることができない、という展開は、もはやメルエムが主人公パーティの誰かに倒されることは不可能と読者に思わせるに十分であり、このまま最終回か? と予想した者も少なくなかった。

しかし、冨樫は誰も予想し得なかった手法でメルエムを葬る。メルエムは「独裁小国家がテロに使用する小型の高性能爆弾」によって瀕死の重傷を負うが、それでも再び蘇る。だが爆弾は「人間が生み出したこの上なく非人道的な悪魔的兵器」であり、爆死を辛うじて免れたものを宿主として媒介する遅行性の猛毒を含んでいたのだ。

テロリストが好んで使用する、爆弾と毒。そんなもので「悪」を倒すなんて、いったい何が「正義の味方」かと言いたくなる。しかし、そう感じてしまうのは、疑いなく作者の思惑通りである。

■2 蟻が人になる物語(序章後編)

蟻たちは現実離れした速度で進化を続け、高度な知性を獲得するのみならず、いわゆる道徳や人間性というものまで身につけていった。はじめ、本能のままに人間たちを殺し、食らっていたのが、
「右では子供が飢えて死に 左では何もしないクズがすべてを持っている
 狂気の沙汰だ
 余が壊してやる そして与えよう 平等とはいえぬまでも
 理不尽さのない世界を」(JC27巻)
とまで言うようになる。

加えて、蟻の成長に対応して、蟻と人間を対比するような描写が多く用いられる。その意図は「蟻と人と、どっちが高等で道徳的だと、果たして断定できようか」である。

メルエムは最終的に、かつて餌としか思っていなかった人間の女、貧乏で盲目で、しかし聡明で純真な女と、愛情というほかない深い絆によって結ばれ、「…そうか 余はこの瞬間のために生まれてきたのだ…」という台詞を残し、彼女と手を握り合ったまま共に死んでいく。

「ハンター×ハンター キメラアント編」は「人が蟻を倒す物語」ではなく「蟻が人になる物語」だ。蟻、を悪だとか非人間、と言い換えてもいいかもしれない。

この物語は、「幽☆遊☆白書」以来、冨樫義弘が一貫して語ってきた物語の構造を正当に継承し、かつそれが内包するテーマをより明確にしたと筆者は評価する。コミックス30巻が発売されたのを機に、考察を以下に記したい。

■3 人として生まれなおす

冨樫作品が、群雄割拠、魑魅魍魎の跋扈する少年漫画界においてひときわ異彩を放っているのは、「敵」の描き方にある。冨樫作品における敵は、明確な悪ではなくその中間とも言える立ち位置に存在しており、見方によっては主人公パーティよりも「善」と言える、という点で一貫している。

このことをわたしは、そのフォーマットを「近代」に大きく依存している「少年漫画」において、あえて
近代=【絶対的な/一つだけの/大きな】目的が存在する(=明確な正義<善>と悪が存在する)世界に対する
ポストモダン=【それぞれの相対的な/複数の/小さな】目的が存在する世界(=正義<善>も悪もなく、それぞれの立場のみが存在する世界)を提示している
のだ、とまとめたいと思う。

しかし、それまでの射程では、冨樫作品を俯瞰する視点としては「近代とポストモダンの差異を根拠とした善と悪の相対化」くらいしか獲得することができない。しかし、キメラアント編を通じて見えてくるのは、主人公パーティではなく、敵役が「物語」を通じて成長していくビルドゥングスロマンの構造である。

「幽☆遊☆白書」における敵役は、最後に「善人」のようになって死んでいく。

 ・戸愚呂弟は、もともと高名な格闘家だったが、仲間や弟子を殺された復讐のため妖怪となった。最後は人間界の未来を主人公パーティに託し、自ら望んで地獄に落ち永遠に罪を償い続けた。
 ・仙水は、もともと正義感の強い霊界探偵だったが、人間の醜い欲望を目の当たりにし、人間そのものに疑問を持つようになった。最終的には霊界の偽善を正し人間界にも平和をもたらした。
 ・雷禅は、もともと食人鬼だったが、人間の女に惚れたのをきっかけに、魔界の秩序を形成する存在となる。最後は人間を食うのをやめて飢えて死んだ。

「ハンター×ハンター」における敵役で、上記のように「大往生」した敵役は、いまのところメルエムしかいない。
 ・メルエムは、もともと人間を餌として地球を支配しようとする蟻の王だったのが、知性を身につけ愛を知ったことで、平等を望む王となり愛する人と共に死んだ……
というように、戸愚呂、仙水、雷禅の流れ上に位置するキャラクターと言っていいだろう。

ここから見えてくるのは、冨樫作品における敵役は、一般的な「絶対悪」からスタートして、最終的には「人間」として生まれなおす、という運命を背負っているという共通点だ。

■4 「善と悪が明確な区別なくたゆたっている」

また、もう一つの共通点として、「悪」=敵役と対峙する主人公パーティが守ろうとする存在=「善」が、まるで守るべき価値などないかのような、いわば危うい存在として描かれていることが挙げられる。

仙水が憎んだ対象は、欲望のままに妖怪を拷問凌辱する存在であり、妖怪という概念を抜きにしても、戦争や虐殺を繰り返す存在だった。それと、幽助たちが守ろうとした対象の間に明確な線引きはされていない。どちらも同じ「人間」である。

メルエムが滅ぼそうとした対象は、飢えや暴力や不平等にまみれた世界である。ゴンたちが守ろうとしたのも、現代の僕たちが生きているのも、どちらも同じ世界だ。

ここで重要な示唆を与えてくれるのが、「ハンター×ハンター」の重要キャラクターであるヒソカとキルア、そして主人公のゴンのキャラクター設定である。

キメラアント編ではまったく出番のなかったヒソカだが、その存在は冨樫の世界観にとって重要な意味を持っている。彼は主人公パーティにとって、ある時はライバル、ある時は頼りになる協力者として描かれるが、その本質は道徳の欠如した無差別殺人者である。ただし、まったくの無差別というわけではなく、彼なりに「利用価値がある」存在だけは不用意に殺さない。

また、キルアは主人公であるゴンの親友として描かれている。ゴンやその他仲間に対する友情、兄弟への愛情などにも裏表はない。だがキルアは暗殺者一族のエリートという設定であり、人を殺すことを躊躇しない。物語中でも実際に、機嫌が悪いという理由で無差別に殺人を行う描写がある。

そして主人公であるゴンは、純粋無垢な存在として描かれ、一見少年漫画の主人公として遜色ないように見えるが、その実、彼は「善悪に頓着がない」という設定になっている。キメラアント編では、ダークサイドに一気に傾いてしまったかのような、腹黒い面をこれでもかと見せてくれた。

また、その他重要なキャラクターであるクラピカやレオリオについても、似たように善悪どっちとも断言できないような設定になっている。だがここで取り上げたいのは、各キャラクターそれぞれが物語に与える影響ではない。なぜ、この作品では、重要キャラクターにことごとく、無差別殺人者という過剰な記号が付与されているのか、という点である。

わたしはこういった世界観を、ニーチェの提唱した超人という概念によって整理した。すなわち、

<永劫回帰の無意味な人生の中で自らの確立した意思でもって行動する><自身の善悪観が世界に屈服しない生き方の推奨(己の価値観=全て)>ということである。(wikipediaから引用)

これも一つの回答としては有効であるように思うが、この「物語」を読み解くために注目すべきは、作品の世界観において、「善と悪が明確な区別なくたゆたっている」という状況が、非情なまでに徹底している、という点である。

そしてこれは、本来「善」と「悪」の区別が明確であるはずの少年漫画だからこそ際立つ視点なのだ。「人を無差別に殺傷することは、良いことなのか、良くないことなのか?」という問いは、現実の世界では、明確な答えを持たない。あくまで法律や常識といった曖昧なものによって、一般的に良くないこととされているに過ぎない。

■5 乾杯しやう~すべてを照らす光に

さて、話を戸愚呂弟やメルエムに戻そう。そのような世界で語られる「物語」の中で、彼らが背負わされた運命を生き切ることには、どのような意味があるのか?

結論から言うと、それはやはり生まれてきたこと、生きていることへの肯定だと思う。

妖怪や蟻の王として生まれざるをえなかった「異質なものたち」が、善悪の明確な区別のない世界で、ただ己の価値観によってのみ懸命に生きていく。そして彼らはやがて敗れる。だがそれは「悪」だから敗れたのではなく、相手が「善」だったから敗れたのでもない。彼らは「人間の世界」に敗れるのである。

時に美しく、時に醜く、根拠のない善悪に支配された、不平等な世界。異質でなく毒気もない凡人が大多数を占める世界。そのような世界に「異質なものたち」はいずれ敗れ去るしかないのだ。無知で、愚昧で、野蛮な大衆が最も強く「正しい」のだ。冨樫作品で一貫して描かれているのは、まさしくそのようなドラマである。

これは、世の中に溢れている大多数の「物語」と全く逆の視点に立っている、と言える。わたしはこれこそが冨樫作品の特異性だと確信する。

一般的に「物語」は、「異質でもなく毒気もない凡人」の視点で描かれ、勝利は「異質でもなく毒気もない凡人」に与えられるものだ。つまり、読者や聴衆のうち大多数の目線で語られるのである。だが、冨樫作品は、そうではないマイノリティ目線で語られる物語と言っていい。

それは、真の人間賛歌である。人間や生きていることを力強く肯定する、というよりは、生きていることを照らす、という表現が穏当であるように思える。

冨樫義博は週刊少年ジャンプで、「異質でもなく毒気もない」大多数の凡人に向けて、そのような物語を描き続けている。「物語」は読者を、鋭利な刃物のように常に挑発している。愚弄している、とすら言ってもいいかもしれない。だがその根底にあるのは、マジョリティもマイノリティもひっくるめた、寛大な人間愛ではないか。

ここでわたしは、キメラアント編のハイライトで登場した詩を抜粋したい。

 さあ 乾杯しやう
 乾杯しやうぢゃないか 人といふものどもに
 善人も悪人もいつの世も人はくり返す
 膿むにはあまりに長く 学ぶにはあまりに短い時の螺旋上
 だからこそよく発し よく欲するのだらう?
 命など 陽と地と詩とで満たされるほどのものなのに

  菊池正央「人といふもの」(民明書房)より抜粋

■6 戸愚呂弟の命題

わたしは以下のシーンに見出すことのできる、近代とポストモダンの決裂を大塚英二氏の「アトムの命題」に敬意を表しつつ「戸愚呂弟の命題」と名付けたい。

戸愚呂兄の最後の言葉「貴様、実の兄貴を、共に武道のため魂を売ったこの兄貴を(捨てるのか)」に対し、戸愚呂「関係無いね」と一蹴、「俺は品性まで売った覚えはない」
 「幽☆遊☆白書」JC12巻より ※カッコ内は筆者補足

この「品性」とは何なのか、という疑問に答えることが、このブログを更新する大きな動機であった。これまでの考察を踏まえ、一旦の回答を出し、まとめとしたい。

結局のところ「品性」とは「己の価値観によってのみ懸命に生きていく」という姿勢ではないだろうか。

体裁を整えること、勝つこと、単に生き延びること。こう書くと、ごく当たり前のことのようだが、冨樫作品を愛する方々には、戸愚呂弟や仙水や雷禅、そしてメルエムがどのように自らの「品性」を守ろうとしたのかを思い出してほしい。
パームの前で膝を付こうとした王の姿が、どれだけ美しいか。

参考 HUNTER×HUNTER  (ジャンプコミックス)/冨樫 義博

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