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【往復書簡】庶民の味方はたくさんいる。だから、俺は金持ちの味方になる。

壇珠さんの記事へのお返事です。

壇珠さん、おはようございます!!鬼塚球磨子です(映画「疑惑」参照)。引き続き昭和の邦画を見続けているのですが、最近は桃井かおりや緒形拳にはまっている俺です。誤解を恐れずに書くと、私は日本の俳優にはロクな者がいねえなとずっと思っていました。カッコよさに欠けるというか、綺麗だけど退屈というか、痺れるほどに惚れ込むことが滅多にありませんでした。しかし、昭和の映画にはそういう人物がわんさか登場してきます。それを見た俺は「日本にもこんなにカッコいい人間がいたのか!!」と感動に打ち震え、寝る間も惜しんでせっせせっせと映画を見続けております。カッコいいって最強だなと思います。どんな綺麗事もどんな正論もカッコよさの前に無力です。カッコ悪いやつの言うことは聞かない。なぜならば、そんなやつの言うことを聞いたらカッコ悪くなってしまうからだ、と思っている俺です。

最近はいよいよ経済的に貧し明日食う金に困る状態に置かれたのですが、ふと「あ、そういえば前に金(きん)をもらったな」と思い出し、生まれてはじめて金を売ると言う経験をしました。金(かね)はないけど金(きん)はある。ドヤ顔をしながら街中でよく見る金・貴金属買取店舗に足を運び「すまないのだがね、君、金を売りたいのだが」と要件を告げると、宝石を扱う時に装着する白い手袋をしたスーツ姿の男性が「こちらにおかけください」と私を誘導し、何やら高級そうな椅子に座らされました。突如として異次元空間に突入した赤貧野郎(俺)は戸惑いを隠し切れず、しかしながら「なめられたら負けだ」と思い、俺はゴールドを売ることに慣れているんだぜというテイを必死に守ろうとしたのですが、幾度もボロが出て結果的に大敗をしました。私は、金というのはその時の相場に見合った額をそのまま受け取れるものだと勘違いをしておりました。しかし、現実は全然違いました。相場通りの金額を渡したら店舗側の利益が出ないため、商談をする必要があるのです。これには度肝も抜かれました。その時の私はとても疲れていたので、結局、相手が示した金額に対して「それでいいです(儲けはお前にくれてやる)」と、匙を投げる感じでゴールドを手放してしまったのでございます。

で、ゴールドを売った金でコンビニ弁当を食べている勘違い野郎(俺)ですが、転んでもただでは起きたくないこの男、金を売った時の教訓をバイクを売る時に生かしました。出張買取業者に見積もり査定に来てもらったところ、業者はバイクを三万円で買い取ると言いました。以前の私だったら「それでいいです(悪徳業者は死滅しろ)」と思っていた気がするのですが、進化を遂げた私は「五万円にならないならば、やめます」とキッパリ伝えました。すると、ちょっと慌てはじめた業者の方が少々お待ちくださいと言った後に誰かに電話をしはじめ、数分後に「五万円で買取をさせてください」と私に懇願をしました。たった一言プラスをしただけで値段が跳ね上がり、お金って不思議だなと思いました。以前の私なら「だったら最初から五万円って言えよ!」と思っていた気するのですが、これは違うなと思いました。安く仕入れて高く売るのは、商売の基本だと思います。だから、業者は何も悪くない。悪いとしたら「本当は3万円で売りたくないのに3万円でいいと言った自分自身」だと思いました。よく、給料が低いと会社に文句を言う人がいます。でも、それは、その金額を受け入れた自分に問題があるのだと思います。自分の値段は自分で決めることができる。問題があるとしたら、それは「受け入れたくないことを、受け入れた自分にある」のだと思いました。誤解をされると困るのですが、決して低所得がダサい訳ではなく、低所得であることを自分が選んでいるという自覚の欠如がダサさなのだと思います。余談ではございますが、バイクを売ったお金でサンローランのリュック(中古)を購買いたしました。サンローランの革は最高です。この点において、素晴らしいエクスチェンジを達成することができたなと自負しております。サンローランのリュックを担ぎながら、今日もコンビニに足を運ぶ俺です。

自分が変化をしたときに、持ち物を見直さないでそのままでいると、せっかく良い変化があったのに元に戻ってしまうことがあるように思います。環境が同じだと、その環境の気と言いますか念と言いますか、それらがまとめて残っている家や部屋が大きな磁場となって、せっかく変わった自分をもとの沼に取り込んでしまうような気がします。自分に変化を感じたときは、持ち物もその自分にフィットするようにすると、とてもいい気がします!!

そうすると、人は些細な己の変化にも気がつくので、断捨離がめちゃくちゃ頻繁になり、日々断捨離をして暮らすようになるのだと思います。断捨離を、大掃除のように考えてたまにしかやらないでいると、本当はもう別れているものが増えて滞って、もう離れている物たちとの家庭内別居の状態となり、それに呼応して自分の新陳代謝が遅れ、老いが加速するような気がします。わたしは、断捨離は美容法でもあると言いたい。古い細胞を毎日風呂で流すように、日々の変化で不要になったものを見直して、家の中を日常的に丁寧にクレンジングするのは非常に有効的なことだと思います。人は自分の人生にうるおいを欲しがりますが、垢をためたままではどんなケアも無効になってしまうのだと思います。

ありがとうございます!!毎日サンローランを抱きしめたり撫でたり話しかけたりしている俺です!!物質にはそれぞれのバイブスがあると思うので、微妙なものを持っていると微妙な空気感が蔓延をすると思います。逆に、微妙なものを断捨離すると結果的に大事なものの視聴率が爆上がりするので、どんどんいい感じになるのだと思います。こんなことを自分で言うのもどうかと思いますが、私は結構モテます。モテなかった時期は「モテたら人生変わるだろうな」などと思っていたのですが、経験してみて思ったのは「しょーもないやつにモテたところで仕方がない」ということです。よく、女性から「男って、女だったら誰とでもヤレるんでしょ?」みたいなことを言われますが、ヤレると言えばヤレるけれど別にヤりたいとは思わない、下品な女に触れているとこちらまで下品になるからお断りだ、と感じることがあります。無論、女性を大事に扱いたいとは思うのです。しかし、誰かを大事にする理由が「女だから」というだけでは、女を馬鹿にした話だなと思います。

魅力的な女性には潤いを感じます。逆に、不穏な女性には沼を感じます。どちらも湿気という点では同じですが、波動がまったく異なります。沼っている女性には呪詛を感じます。こいつと付き合ったらいつか俺も呪い殺されるという予感が、俺に「気を付けろ。こいつには要注意だ」と囁きます。沼っている女性(男性も同じだと思います)は、心が汚部屋なのだと思います。断捨離できていない呪詛や悔恨が大量にあるため、こいつといたら俺も一緒に背負わされることになるぞという恐怖の予感が、私に「逃げろ」と囁きます。巷では、重荷を一緒に背負うこと(背負わせること)が愛だと言われることが多いですが、私はちょっと違うと思います。誰もが重荷を抱えながら生きていることを知ることが愛なのであって、それを肩代わりしようとしたり、他者に押し付けることは依存だと思います。一時的には美談になるかもしれませんが、必ず、遅かれ、早かれ、権力闘争が勃発をすると思います。物理的な断捨離をすることは、壇珠さんがおっしゃるように心の断捨離にも繋がり、そして美容にもつながるのだと私も確信をします。垢をためたままではどんなケアも無効になるとは、最高の表現ですね!!毎日断捨離!!これって、毎日死んで毎日生まれ変わるくらいの新鮮さなのだと思います!!

わたしはご存知のとおり鬼滅の刃が好きですが、知ってから今日まで、炭治郎やしのぶや煉獄さんのようになるためにはどうすればいいのかを真剣に考えて、自分なりに修行を実践してきました。今もやっています。可能なかぎり、荒れない、怒らない、卑屈にならないで強く誠実で優しくあるために、やれることがたくさんあります。自分はあまりに不届き者でひどい人格をしているため、むしろやることしかありません。自分に情けなくなって自暴自棄に陥りそうにもなりますが、煉獄さんは「胸を張って生きろ。己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと、心を燃やせ。歯を食いしばって前を向け」と言っていたので、今も打ちのめされていますが、歯を食いしばって挑戦しています。本気でやっています。つらく楽しい修行です。ちなみにこれを書きながら泣いています。

わたしはたとえ漫画のキャラでも、できるかぎり消費をしたくないと強く感じます。そこに冒涜を感じてしまうんです。自分の思い通りに消費するよりも、あのままに憧れて、あのままを尊重して、自分が変わるほうに努力するのが好きなのだと発見しました。これは自分自身との付き合い方や、他者との付き合い方にも現れるものなのだろうと思います。

わたしは相手をなるべく尊重したい、なるべく消費したくない、変えようとしたくない、と思います。そうしそうになる自分の弱さを、できるだけ愛して超えていこうと絶え間なく努力しています。ときには吐血しそうなくらい難しいし失敗だらけなのに、そうしようとだけはしています。こういうことを言うといつもいろいろな人に「それは壇珠さんだからできるんだ」と言われます。まるで別の惑星の生物のような扱いで、なんならあなたは自分が特殊だとわかるべきだと言わんばかりの諭し口調で言われてしまいますが、んなわけねェだろうがァ!!挑戦だけなら誰でもできるわい!!と思います。その人が自身を卑屈になってバカにしているのを感じるし、こちらのことも勝手に枠の外に置いて特殊扱いをして消費して安心しているのを感じ、むかっ腹が立ちます。あなたとわたしとの間の差があるとすれば、そこに挑戦するか否かの違いでしかない!!わたしはクソ弱いし、できないにも関わらずやろうとしているだけだ!!できないから日々少しずつ這ってでもやろうとしてるんだ!!と言いたくなります。こんなところから、消費されたくないという圭吾さんの気持ちがよくわかる気がいたします。

ありがとうございます!!涙の長文引用!!涙、涙、涙、です!!私は最近思うことがあります。弱いひとの味方になろうとする人はたくさんいるけれど、強いひとの味方になろうとする人はいないということを。そして、何を隠そう自分自身「俺は、強い人の味方になりたい」と思っていることを。庶民の味方はたくさんいます。しかし、金持ちの味方はまったくいません。金持ちは差別をされています。金があるんだから寄付をしろと言われたりすることが大量にあります。しかし、それはおかしい話だと思います。金持ちに寄付をしろと言う暇があったら「お前が一億稼いで9000万円寄付しろ」と思います。私は、経済的な意味では大富豪ではありませんが、精神的な意味では大富豪だと思っています。ただ、自分で言うのもあれですが、精神的な大富豪になるためにそれ相応のことをやってきたという矜恃があります。金持ちを汚いとか狡いとか搾取をしていると文句を言う人はたくさんいますが、彼らは、相当なことをやってきている。とことんまで勝負をかけたり、見せていないだけでとんでもない努力をしていたり、みんなが遊んでいる時に自分だけは仕事や勉強にかじりついていたり、とにかく「普通」を犠牲にしながら得た報酬が現在の地位なのだと思います。私は、そこに敬意を払いたい。自分からは何もしようとしないで、誰かから何かをしてもらうことを待ってばかりいる人は、ものすごい乱暴な言葉になってしまいますが「お前はそのまま死になさい」と思います。世の中はどんどんどんどん表面的な優しさに溢れて来ていますが、多分、このままではどんどん地球が腑抜けになります。私は、私が守りたいと思う種を守りたいと思います。私は、強くなろうとしている人、強くあるために一生懸命生きている人を守りたいと思います。弱い人にかける言葉は「這い上がってこい」の一択です。これは、何を隠そう、自分が自分自身に常々言い聞かせている言葉です。弱者が生きる道は、這い上がるか、死か、どっちかだと思います。誰もお前のことなんて助けてくれないんだぜと、はっきり言った方が本領を発揮すると思います。

世間的な慰めの言葉のひとつに「あなたはそのままでいいよ」というものがあります。人によってそこに込められた意味は様々だと思いますが、私は、極端な話ではありますが「そのままでいいわけがないだろ」と思います。外側から与えられた安心は一時的な慰めをもたらしますが、ある程度の時間が経てば、必ずまた同じ場所に戻って来ます。その度に「そのままでいいよ」と誰かに言ってもらう必要があるだなんて、しち面倒臭い話だと思います。そのままでいいという言葉は、新陳代謝を前提としていると思います。それは、言い換えるならば「これまでも変わり続けて来たように、これからも変わり続けていくこと」なのだと思います。変わり続けることで、変わらない自分を発見します。しかし、変わらない自分を発見するためには、変わり続ける必要があります。必要、などと書くと堅苦しいですが、端的に「変わると言うことはとても面白くてエキサイティングなこと」だと思います。そのままでいることは楽かもしれませんが、せっかく生まれて来たのだから、どんどん変わってどんどん新しい自分と出会い続けて、そしてなお「変わらずに常にあり続けていた自分」を発見するのが、人生という旅の醍醐味だと思います。そのためには、どんどん失敗をするのがいいのだと思います。どんどん新しいことを試して、これはうまくいったとか、これは全然ダメだったとかぎゃーぎゃー言いながら、体験の幅を広げていく。地球というプレイランドのアトラクションを全部制覇してやるぜっていうくらい、貪欲に取りに行くくらいがちょうどいいのだと思います。時折痛い目に遭うこともありますが、何も起こらない人生より痛い目に遭う人生の方が絶対に面白いです。だから、延々と思い悩み続ける人を見た時は「自分に失敗をさせてやれよ」と思います。失敗しなきゃはじまらないんだよって思います。何度も何度もダサい服を買ったからこそ、ようやくバシッ!と決まる服に出会えるんだよと思います。自分に似合わない服を着ているんじゃないよ、自分に似合う服を着させてやれよ、自分の心を踊らせてやれよと、勝手ながら思います!!

捨てる覚悟のない人と一緒にいるくらいならば、しゃ~ないから一人でいたいと思います!!そして、自分だけでも笑わせようと思います!!なんかこれを書いていて泣けてきます!!それから、なりたい自分にふさわしいものは確実に仕留めに向かう。同意MAXです!!この、向かうということが大切なのだと思います!!楽ばかりして自分の望みに向かってくれない自分はどんどん信用できなくなりますが、向かってくれた自分は信じられます。それで失敗しようが成功しようが、そんなことは重要じゃないと思います。

もしも自分の親友が、自分の望みを叶えるためになにかに向かってくれたとしたら、それが失敗に終われば残念だし成功すれば嬉しいだろうけれども、どっちに転がろうともその親友への信頼は確固たるものとなると思います。本当に向かってくれたということが、すべてだと思います。けれども、「失敗したら嫌だから」と言ってなにもしてくれなかったら、本当に向かってくれたのとは大違いだと思います。がっかりするし、あまり絆を感じません。自分が自分の望みを取りに行こうとするかどうかによって、自分との絆が問われます。自分の欲しい物を仕留めに行かないと、自分の望みとちぐはぐな行動を取ることになってしまう上、自分から「信用できねえな」と思われてしまいます。それはほとんどの人にとって、嫌な感覚です。だからわれらは、自分を無視してはならないのだと思います。

涙!!涙!!涙!!この往復書簡はまじで涙!!自分を信用するために、私たちは自分を楽しませる必要があるのだと思います。楽しんでいる自分は、嘘じゃないっす。何かを好きだと思っている時の自分は、何かに心を奪われている時の自分は、何かを「最高だ」と思えている時の自分は、たとえ周囲からどれだけ非難を受けたとしても、金色の光の中にいるのだと思います。世間は、簡単に掌を返します。ちょっとでもいい噂が広まれば善人になり、ちょっとでも悪い噂が広まれば悪人になります。本質ではなく、どうしたって表面的な情報に左右をされるのが人間だと思います。ただ、自分だけは、自分をちゃんと見ています。自分にいいことが起きた時、これまでの苦労がまるごと報われたような瞬間のど真ん中にいる時、自分に対して「よかったね」と心の底から思うことができます。自分に対して言っているのですが、どこか、自分以外の大切な存在に言っている感覚があります。自分が自分を信用する、自分が自分の友達になる、自分が自分と絆を結ぶということは、こういう瞬間にあるのだと思います。俺だけはお前を見ていたぜ、と、世間的な評価ではなく絶対的な価値として、自分を認められるのだと思います。

神がかりと言えば、今日ひょんなことから、バッハは神に捧げるための音楽を作っていたのだと知りました。素敵なことだと思いました。自分を表現し、自分で表現し、それを神に捧げるというのをカッコいいと思いました。

わたしは個人的に、音楽や絵や文章などの作品を、天から降りてきたと表現するのはあまり好きではありません。もちろんインスピレーションを得た感覚をそう表現しているのだとは思いますが、だからこれは天や神や魂の創作であって、自分で創ったのではない、自分はただの媒体なのだ、というものがあまり好きではありません。天から降りてきたものだから自分の意匠は入っていないということを売りにしているものも好きではありません。それではその人はイタコのような役割を担っているということになってしまいます。ならば著作権は神さまにあるのかいと突っ込みたくなってしまいます。

インスピレーションを得ることって往々にしてありますが、それもまたその人を通してこそ発露したのだと思います。だから堂々と、これが自分の表現だと言っていいのだと思います。その勇気を持ち、その表現に責任を持てばいいのだと思います。わたしの性格が悪いのかもしれません。でも、本当に100%自分が関わっていないだなんてありえないし、そんなふうに自分を抜いた表現だと言う必要はどこにもないのだと思います。その人が作ったのに、その人自身の尊厳を抜き取ったら本人が可哀想だとも思います。

神や天や魂だけが純粋で素晴らしいのではないと思います。わたしはどんな作品だって、その人がいなくては作品にならなかったと思うし、その人の在りようが思いっきり反映されているのだと思います。もっと、人間を、自分を、尊重していいじゃないかと思ってしまうんです。だからわたしはやはり作者をリスペクトするし、その作品は作者と神さまのコラボレーションだと思います。圭吾さんはこのあたりを、どんなふうに感じますか。

ぬおー!!なるほど!!バッハの話、なんだかめちゃめちゃ大事ですね!!天から降りて来たのは作品ではなく私たち自身であって、作品は天に捧げるものなのかなと思いました。本当に良い作品を作れた時、私は「ああ、これで地球に贈り物を残せたな」と思います。これは、好きな人にあてたラブレターにも似ていますし、愛するこどもたちに向けた手紙みたいなものだなとも思います。自分が愛されているかとか自分が祝福されているかどうかじゃなくて、自分が愛していることや自分が祝福していることが大事なのだと思います。世界を正しく祝福することができたとき、ああ、いい作品を作れたなと思います。祝福と言うと、喜びとか愛とか光とか前向きなイメージが強いですが、叫び出したくなるほどのさみしさや、膝から崩れ落ちるほどの悲しみの中にも祝福はあると思います。彫刻家がナタを振るうように、目の前にあるモチーフから本当を削り出すことができた時、それは素晴らしい作品になるのだと思います。だから、壇珠さんがおっしゃるようにあらゆる作品は「人間と神様のコラボレーション」なのだと思います。片方だけではダメで、そのどちらもを感じることができるものを傑作と呼ぶのだと思います。

人間の中には、生存欲求と同じくらい破滅願望があるものだと思います。生きることと死ぬことは本来同義であると思うのですが、一般社会では片方の極ばかりが取り沙汰されて「死ぬことを抜きにした生」だけが蔓延します。しかし、それだけでは本当ではないので、行き場をなくした破滅願望が病気や犯罪や不祥事などを通じて表に出るのだと思います。作品が作品として力を発揮するのは、そこに人間の全部があるからだと思います。片方だけではなく、どちらもがあるからこそ、それに触れた人間の「罪」とか「業」とか「穢れ」みたいなものを浄化させるカタルシスを生み出すのだと思います。人間が綺麗なものを生み出せるのは、私たち自身が綺麗だからというよりは、私たち自身が汚れている(汚れを知っている)からだと思います。汚れを知っているからこそ、純粋さを前に涙が出るほど震えるのだと思います。

私たち人間を、神の被造物だから全員美しい存在だと考える説があります。言いたいことはものすごくよくわかるのですが、私の場合は「善人なんて一人もいない。全員悪人だ」と言われたほうがすんなりと腑に落ちます。悪人同士だからこそ、私たちは響き合えるのだと思います。人間を善人だと思うと、善の部分でしか繋がれなくなります。自分や相手の中にある、ちょっとした悪を許せなくなります。他者に向けた厳しい眼差しは自分自身にも向けられて、自分を許せなくなる時期が必ず来ます。そんな時に、私たちは作品によって命を救われることがあります。素晴らしい作品の中にあるものは「許し」だと思います。それは、悪い部分を改善したから許されると言う類の話ではなく、悪い部分を抱えたままそのままの姿で「生きててもいいよ」と言ってくれているような、存在をまるごと肯定する力を与えてくれます。

質問からズレてしまいましたが・・・作品について思うことをつらつら書き連ねてしまいました!!最近、許しについて考えさせられる出来事がありました。お会いする方々から「どうすれば自信を持てますか」とか「沈黙が怖いのだがどうすればいいか」みたいなことを聞かれるのですが、それって、根本的にはここにいちゃいけないって思いがその人にあるからなんじゃないかなと思いました。ここにいてもいいに決まっているからこうして話をしているのに、話している間も「本当に大丈夫ですか?」と、ずっと許可を求められているような感覚になり、イラッとしてしまうのです。乱暴な言葉になるのですが「いいっつってんだろ」と思います。何かをしてはじめてそこにいることが許可されるなんてなくて、それって「何かをしなきゃここにいちゃいけない、という場所からは離れなくちゃいけない」だと思うのです。

人間は、人間が思うほど弱くはないのだと思います。だから、自分はダメな人間だと否定的な言葉を浴びせ続ける以上に、自分に向かって「自分は意外と勇敢なのかもしれない」とか「本当はもっと明るい人間なのかもしれない」とか「実はめちゃめちゃわがままなのかもしれない」とか、肯定的に言い換えてやることは有効だと思います。弱いひとに寄り添う人はたくさんいますが、私は人間の強さに寄り添いたい。そして一緒に「へい、やってるかい?!」と併走したい。俺はやってるぞ。お前もやっているか。そんな関係でありたいと思います。壇珠さんとのやり取りは、毎回「やべえ」ってなります。壇珠さんがめちゃめちゃやっていてくださっているからこそ、俺も生きて生きて生きている限り命を燃やさなければ壇珠さんに合わせる顔がねえぜえと燃えます。これはもう遠隔で一緒に遊んでいることと同じですね!!地球というバカでかい公園で一緒に遊んでくださる壇珠さんの存在に、今日もバカでかい愛と感謝を捧げます!!壇珠さんに幸あれ!!俺に幸あれ!!俺たちみたいな読者のみなさま全員に圧倒的で揺るぎなき莫大な幸が降り注がんことを・・・俺の祈りを空に放ちます!!てやーーーーー!!!!!!

バッチ来い人類!うおおおおお〜!