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【往復書簡】アロマばっかり嗅いでいないで、野生を嗅げ。

壇珠さんの記事へのお返事です。

壇珠さん、おはようございます!!今、那覇に向かう飛行機の中からこの記事を書いています。飛行機に乗るたびに、雲の上はいつも晴れてるんだよなと思います。地上が厚い雲に覆われていても、さらに上では青空が広がっている。何処にいても、今いる場所だけが世界ではないんだよな、こことはまったく異なる時間が流れている場所があるんだよなと思えると、心にゆとりが生まれます。英語では、空間も宇宙もどちらもスペースと言いますが、スペースの語源は「距離」なのだそうです。物事と適切な距離を維持できると、すべてを適切に愛せるのかもしれません。都会の時間も、田舎の時間も、どちらも私は大好きです。ただ、片方に偏るとどうしても精神が崩れるため、物理的な移動をすることでバランスを取っているのかもしれません。

最近は、決めることの威力を実感していました。5年ほど前、経済的な余裕がある訳でもないのに「毎月一回は海外に行く」と決めた時期がありました。そう決めたら、不思議なことに宇宙がそれを叶えるための手助けをしてくれているのかなんなのか、本当に毎月海外に行く生活が実現をしました。交通費を出して招待してくださる方が現れたり、一人では不安だからと海外旅行に誘われたり、私の代わりにどこそこへ行って〇〇をして来てくれとお使いを頼まれたり、様々な形を通じて思考が現実化をしました。私は、私の連絡先やスケジュールを限りなくオープンにしていました。もしかしたら、それが良かったのかもしれません。自分の望みをオープンにすることによって、世界がそれをサポートしてくれた感覚があります。毎月海外に行ける自分が凄いというよりは、宇宙の働きが凄い、得体の知れない自分という人間に声をかける周囲の人々が凄い、俺も凄いがお前も凄い、自分一人では土台無理な話もチームプレーだと音速で達成されるから凄い、世界は自分が思っている何億倍も凄いという実感が凄い、といった形で感動をしていました。

最近、私は「毎週一回は海に入る」と決めました。流行り病の影響で海外に行くことが難しいため、今年の夏は海内を攻めたい。驚いたことに、毎週一回は海に入ると決めたら、実際にその通りの日々が現実化しました。心ある方に誘われて現在沖縄に向かっているのですが、自分がどのようなことを考えているのか、自分がどのようなことを望んでいるのかは、人生の方向性を決める本当に大事なポイントなのだと思います。プラスを望めばプラスが来るし、マイナスを望めばマイナスが来る。自分には無理だと思えばしっかり無理だし、自分にもできるかもしれないと思えば実際にできてしまう。だからこそ、自分が望んでいることには細心の注意を払った方がいいのだと思いました。間に合わせで済ませると、間に合わせの人生で終わります。それはそれで一つの人生だとは思うのですが、やっぱり私は最高だと思わず叫びたくなる瞬間を大事にしていきたいな、と思います。これでいいではなく「これがいい」と、自分の心が前のめりになって愛していけるひとやものやことを大事にしていきたいな、と思います。目の前にいるひとやものに向かってお前が好きだと叫ぶ時、ああ、いまの俺めっちゃ生きているなと思います。

容赦無く幸せであることが大切だという記述に胸打たれました。自分の幸せを遠慮する人が多い現代では、幸せであることに対して、容赦なく、と書くのが適してしまっているのだと改めて思いました。

多くの人が自分の幸せを考えることに遠慮を感じるのは、自分が幸せであるということが、わがまま勝手に居ることだという認識があるからだと思います。わたしはそこに一石を投じたい!!いや、もう多くの人が日々たくさんの石を投げているのだと思いますが、でもこのことはいくら石を投げてもいいというくらい、われわれ現代人にとっての大きな命題だと思います。

わたしは、自分の状態を芳香剤のように捉えるとよいのではないかと思います。自分が嫌な気分でいるときは悪臭が放たれていて、良い気分でいるときは芳香が漂っているものだと考えると良い気がします。自分が嫌な気分でいるときは嫌な振動が放たれていて、結局それは周囲の人の中の嫌な気分に共鳴し、嫌なものを引き出す効果があります。逆に、良い気分でいるときは良い振動が放たれていて、それは周囲の人の良い気分に共鳴し、良いものを引き出す効果があると思います。

最高です!!壇珠さんの一石には二兆円の価値があります!!これが本当の一石二兆(二鳥)と言いたい!!大変失礼いたしました!!自分を芳香剤だと思うのはスーパーグッドアイデアですね・・・早速、飛行機の中で試しにフレグラってみました。すると、私という存在が溶け出してバッハの旋律のように美しい波動が空間を満たし、ふふふ、お前ら(乗客のみなさま)俺と同じ飛行機に乗れてよかったななぜならば今日のお前らは俺の空気に触れてしまった手前幸せにならずにはいられない一日を送ることになるからさふはははは!!参ったか!!ざまーみろ!!幸せにおなーり!!みたいな気持ちになりました。上から目線で申し訳ないのですが、こういう時は上から目線がよいのだと思います。神目線になることが即効性を高める気がします。もしも、私の上から目線に対して私以上に上から目線でフレグラってくる人物が現れたら「こいつ、できる・・・!!」と私の細胞は畏怖に震え、そしてこの人と友達になりたいと思う気がします。友達になれなくてもなんか凄いやつに出会えた今日は最高の一日だなと思える気がします。凄いやつがいるこの世界はまだまだ生きるに値するぜと、ドキがムネムネすると思います。

ここまで書いて、俺と壇珠さんには孫悟空的要素が強いのかもしれないと勝手に感じました!!勝手にすみません!!願わくば読者の皆様も同じだったら楽しいなあと思って書くのですが、ドラゴンボールの主人公である孫悟空の喜びは、自分よりも強いやつに出会うことです。孫悟空は強いやつに出会うとすぐにワクワクしちゃって現実的な悩みが無効化し、そいつと遊ぶことに心を燃やしてしまう戦闘民族ですが、気持ちがとてもよくわかります。これって、最高の遊び相手を見つけた喜びなのかなと思います。たとえ相手が敵だとしても、どこか友達なのだと思います。勝負をしながら握手をしている。殴り合いながら抱き合っている。傷つけ合いながら絆を深めている。そこには敵も味方も本当はなくて、ただ、最高のライバルがいるだけなのだと思います。こういうのって、健康的でいいなあって思います。世界を相手に相撲をとる。私は、勝っても負けても爽やかなまま、何度でも立ち上がって「よし、もういっちょ!」と言えている時の自分が好きです。勝ち負けという結果というより、戦っているというまさにそのことに喜びを感じている自分が好きです。裸の世界に、裸のまま飛び出していく時の自分が好きです。

このnoteでの毎日投稿を書くようになってから、多くの人が”癒やし”を得られる記事が好きなのだということに気が付きました。癒やされました、というメッセージが届くときは、スキやいいねの数も多いし、シェアやコメントも多いのです。

それはわたしにとっても喜びだったので、短期間でしたが積極的にトピックに取り入れている時期もありました。なんだかみんなとつながっている気がして良い気分にもなります。癒やしというのは、すごいカリスマ性をもちうるものだということも学びました。けれども、すぐにそこに違和感を抱くようになりました。そもそもわたしは、誰かを癒したいとは思っていなかったのです。癒やされるべき人を想定するのも好きではなく、それを思ってなにかを書くのもまったく性に合いませんでした。なんといいますかこう、自分をズルいように感じられるし、辛気臭く、つまらなくなってくるのです。

わたしの興味はもっと、世の中や生きることやこの宇宙のことを、こう解釈すると面白くないっすか!!気分よくないっすか!!という提案をしたかったのであって、それが読んでくれた人にどう使われるのかということは、どうでもいいことでした。読み手を完全に信頼してしまえばいい、と思えるようになるまでは、好きなことをぶちまけて書くとフォロワーが減ることにめっちゃビビって驚いたりしていましたが、今や屁の河童です。そして、こうなるとめちゃくちゃ清々しいのだとも知りました。われわれ、この往復書簡でも、それぞれがいつも清々しくなれることを書いていたいですね!!

むぇっちゃむぇちゃわかります!!私も、癒したくないし、役に立ちたくないし、説明をしたくないし、いいことをしたい訳でもないし、誰かを救い出したい訳でもありません。そんなことよりも遊びたいのだと思います。もっと強い言葉を使えば「かっ飛ばしたい」のだと思います。悩みを解決してからかっ飛ばすのではなく、悩みを抱えたままそのままの姿で一緒にかっ飛ばしたいのだと思います。思い悩んでばっかりいる人を見ると「よろしく浸ってんじゃねえよ」と思います。お前いつまでそれをやってんだよと思います。前会った時も同じこと言ってたじゃねえかと思います。お前は何処にでも行けるのになんでそんなところにいつまでもいるんだと思います。自分に同情するなと思います。まずはその被害者面をやめろと思います。お前は癒しが足りないのではなく癒され過ぎて腐っているんだよと思います。相手が女性なら「せっかくの美人が台無しだぜ」って思います。アロマばっかり嗅いでんじゃねえよ。もっとこう、野生を嗅げよ、命を嗅げよ、生命が爆発するような感動に触れろよと思います。生々しい血の臭いが蔓延するジャングルに足を踏み入れたら、憂鬱や退屈なんて一発で吹き飛ぶぜって思います。

清々しさ、本当に大事だと思います・・・これこそが我らの生命線だと思います!!清々しさ、潔さ、晴れやかさ、爽快さ、痛快さ、軽妙洒脱、粋、豪放磊落、など、大好きな言葉です。それだけを追いかけていたら、路頭には迷っても生き方には迷わないと思います。私は最近熱海で避難生活をしていたのですが、南国のみなさまもとてものんびりとしています。療養には最適だと思いますが、あんまりのんびりしていると私はなんだかダメになっちまいます。露骨にイライラしてしまう自分を見て「ああ、俺は頑張りたいんだな」という思いに気がつきます。地元の新潟を出てきた時も、みんなからは新潟はいいところだから東京なんて行かなくてもいいじゃないかと言われたりもしたのですが、同じ気持ちになりました。のんびり過ごすのもいいけれど、俺はまだまだ頑張りたい。広い世界を見てみたいし、自分の本気を見てみたいし、自分がどこまで通用するのかを見てみたいし、自分の思い込みをハンマーでかち割られて「なんじゃこりゃー!」とか叫びたい。家族に見守られて死ぬ自由があるのと同じように、俺たちには、野垂れ死ぬ自由もあるのだと思います。あなたは愛されていると言われるよりも、俺たちには路頭で死ぬ自由があると言われた方が、捨て身の身軽さを感じるから好きです。

癒し自体を悪いことだとは思いません。ただ、癒されることはゴールではないと思います。癒しはスタートです。癒されたらさっさと生きることです。パワースポット巡りをしている人を微妙に感じるのは、癒しがゴールになっているからです。浄化されたがる人を見ると、お前はどんだけ汚れてんだよと思います。もう一回言っちゃいますが、癒され過ぎて腐っていると思います。親離れをしろ。あるいは、子離れをしろと思います。癒されることはゴールではない。とっとと生きろ。自己啓発本にも似たことを思います。一冊読んだらまた別の自己啓発本を探す方がおられますが、それは違うだろう、と。次はお前が生きる番だろう、と。どれだけ外側から大丈夫をかき集めてみたって、お前が心の底から大丈夫だったと思えない限り言葉は力をもたねえんだよ、と。そのためには経験するしかねえんだよ、と。だからこそ、この往復書簡では「行こうぜ」だとか「やろうぜ」だとか、比較的厨二病要素の強いワードの数々ではありますがそれでもなお我々の空気感に触れたら実際に生きたくてたまらなくなっちゃう感じのアトモスフィアを生み出していけたら、最高ですね!!うおおおおお!!書きながら燃えてきたあああ!!

こんなことを書くと、ちょっと頭がアレなのかなと思われてしまいそうですが、圭吾さんならそう思わないだろうという希望を持って書いてみますと、わたしは宇宙の中のものはみんな同じ素材でできていると思っています。その素材は、なににでもなれるもの、です。なににでもなれるもの、は、わたしたち人間が観察したいと思ったものなら、なににでも変幻してくれます。それがコップでも、プロテイン飲料でも、ダムでも、龍の形をした雲でも、スチール椅子でも、安物の靴下でも、人間でも、風でも、暖かい季節でも、なんでもなんでも実現してくれます。宇宙は神の太っ腹、宇宙は究極のなんでも屋です!!

ここまで書いたところで寝落ちをしまい、現在は羽田空港に向かう飛行機の中から続きを書いています!!飛行機の中から言葉を綴るのは乙ですね!!

そして・・・壇珠さんが何を書ても「え、こいつなに言ってんの」などとは絶対に思わない自信だけはある、俺です!!どんと来いです!!もしも俺があんまりよく理解できなかった時は、俺の理解力が追いついていないだけです。理解できずとも壇珠さんの言葉と共に生き、数日後、数ヶ月後、はたまた数年後に「はっ!壇珠さんが言っていたことは、これのことか!」って、線と線が繋がる未来をたやすく想像できます。だからもう、何でも書いていただけると嬉しいっす。それによって、毎回引き上げられている俺です!!

宇宙は神の太っ腹。宇宙は究極のなんでも屋。これらは非常に大事な言葉だと思ったので、安易に理解をしたつもりにならずこの言葉と共に生きていきたいと思います。今、飛行機の窓から空を眺めています。青い空に白い雲が浮かんでいます。我々のルーツを辿ると宇宙誕生の瞬間まで遡るように、雲も、私も、飛行機も、同じところから生まれたんだよなあって思うと壮大な気持ちになります。人間界では、自然と人工を正反対のものとして語りますが、広い意味では自然ではないものなんてひとつもないんだよな、と思います。キリスト教やイスラム教や仏教など、この世の中にはたくさんの宗教がありますが、イエスも、釈迦も、決して厳しい戒律を守るように言っているのではなく、たった一言「人生はなんでもありなんだよ」って言っているような気がします。そういった点において宗教は結構パンクスで、この世的な常識とは真逆の価値観を打ち出すことによって、本当はこうであるべきなんてことは一つもないんだよってことを言っている気がします。私たちは正解を求めて彷徨ってしまう生き物だと思いますが、たったひとつの正解があるのではなく、自分が正解だと思えばそれが正解になってしまう、それくらい私たちは途方もない自由の海を泳いでいるのだということを感じています。

私たちの体がなににでもなれるもので出来ているのなら、私たち自身もなににでもなれる変幻自在な存在ということですよね!!私は、たまに、自分が風になったような想像をします。目を閉じて、風になって、会いたい人に会いに行く想像をします。そして、その人に会ったらハローとかなんとか言っちゃって、挨拶をします。風の声を聞くことはできないから、その人は私の存在に気づくことはできません。ただ、あたたかい空気に包まれたような心地よさを届けることならばできると思って、風になります。すると、そうすることによって少なくとも自分だけは気分良くなることができます。ここから先はもう願いみたいなものになってしまうのですが、誰かの幸せを思うとき、その思いの数億分の一は、必ず相手にも届いているような気がします。

祝福されている人と祝福されていない人がいるのではなく、祝福されていると思っている人と祝福されていないと思っている人がいるだけなのだと思います。世界を決めているのは自分で、自分とは気分のことで、気分次第で本当に「なんにでもなれる」のが俺たち人間なのだと思います。気持ちが軽ければ体も軽くなるし、気持ちが重ければ体も重くなります。気分次第で俺たちは空だって飛べるし、テレパシーも使えるし、瞬間移動だって出来ます。逆に言えば、気分次第で地獄にだってすぐ落ちるし、罪悪感や劣等感に押し潰されたり、天涯孤独の身にもなれます。ただ、どんな時も世界の方からは祝福の手が差し伸べられていて、私たちがそれを受け取ることを自分に許可できる限り、いつでも、何処にいても、どんな時でも、祝福を受け取ることができるのだと思います。自分が心を閉じているだけ、自分が耳を塞いでいるだけ、自分が自分を縛っているだけで、世界からは終わることのない祝福のまなざしが注がれ続けているのだと思います。だから、私は、祝福に値しない人間なんて一人もいないと思っています。祝福されることに条件があってたまるかと思います。人並みに生きられる人だけが祝福をされて、そうではない人は祝福をされることはないだなんて、そんな話があるものかと思います。私は、本人がその気になりさえすれば、いつだって祝福を受け取れるものだと思います。受け取れないことがあるとしたら、一時的に拗ねているだけだと思います。受け取れないことは絶対にない。それは受け取れないじゃなくて受け取りたくないだけなのだと思います。自分が受け取り拒否をしておいて、受け取れないとか言うのはおかしな話だぜベイベー、その時はしっかりと「私は受け取りたくないから受け取らない。私はそれを選んでやっている。私の意思でやっている」って言わないと体と心がズレ始めて色々とこじらちまうぜ、心身不一致は万病の元だから気を付けてねって思います。

海の向こうに水平線が遠く遠く広がっています。見惚れてしまうほどの青を前に「なんて綺麗なんだ」とため息が漏れます。美しい景色を前にすると、私たちは祝福をされているのだとしか思えなくなります。美しい景色を前にして、生まれてこなければよかったと思うことは不可能です。生まれてきて、生きて、この景色を目にすることができたという喜びは、自分自身にも向けられた感動だと思います。自分の心はまだ生きていた、自分の心はまだまだ死んでなんかいない、自分の心はまだまだ美しさを感じ取ることができるのだという事実(感動できる自分)に、感動をしているのだと思います。

羽田空港が近づき、東京の街並みが目に入って来ました。遠くから眺める人々の暮らしはとても端麗で、精巧なプラモデルを見ているような気持ちになります。巨大なビルディングも、空から見ればマッチ棒よりも小さく見えます。地上にズラっと立ち並ぶ一つ一つの建物が、丁寧に丁寧に作り込まれた手細工のように感じられて、小さきものに込められた愛、みたいなものを感じます。巨大なビルディングよりもさらに小さな私たちが作り上げた街並みは、遠くから見る限りとても綺麗なもので、愛しささえ感じます。遠くから見れば綺麗なものでも、近づいて見たら「空気が汚ねえ」とか「人が多過ぎる」とか「みんな目が死んでいる」とか、些末な不満があふれたりもします。しかし、そういった人間の愚痴も不満も全部込みで、愛しさを感じさせるものが生活なのかもしれません。飛行機が滑走路に降り立ち、ガタガタ音を立てながら地上を滑走しています。東京に到着をしました。遠くから見れば綺麗なものも、近づくと色々とボロが見えます。だけど、もっと近づいて見れば、必ず綺麗な部分が見えてくるのだと思います。マクロはミクロを内包していて、ミクロはマクロを内包している。綺麗なものが見えるまで、世界をしっかりと見つめていきたいと思います。・・・と、ちょうどいま機内モードをオフにしたら、驚くべきことにポルシェが空港まで迎えに来ていることが判明し、ビックリ仰天している俺です。ついさっきまでは達観した気分でいたのに、男の虚栄心をくすぐるポルシェの登場によって、一発で俗物に成り下がった俺です!!短い返信になってしまってごめんなさい!!人生って愉快だなあ・・・!!野生を嗅げとか言っておきながら、小生、一丁前にポルシェに護送されたいと思います!!猫に小判!!無職にポルシェ!!GO WILD!!明日のことさえわからない、男の旅はまだまだ続くぜえええええええええええ!!どすこーーーーーい!!(ポルシェと相撲を取る音)

バッチ来い人類!うおおおおお〜!