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お前も、死ぬほど気を遣って生きてきたんだな。

自由とはやりたいことをやり、やりたくないことをやらないこと。そんな言葉が、今日のイベントの最中に飛び出した。確かにその通りだと思う反面、同時に「自由って、そんなに幼稚なものだろうか?」とも思った。感情に忠実であるということ、うれしいときに笑い、かなしいときに泣くということは、確かに大事だ。しかし、自分の感情が最優先されるとなると、自分の信念は後回しになる。うまく言えないが、感情に忠実なだけでは宿らない魅力が、信念に忠実なひとには宿る気がする。こういう風に考える自分は、男性的に過ぎるのかもしれない。そう思って、イベント中は何も言えなかった。人間の気分、人間の感情、人間の良心とは、そこまであてになるものだろうか。私は、どこか人間を信じきれないでいる。人間はあまりにも弱いものだから、自分の内側というよりは自分の外側に、確固たるものが必要なのだと思う。キリスト教徒にとっての聖書のような、羅針盤が必要なのだと思う。

今日はHSP談義に花が咲いた。昔からよく「お前は考えすぎだよ」と言われることが多かった私は、自分の頭がおかしいのだと思っていた。みんなが当たり前にできることが自分にはできない。身近なところで言えば、なぜ、学校に行く必要があるのかがわからなかった。それを大人に言うと「そういうものだから」という返事しか返ってこない。周囲の同級生も、愚痴や文句は言うものの、学校に行くと言うことに対しての疑問を抱いている人は(私が見た限り)皆無に近かった。疑問をもった人から消えていく。疑問を抱く限り、特定の組織にい続けることは難しい。そのため、わたしは非常にわかりやすい形でレールから逸脱し、なかなかの生きづらさを感じながら生きた。考えすぎだよと言う言葉は、慰めとして響くことはなく、心を殺せと言われているように聞こえた。私は「自分を殺して生きるくらいなら、自分を出して死にたい」と思った。心を殺してまで、生きていたいとは思えなかった。

共同主催者のNさんが「私は、神社とかに言っても『普通の人間にしてください』とか『(あまりにもいろいろ感じすぎて疲れちゃうから)岩にしてください』とか、そんなお願いばかりをしてきた。友達とかの話を聞くと、みんなは『恋人が欲しい』とか『海外旅行に行きたい』とか『車が欲しい』とか、攻めたお願いをしていることを知ってびっくりした」と話してくれた。この話題にめっちゃ共感した。私も、神社に行っても基本ありがとうございますとしか言えない。唯一「まともな人間にしてください」と願うことはあるが、それ以上のことを願うことができない。別に健気ぶりたいわけではなくて、結婚できますようにとか、お金持ちになれますようにとか、そういうことを祈れるひとをすごいと思う。全然、自分の中からそういう思いが湧いてこない。ただただ、まともな人間になりたいということだけを、35年間思い続けていたように思う。そして、驚いたことにいまも思い続けている。

生きづらさ。これを感じるひとはどれくらいいるのだろうか。私は結構な頻度で感じるが、あまりにも感じるために「それが普通」みたいになっている。だからなのだろうか、生きづらさを感じていないように見えるひとの言動より、生きづらさを抱えながら「それでもなお」と強く生きようとしている人の姿に、胸を打たれる。なにかを解決した人が「こうすればうまくいきますよ」的なアドバイスをしているものより、自分と似た悩みなり苦しみなり葛藤なりを抱えながら「それでもなお」と生きている姿を示してくれる人の姿から、力をもらう。共に生きている併走者のような、同士のような感覚を得るのだ。だから、別に、HSPとかそういうものはハンデもなければ弱点でも改善するべきポイントでもなく、ただ、そうなだけなのだと思う。ただ、そうである部分を抱えている人間が、いま、この瞬間も生きている。もしも生きづらさを抱えて思い悩んでいるひとがいたとしたら、私は、こんな言葉を言いたいと思う。わかるよ、と。ここにも、生きづらさを抱えながら生きている一匹のオスがいるよと。解決はできないが、併走ならばできる。

会の途中で「俺は、年々弱くなっていることを感じる」と話した。最近は人々の音やノイズに敏感で、たとえば新横浜駅に近づくほどに頭痛がする。人混みに行けなくなってきているし、車のクラクションの音や、不機嫌な人が発する声のトーンが無理になってきて、そんな音に触れると心臓が軋む。静かな場所、ひとりになれる空間がないと、なかなかどうして自分を保てない。いよいよ社会生活もまともに送れなくなってきている自分を「弱くなっている」と表現したのだが、あとからこれは的確じゃないなと思った。弱くなっているのではなく「敏感になっている」のだと思う。昔は大丈夫だったものが、どんどん無理になっている。しかし、それは悪いことではない。時折、こうした体質を通じて生きづらさを感じることもあるが、この薬を飲めばそういう症状は全部治るよと言われても、私はその薬を飲まないだろう。敏感であることは、私の生命線なのだ。心を殺すと言うことは、自分を殺すと言うことだ。自分を殺せば楽になれるよと言われても、それならば私は楽じゃない道を選ぶ。そんなことを思う。結局、私は、私であることを選ぶ。

ひとりでいる方が楽だし、静かな場所にいる方が楽だ。それでも私はイベントを開き、人と会い、騒々しさの中に身を置いたりする。そのために疲労を重ねることも多いが、なぜ、自分はこんなことをするのだろう。きっと自分なりのトレーニングをしているのだと思う。人と生きるトレーニング。自分を保つトレーニング。自分を壊すトレーニング。自分を広げるトレーニング。20代の頃、とある会社で働いていた。8時出社だったのだが、出勤前に必ずカフェに寄っていた。カフェに寄って一呼吸を置かないと、自分を保つことができなかった。だが、ある日、カフェに寄って会社のビルの前まで行ったのだが、どうしても入り口のドアを開けることができなかった。今日、様々な方々の話を聞きながら「普通の人が当たり前にやっていることに、とんでもない労力を払っているひとがいる」ことを思った。学校や会社に行くということ。誰もがやっている当たり前のことだ。だが、この当たり前のことをやるために、毎朝ものすごい勇気を振り絞り、それこそ死に物狂いで玄関の扉を開けているひとがいるということを、その労力を、誰にも褒められることのない、できて当然だと言われていることに払われている決死の努力を、見つめることができる人間でありたいと思った。完璧な人間はいない。だが、お互いに精一杯生きていると言うことだけは、忘れたくないと思った。

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なんのために生きるかなんて、あなたに会うためでいいだろう。

連絡先・坂爪圭吾(さかつめけいご)
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com

Don't Rest in Peace, Just Rock'n Roll.

🌸🌸🌸イベント情報🌸🌸🌸

6月28日(日)12時 わたり食堂@横浜市港北区「Rest Inn Peace」

https://www.facebook.com/events/565008437741131

処女作が出版されました。是非、読んでみてください。


バッチ来い人類!うおおおおお〜!