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勝手に惚れたんだ。死んでも被害者ヅラするなよ。

恋愛相談を聞くことが多い。彼(彼女)とうまくいかない。愛されない。振り向いてくれない。など。相談を聞くたびに「お前は、本当にそいつのことを好きなのか?」と思う。昨日、仕事とパートナーシップを同時に失い、人生史上最悪の時期にいると話す女性と会った。だが、会ってみたら意外と元気そうだった。とてもじゃないけれど、好きなものを失った人の顔に見えなかった。だから、私は「あなたはへこんでいるとか言うけれど、本当に彼のことを好きだったのですか?」と聞いた。ら、ある種の衝撃が彼女を貫き、しばらくの沈黙の後「うわあ、これは話が変わってきますね」と、笑った。

惚れ込みが足りない。

誤解を恐れずに言うと、私は「さみしさを自覚しろ」と思う。恋人がいる人は多いが、恋人を好きな人は少ないと思う。好きで好きで大好きで一緒にいるというよりは、自分がさみしいから、自分に自信がないから、自分に経済力がないから、自分が空洞(愛されている実感の欠如)を抱えているから、それを埋め合わせるような付き合いをしている人間は多い。これ、いかがなものだろうか。それ、実際は結構苦しいんじゃないだろうか。心の一部に「諦め」が蓄積しないだろうか。と言うか、相手に失礼じゃないだろうか。自分を使って相手を幸せにしたいと思うことが愛ならば、相手を使って自分を幸せにしたいと思うことは、自己愛だ。これ、微妙じゃないだろうか。と言うか、本当の『好き』を体験することもないまま、貴重な生涯を終えることは、真の意味で『生きた』と言えるのだろうか。言えない気がする。あらゆるところで、常に誰かのせいにする自分に苦しめられる。結婚の動機は、愛情か打算の、どちらかだ。仕事も、恋愛も、打算で選ぶと、打算で死ぬ。

要するに「惚れ込みが足りない」のだと思う。このひとと一緒にいれば幸せになれそうだな、とか、このひとと一緒にいれば安定した人生を送れそうだな、とか、打算だ。逆だ。この人とだったら不幸になっても構わないと思えることが愛だ。幸せとは、幸せになろうとする先にあるのではなく、不幸になっても構わないと思う先にあるものだ(と言うのは極論なので、真に受けないでください)。人生を賭けるような相手じゃなきゃ、命を賭けたいと思える相手じゃなきゃ、張り合いもないだろう。妥協は、人間を骨抜きにする。打算は連鎖するから、打算で結婚した男女は、子供に打算を強要する。

死ぬ気でやれよ。死ぬから。

死なないように、死なないように、死なないように生きることのダサさ。死なないように生きても、最後には死ぬんだよ。それなのに「無事に生き延びること」だけを最優先して、安全な仕事、安全な関係、安全な環境ばかりを選んでいたら、死ぬ時に「自分の人生はなんだったのだろう?」と絶望するリスクがある。リスクを避ける生き方は、最悪のリスクを招いている。最悪のリスクとは「一回も生きることもないまま、死ぬこと」だ。生きている実感は、常に、死のリスクと隣り合わせにある。中途半端な『生』を生きると、ゾンビみたいな人間になる。表情が黒ずみ、常に不満に満ち満ち、言葉や姿勢に覇気がなく、恨み言が多く、大切にされないことに拗ね、偽物の笑顔に顔面は歪み、内臓が腐敗する。最悪だ。最悪であり格好悪い。ダサい。

俺は、自分のことを「性格が悪い」と思っていた。だが、違う。ただ、本当のことを言っているだけだ。どう見ても、いまの日本は終わっている。満員電車なんて、強制収容所に送られるユダヤ人と同じじゃないか。なぜ、耐える。なぜ、耐えられる。必要なのは、耐えることより『暴れる力』だ。違うと思うものには「違う」と言う勇気だ。それによって、死ぬことになっても構わないと腹を括る気骨だ。生きるためには嫌なこともしなければならないと考えている人が多過ぎる。社会は、個人の集合体だ。社会が変われば個人(自分)も変われるだなんて大嘘だ。お前が変われ。お前が社会なんだよ。誰かになにかをしてもらうことばかりを考えている時点で、お前の人生は終わっている。お前がやれ。お前が行け。お前が動け。お前が反旗を翻せ。お前が出る杭になれ。いい子ぶってんじゃないよ。好かれようとか思ってんじゃないよ。お前の本気を見せてみろよ。そういうことを、比較的毎日思う。

冷静に考えてみよう。俺たちは、生まれ落ちた瞬間から終身刑を宣告されているようなもので、寿命があるという時点で「死刑宣告されていることと同じ」だ。この世はある種の牢獄で、ただ、どのように過ごすかの自由はある。洗脳されて生きる自由も、卑屈になりながら生きる自由も、自分なんかダメだと落ち込みながら生きる自由も、誰かと比べて自信を失う自由もある。唯一、決められていることは「誰もが最後には死刑」ということで、別に一人一人を凶悪犯罪者だとまでは言わないが、誰もが罪人であることに変わりはない。キリスト教的な原罪の話をしたい訳ではなく、誰もが、どれだけいい子ぶって生きて見せたところで「これまで、一度も、悪いことをしたことがない人間」はいない。絶対にいない。必ず、誰もが過去に『悪事』を働いている。無論、俺も同じだ。俺なんて罪だらけだ。俺を叩けば罪がホコリのように舞い上がる。ただ、時折、晴れた日にホコリがキラキラ光輝く。全員悪人なんだよ。俺たち、全員。それなのに、なにいい子ぶってんだよ。自分は悪いことなんて一回もしていないなんて言う奴がいたら、そいつはアホだ。ただのバカだ。そう信じることが、この世で一番『傲慢』なことだ。

勝手に惚れたんだ。死んでも被害者ヅラするなよ。

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暗い人間が多い。厄介なのは、根暗なくせに、元気なふりを続けることで「根暗を隠そうとする」輩が多いことだ。口数が多いのも、リア充アピールを続けるのも、愛想笑いを浮かべるのも、返信が律儀なのも、好かれようとするのも、嫌われないように振る舞うことも、聞き手側にまわろうとするのも、全部、根暗だとバレることが怖いだけだろう。自分の底の浅さが露呈すると、みんなから仲間外れにされると思い込んでいるだけだろう。でも、そんなもん、とっくの昔からバレているんだよ。自分が自分を軽蔑するように、周囲もお前を軽蔑しているんだよ。だから、もう、そんな真似はやめなよ。お前は、お前のまま、かかってこいよ。ぶつかってこいよ。ダメならダメで、何度でも起きあがれよ。何度でも立ちあがれよ。最初から強いやつなんてひとりもいないんだよ。倒れて、倒れて、倒れて、それでも這い上がることで『強さ』を得るんだよ。自分が自分を生きないで、誰が自分を生きると言うのだ。自分の命を生きることができるのは、自分しかいないんだよ。

この世で一番ダサいことは「誰かのせいにする」ことだ。逆に言えば、誰のせいにもしないで「ただ、やりたいからやっています」と言える人間は、清々しい。聞き飽きた正論、聞き飽きた理想を振りかざして「私は○○のために、この活動を続けています」だなんて、お前は生徒会長か。お前は風紀委員長か。お前はどの学校にも一人はいた優等生か。俺の、一番嫌いなタイプの人間だ。周囲に好かれること、周囲に認められることが人生の最優先事項になっている人間は、嫌いだ。なぜなら、嘘つきが多いからだ。実態を摑めないからだ。政治家の顔面が醜い理由と同じだ。嘘で、顔面が氷結している。あんな顔面になったら、人間、終わりだ。真の笑顔は、でかいものだ。真の笑顔は、もっとこう圧倒的肯定力のあるものだ。太陽みたいなものだ。

こと、恋愛においては「お前が勝手に惚れたんだ。死んでも被害者ヅラするなよ」と思う。問題があるなら、それは、お前の惚れ込みが足りないからだ。たいして好きじゃないなら、これまでお世話になりましたと感謝を告げて、とっとと離れた方がいい。そうじゃないと、言い訳が重なる。自分をどんどん嫌いになる。自分の足で歩けなくなる。最悪のリスクがやってくる。人間にとって、これほど悲しい出来事はない。あらゆる人間関係は、自分がいい男(いい女)になることで解決する。終わりなきウジウジの日々に別れを告げて、いま、歩き出すことだ。死なないように生きるのではなく「死んでもいい」と思って、生きてみろ。すると、変わるよ。世界も、自分も。一発だよ。一発で変わるよ。世界も、自分も、あっという間に変わるんだよ。

連絡先・坂爪圭吾
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