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【往復書簡】なりたい自分にふさわしいものを獲りに行け。

壇珠さんの記事へのお返事です。

壇珠さん、おはようございます!!榎津巌です(映画「復讐するは我にあり」参照)。最近は急に映画鑑賞にはまり、暇さえあれば映画を見ています。これまでは「俺の人生が映画より凄い。よって映画を見る必要はない」と思い上がっていたのですが、自分より凄い奴を大量に発見して謙虚になっている俺です。映画鑑賞のポイントは、他人事として見ないことだと思います。感動に触れたら「凄いなあ」と羨むだけではダメで、どうすれば自分もそうなれるかを考えてこそだと思います。そうじゃないと、ただの消費になると思います。私は、消費をすることも消費されることも嫌いです。時折、出会う人から「どうすれば坂爪さんみたいになれますか」的なことを聞かれるのですが、その言葉の響きに消費の臭いを嗅ぎ取ったときにイラッとする俺です。雑誌記事のように、ただの興味で自分を消費されたくない俺です。

最近のテーマは「運を磨く」ということで、徹底的に周りのものを捨てました。断捨離をして感じたことが120個くらいあるのですが、一番印象的だった感覚は「さようならとありがとうは同義語」ということです。愛していたバイクも手放しました。手放すことなんて全然考えていないほど愛していたのですが、ふとした瞬間に「これを手放したらどうなるのだろう?」と考えたら胸がドキドキしてしまって、次の日にはバイク王の手に渡りました。結果、大正解でした。なんとなく取っておくよりも、思い切って手放すことの方が愛だなと感じました。子離れや親離れを思いました。手を離すこと=愛がなくなるではないと思います。逆です。愛があるから手を離せるのだと思いました。逆に言えば「別れを恐れている限り出会えない」のだと思いました。手放せば手放すほど自分が豊かになっていく感覚がとても爽快でした。

小学校時代、私たちは「先生、さようなら」と毎日別れを告げていたと思います。しかし、年齢を重ねるにつれて「バイバイ」とか「またね」とか、さようならを濁す言葉を使うようになっていきます。私は、ここに罠を感じました。さようならが常用語から消えたために、私たちは「次がある」などと思い込むようになり、生きることを怠けてしまうのだと思います。明日があると思って生きている人より、今日しかないと思って生きている人の方が、切なさと緊張感のある充実した今を生きていると感じます。毎瞬毎瞬にさようならを言えたら、毎日を大切に生きられるように思いました。捨てる覚悟のない人と一緒にいると人生が奪われます。情報デブになり体が鈍ります。私は、飄々と生きる自分と一緒にいたいと思います。これがなければ生きていけなくなると何かを握り締めている自分より、何もなくても生きていけるぜと笑っている自分と一緒にいたいと思います。なりたい自分にふさわしくなくなったものたちは「ありがと〜!!!!!!!!!!!!!!」と心の海に散骨し、なりたい自分にふさわしいものは確実に仕留めに向かいます。

晴れた日の夕方のヴェネツィアは、天国のキャラメルが溶けたみたいな金色の光をまとって、言葉に尽くせないほど麗しく優雅な姿を見せてくれます。それを見るたびに、なんということだ、自分にこんなに幸福なことがあっていいのだろうか、目があってよかった、地球人になれてよかった、と思います。そして、イタリアに居るからそう思うのではなくて、きっと今のわたしは、日本のしがない街の侘しい公民館の前にいてもおなじように感じるだろうと思いました。そんな自分は今日、外を歩きながら、全身の細胞に満足が行き渡ったかのように感じました。そして、こんな思いをするだなんて、わたしの人生は最高の成功だなと思いました。人生には成功も失敗もないのですが、でも過去のすべてがこのためにあったと言ってもいいと思いました。

この感覚、とてもよくわかる気がします。私は、現在、東京の一等地に滞在をしています。見る人が見たら「お前はセレブか」と突っ込まれそうな場所にいるのですが、セレブだと思えばセレブだし、普通だと思えば普通です。好きなだけ滞在していいと言われているため、最近、服装を一等地スタイルに変更しました。これまで大好きだったアウトドア用品などを全部捨て、金髪を黒髪に戻し、革の靴を履き、金の時計と金のピアスを装着しました。服装を変えると、相手の態度が露骨に変わります。良い待遇を受けることになるのですが、その度に「人生はおままごとだな」と思います。おままごとという言葉は軽薄に響くかもしれませんが、自分は自分という役割を演じているだけなのだと自覚することは、そのまま自由につながるのだと思います。

一等地に好きなだけ滞在していいと言われていると伝えたら、きっと、多くの人々から「運がいいね」とか「凄いね」とか「恵まれているね」などと言われる気がします。しかし、それは違うと思います。我々、誰ひとり例外なく、地球という一等地に好きなだけ滞在していいと言われている貴族です。あとは、それを自覚するかどうかの違いだけなのだと思います。貴族になろうとするのではなく、最初から貴族であったことを知ることだと思います。それさえわかれば、きっと、世界のどこにいても「ここにいられることの喜び」を感じ取ることができるのだと思います。東京の一等地も、新潟のスラム街も、言うまでもないことですが私のものではありません。たまたま、一時的にそこにいる自分がいるだけです。この世のすべては仮の宿。自分のものではないからこそ、いさせてもらえる喜びを受け取れるのだと思います。

過去との決別が断捨離。それは、自分なんてと思う卑屈さを手放す行為だと思います。これはただの予感でしかないのですが、世界は、常に私たちに対して「あげるよ」と色々なものを無償で差し出しているのだと思います。しかし、受け取る側である私たちが勝手に遠慮をして、勝手に断り、勝手に自分なんてみたいな自虐思考にはまって自滅しているだけなのだと思います。世界の側は、常に「あげるよ」って手を差し出しているのです。あげるって言っているんだから、欲しいならもらえよって思います。受け取らないことは相手に対して失礼だなどとと言う人もいますが、そんなことはどうでもよくて、あまりにも受け取ることを遠慮し続けると、世界の方から「お前がそんなんだったら、あげねーぞ」と最終的にそっぽを向かれて、ゲームオーバーになってしまいます。人生はおままごと。拗ねた自分を死ぬまで演じ続けたいのなら、死ぬまでそれを演じ続ければいいと思います。ただ、絶対に、それを他者のせいにしたらダメだと思います。演じたくて演じている自覚を持つことが、失われた主体性を取り戻すたった一つの道なのだと思います。

そのまま自然界を見ると、「嗚呼、この宇宙はこうも傑作だ」と思います。自然破壊を悲しく見ることもできれば、何もかもがこのままで良いとも見えます。また地球をピカピカにしたければ、俺は神さまだから自由にそれを創り出して楽しめるから、どこまでも自由に事象と体験が起こればいいのさと思います。これはわたしの神様像なので、他の誰かにそれは間違っている、神さまはそんなことは思わない、などと指摘されても関係がないと思っています。なぜなら、わたしは神様ごっこでおおらかにご機嫌になるからやっているからです。自分のご機嫌を守るSECOMは自分で担当しています。

自分のご機嫌を守るSECOMは自分で担当しています、って最高ですね!!同様に、悪態の水門を開閉する門番も自分で担当している俺です。私の場合、ムカついた時はムカつきをしっかり表明することにより、その奥にある愛に辿り着けることが多いです。私は、美容師との会話が苦手過ぎて10年以上美容室に行けませんでした。普段何をされているのですかとか聞かれても「あほみたいなことを聞くな」とか「それって答えなきゃいけないのですか?」とか「なんで俺が金を払ってお前を接客しなきゃならねえんだ」などと思うし、シャンプーやカラーなどで担当が変わる度に同じ質問をされたりすると、美容室ごと燃やしてやろうかと思います。なにが美だ、と。お前らは美じゃねえ。微妙の微だ。微妙室と名乗れ。と、それくらいのことを思うのですが昨日勇気を出して10年振りに美容室に行ってきました!!断捨離で波動が高まっている俺だからなのか、めちゃめちゃ良い感じの男性に担当をしていただき、美容室に対する偏見が緩和をしました。ありがとうございます。

自分のご機嫌を守ると言うのは、結構攻めの姿勢だと思います。受け身でいると、精神的な疲労が大きいです。しかし「最悪な接客を楽しみにいこう」と思って能動的に喰らいに行くと意外と楽しめる俺です。人生はおままごとなのですから、時には悪役を演じることもおつです。職業を聞かれても、別に正解を答える必要はないのです。いくらでも嘘をつけばいいのです。一度限りの出会いなのですから、腹が立った時は「お前の声が無理だから担当を変えてくれ」と言えばいいのです。なかなかこんなことは言えないので、実際にそういった言葉を口にすると「あなたがいてくれたことで、私は自分を解放できました!!ありがとうございます!!」という感謝に変わります。自分の偏った考え方の幅を広げるためには、やはり、外に出る必要がある俺です。自分を新しい場所に置いたり、自分に新しいやり方を試させることによって、これまでの常識の幅に広がりを与えることが大好きな、俺です!!

この「よろしく浸ってんじゃねえよ」が大好きです!!さきほど上の神さまごっこのことで、たとえ本当のことだろうとも、なんか自分のいい感じのところをクローズアップして書いた感じがして清々しくないので、あたしゃここで、勇気を出して自分の性格の悪さをぶちまけてみようと思います。またラブソングの悪口のようになってしまいますが、いや、実際悪口なのですが、「君がいなくなってからずっと笑うこともできない」とか「君は僕のもの、だからまた必ず抱きしめる」とか「何年経っても色褪せない思い」とか「君が去ってから僕は人を愛せない」とかいうのを聴くと、「しつこさキモー」「独占欲の鬼ウッザ」「いつまで執着してんだよ、寒すぎ氷点下だろ」と思ってしまう自分がいます。まさに、よろしく浸ってんじゃねえよです。「あなたにわたしのすべてをあげたのに」「だから早く気がついてよ」「あなたがいないと生きられない」「あなたはわたしじゃなきゃダメなの」「ねぇ思い出してわたしを愛した日々を」「そうよあなたはわたしのもの」「だからここに帰ってきて」みたいなものも、なんか怖いです。その女のもとに帰ったら井戸に引きずり込まれる気がして怖いです。まさに浸りすぎを美化した、メイドイン井戸の底の、呪いの怨念だと感じます。悲しみに浸ることを美化する世界には、ロシア最北の刑務所の独房レベルの極寒を感じます。

最高です!!こういうのを書い(ちまっ)てくださる壇珠さんが大好きです!!うほ〜!!元気になるぅ〜!!楽しぃ〜!!浸っている人には、映画「復讐するは我にあり」をAmazonプライムで無料視聴してくださいと言いたい。偏見たっぷりに私見を呈すると、私は、浸っている人間ほどどうせ普段は汚ねえ部屋でダラダラYOUTUBEとか見てるんだろと思います。だからこそ、私は声高々に言いたい。今日を生きていないお前に、YOUTUBEを見る資格はない。と(但し「復讐するは我にあり」に限りOK!!)。悲しみに浸ることを美化する世界は、ほんっっっっっっっっっっとうにたくさんあると思います。全部J-POPの責任だと思います。依存を美化してしまったがために、依存できる対象を探して依存の度合いを愛情の度合いと勘違いする極北独房野郎を量産したのだと思います。湿度を武器に戦う連中には、俺と言う除湿機をプレゼントします。悲劇っぽく何かを語られても「その手には乗らねえぜ」って思います。俺が行きたいと思う方向はジメッとした方向じゃなくてカラッとした方向なんだよ、と。悲劇ぶっているお前も本当はビビっているだけなんだろ、ビビっている自分を正当化したいだけなんだろ、そんなことばかりしていると何処にも行けない人間になっちまうぜ、そんなことより遊ぼうぜ、行こうぜ、ピリオドの向こう側に行こうぜ、と思います。

一般的には、著名だったり自分の事業を立ち上げて成功しているなどで仕事がうまくいっていて、お金がたくさんあって、人間関係がうまくいっていて、友人にも恵まれ、病気もしないで生きている人のことを、成功者としてお手本にして憧れます。そして、そういう人は迷いがないのだと勝手に思ってしまいがちですが、それは非常に狭いものの見方なのだと思います。世の中には自分の生き方を迷わず貫くことで、お金を失ったり、亡くなったり、仕事をしていなかったり、広い交友関係を持たずに生きている人もたくさんいますよね。そしてその信念はその人を幸せにしているということも、たくさんあります。わたしは生き方というものが定まっているわけではありませんが、しかしあえて定めるとして考えたら「常に自分が選んでいるのだとわかって生きる」「外側で遊びながら、外側に惑わされないことを目指して生きる」と言えるかなと思います。究極を言ったら「生き方なんてどうでもいい、と考えることにビビらずに生きる」みたいな感じかもしれません!!

「生き方なんてどうでもいい、と考えることにビビらずに生きる」って、とでもない名言ですね!!私も、世間的な成功者の定義を貧困だなと思うことがあります。良い家、良い車、良い服、とか、それだけが成功になっているみたいでダサいです。成功者って、やりたいことをやっている人間だと思います。成功者と、成功者と思われたい人は別物です。言うまでもないことですが、成功者になることの方が成功者だと思われることの何倍も幸福です。なぜならば、真の充足感は他者の承認を必要としないからです。しかし、昨今の世界は「成功者になることよりも、成功者だと思われること」に心血を注いでしまっている人が多いように見受けられます。豪華な家に暮らしているけれど、なんだか全然満ち足りていない感じの人をたくさん見ました。同じように、豪華な家に暮らしながら、めちゃめちゃ満ち足りている人もたくさん見ました。自分が欲しいものをわかっている人は、カッコいいと思います。しかし、みんなが欲しがるものを欲しがる人は、ダサいなと思います。自分がないというか、豪華なのは表面だけで、空疎な人間だなと思います。

先日、私の夢を見たという方にお会いしました。夢の中で、私は、その方に向かって「このワイン一杯より安いものは、全部捨てなさい」と高級ワインを飲みながら告げたそうです。その夢があまりにも衝撃的だったために、翌朝、その方は家にあるものの9割を処分したという報告を受けました。これを聞いた時は最高だなと思いました。世間では自分を愛することが大事などと言われていますが、自分を愛するって抽象的で曖昧でよくわかりません。そんな言葉よりも「このワイン一杯より安いものは、全部捨てなさい」と言われた方が具体的で現実的で燃えます。捨てれば捨てるほど元気が湧き出します。捨てるほど入ってくることを予感できるようになり、過去の自分を断ち切り、いまと少し先の未来に集中できるようになります。自分を愛するということは、自分を安売りしないことなのだと思います。捨てれば捨てるほど、残されたものの視聴率が上がります。そこには「なりたい自分の姿」があります。執着を捨て去ることが大事とも言われますが、それは「なりたい自分の姿にふさわしくないもの」に対する執着を捨てるだけであって、欲望そのものを捨て去る必要はないのだと思います。欲望こそが、生きる力だと思います。なりたい自分を欲望することが、よりよいものを手に入れるエネルギーに転じるのだと思います。くだらないJ-POPや自己啓発書で骨抜きにされる前に、まずは一回捨てることだと思います。そうすることで、見えるものがあるのだと思います。自分を安売りしたらあかんのです。市場価値なんてガン無視だ。相場なんて気にするな。人間は商品じゃない。作品だ。芸術と同じだ。誰か一人から気に入ってもらえたらそれだけでいいのだ。百億円の絵画も、誰か一人でもそれを買いたいと思う人がいるのなら、みんなに買ってもらう必要は一切ないのです。安売りをすると粗雑に扱われます。本気の値段をつけると、本気の人間が集まります。人生は金じゃねえっす。人生は本気です。本気の人間は、瞬間瞬間を大切にします。本気で「なりたい自分を獲りに行く」ことが、運を磨き、充足をもたらし、日々に張り合いを与えるのだと思います。物凄い集中力を凝縮させたために、ここまで書くのに相当の時間を要してしまいました!!短いですが、カルピスの原液ばりに濃い内容を刻めていることを願ってこのまま投げさせていただきます!!あたしはやっぱり、その人の体液を感じるくらい濃度の高いものが好きです。綺麗に整えられたものもよいですが、やっぱりそれだけではつまらない!!野性と神性の間に在る人間。俺の体液、遠くベネツィアまで響き渡れーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!

バッチ来い人類!うおおおおお〜!