見出し画像

【往復書簡】ギリギリ怒られよう。

壇珠さんの記事へのお返事です。

壇珠さん、おはようございます!!祖国ジャパン(東京界隈)は現在金木犀の香りに包まれており、エブリデイ懐かしさに襲われている俺です。香りというのは本当に不思議なものですね。私は、しばしば「俺は無駄に生きてきたのではないだろうか」とか「俺の人生でこれだけは本当だと思えるものはあったのだろうか」などと思い悩むのですが、金木犀の香りを嗅ぐと、ああ、これだけは本当だなって思えたりします。金木犀の香りを通じて過去の記憶が蘇り、自分は確かに生きてきたことを思い知ります。花の香りはどれも素晴らしいですが、金木犀の香りは特に記憶を蘇生させる力が強い気がします。これまでの記憶が、確かに生きてきたいい思い出として息を吹き返すのです。ただ、それも束の間の出来事。だから、同時に切なさも感じます。

私には往生際が悪いところがあって、素晴らしい出来事に触れた時はそれを忘れたくないと強く強く強く思い、特定の曲をエンドレスリピートで自分に聴かせ続ける習性があります。数年前にオランダに足を運んだ際、ここでの出来事を忘れたくないと思った私は自分に小沢健二のある曲を永遠に聞かせ続けました。散歩をしながら聞き、横になりながら聞き、料理をしながら聞き、料理を食べながら聞き、とにかく徹底的に自分に聞かせ続けました。おかげさま(?)で、今では小沢健二のその曲を聞くたびにアムステルダムの素晴らしい思い出が蘇ります。素晴らしい人物と出会うことができた時も、同じ真似をします。あなたのことを絶対に忘れたくないと思い、特定の音楽を徹底的に自分に流し込み続け、大脳辺縁系に刺青を掘ります。そのおかげなのかなんなのか、普段は忘れているような出来事も、ふとしたことをきっかけに蘇り「ああ、俺は確かに生きていた」などと思って、グッと来ます。

特定の香りが、それに結び付く感情や記憶を呼び起こす現象をブルースト効果と言うそうです。マルセル・ブルーストの『失われた時を求めて』という小説の中で、主人公がマドレーヌを紅茶に浸した際、その香りを通じて幼少時代を思い出す場面があるのですが、その描写に由来をしているそうです。これは非常に気持ちの悪い話になるのですが、私は、二十歳の頃に当時付き合っていた彼女に振られて精神的にズタズタに切り裂かれて心身共にボロボロになった経験があります。一人であることに耐えられなかった私は、薬局に行って元カノが使っていたものと同じシャンプーを買い求め、その香りを嗅ぐことで自分を慰めていた時期があります。極めてみじめったらしい行為を通じて「失われた時を求めて」いたのですが、多かれ少なかれ、誰にでも似通った経験があると思います(なかったとしたら俺一人だけで悲しい)。

香りも、音楽も、目には見えないけれど人々の心の中にある『何か』を激しく揺り動かすものとして確かに存在していることの不思議を思うと、ああ、生きているって凄いことだなあと思います。記憶に翻弄されながら、同時に、その記憶を通じて自分は確かに生きていたということを思い出します。当たり前のことだけれど、誰にでも記憶があるのだと思って街を行き交う人々を眺めると、あたたかな気持ちが芽生えることを感じます。私はいま、東京のドトールというカフェにいるのですが、ここにいるお客さん全員が愛しく感じられてなりません・・・が、だが、だがしかしだが、いま、目の前のバカっぽいギャルが突然ズームでビデオ通話をはじめました。先刻までの感傷は何処へやら。いまは目の前のギャルが憎くて憎くてたまりません。目に見えるものの威力は半端なく、目に見えない部分をあっという間に吹き飛ばします。すべてが愛しいと言った直後に「お前は死ね」と感じてしまう矛盾。矛盾こそ人間ですよね・・・どっちもあっての人間ですよね・・・!!

われら地球人はすごいご縁だと思います。なんと言いますか、ピーピーピコピコ!宇宙通信、宇宙通信!おや?誰かとつながった!もしもーし、あなたどこの星にいるの?こんにちは!わたしは今、地球にいますよ~!えっ…?そうなの?わたしも地球だよ?わーすごい、めっちゃ奇遇だね!!ねえねえ、どの時代なのっ?あのね、西暦でいうと今は2021年だよ!え?ちょっと待って!!わたしもなんだけど!!ええ~?!こんだけ広い宇宙でこんだけ長い時の中で、同じ星で同じ時代って!!やばいね!!そんでそんで、なんの生物やってるの?まさか人間とか言わないよね??ぬがー!信じがたいことにまさにその人間なんだけど…!!ぬ、ぬ、ぬぁんと~!!人間同士かーい!!もうどんだけ似通ってるのうちら!!…という仲間だと思うと、チョイスが似すぎていて、もはや他人だとは思えなくなってしまいます。

ありがとうございます!!!話が逸れてしまうかもしれないのですが逸れていないことを信じて書くと、私は「地球人全員同棲相手じゃん」と思うことがあります。これは「どこまでが家か」という哲学的(?)な問いを含みます。私は思うのです。壁と壁によって仕切られた空間を家と呼ぶのなら、この惑星には大量の家があります。しかし、地球をひとつの家だと思えば、我々は全員同棲していることと同じです。俺たちの屋根は空だぜ、てな具合です。同じ空の下を生きる我々兄弟、自分と他人を分けて考えるなんて、小せえ、小せえ。旅は道連れ世は情け。仕切りは要らねえ。一蓮托生。人生はチームプレーであります。自分も他人もない。同じ命があるだけです。しかしながら、ドトールでビデオ通話をするような奴はいますぐここを出(略)

そう思って物たちを見ていると、自分の浅ましさが恥ずかしくなることもあります。でもそんなときに物たちや昆虫たちに「こんな自分と一緒にいてくれるんだね…?」と問いかけてみると、彼らは無言でそこにいて、自分の存在を丸ごと何もかもそのまま肯定してくれているように感じます。あまりに肯定してくれているので、わたしになんの関心もなく、ただ完全に無償でつながってくれているように見えます。そんな感覚で物を見ながら街を歩いていると、道路よ、ガードレールよ、工場の壁たちよ、ペンよ…君たちは神様でできているんだね…と思います。文章にすると大変怪しくなってしまうのですが、心の内を正直に書くとこんな感じになってしまいます。そして我幸せなり。何もかも良かったなと思ったりします。物たちは可愛いですね!

いま、目の前にあるコップを眺めながら「コップよ・・・」という気持ちになりました。コップの健気さに胸を打たれました。コップはコップとしてそこにあり続ける。これはもう一輪の花と同じじゃないかと思いました。コップはコップであることの愚痴を言わないだけ、私の数億倍マシだと思いました。コップであり続けることの強さ、素晴らしさ、幼気さ、純粋さ、やばいです。コップに向かってコップンカー(タイ語で「ありがとう」)です。何度でも言わせてください。コップに向かってコップンカーです・・・!!!

想像と創造はおなじサウンドを持っていますが、意味にもまたおなじ要素があるのだと思います。人間が想像すること、思いを持ったものは創造できるのだと思います。欲と善く、良く、能く、美く、好く、可く、これらはみな「よく」というサウンドを持っていますが、これも自分の欲を楽しく満たそうとしたときに、人は善くあり、良くあり、能力が発揮されて、美しくなり、好感が持てて、そしてその欲を満たすのは可能なのだということだと思ったりします。事例をあげるときりがないのですが、こうしてサウンドを大切にすると、嫌な言葉を言いたくなくなってくるのが面白いところです。わたしはおなじサウンドが二回続く言葉が好きです。主にオノマトペに多いのですが、しとしと、るんるん、ふわふわ、もくもく、わくわく、すべすべ、ゆめゆめ、うきうき、とんとん、まいまい、などの言葉は、どこか子どもっぽくて情緒に溢れ、思考的ではなくて体感的で、優しく易しく柔しい感じがします。わたしは感覚的に、われら地球人はオノマトペが好きなんじゃないかな、と思います。オノマトペの最も多い言語は日本語だそうですが、その数は圧倒的に他の言語より多いのが面白いですね!わたしは祖国のそんなところが大好きです。

コップンカー!!コップンカー!!めちゃめちゃわかります!!私もよく、チュンチュン、チュンチュン、とか言いながら部屋の中をぐるぐる回っていたりします。傍目は完全にやばい人認定案件ですが、これがまた愉しいのです。私は人間のつもりで生きていますが、言うても「つもり」です。人間気取りの俺は、小鳥ちゃん気取りにもなれます。言わずもがな、風にもなれればドラゴンにもなれるし、私が知っているものならば私はなんにでもなることができます。体感的に響くオノマトペは、思考で凝り固まった想像の扉を開ける力があると思います。左脳が脱力することで、右脳の扉が開きます。

先日、とても素晴らしい女性の存在を知りました。その方は長年歌手をやってきたのですが、ある日のライブ終了後に脳出血を起こし、右手足麻痺と重度の失語症(全く何も話せなくなる病気)になりました。歌手が声を出せなくなることは踊り子が足を失うことと同じくらい致命的なダメージだと思うのですが、しかし、その方は諦めませんでした。そして、諦めなかったことが彼女に奇跡をもたらしました。ほとんどの失語症患者は改善することなく病気を抱えたまま生きるのが普通とされていた中で、彼女だけは短期間で目を見張るような回復を果たしたのです。言語を司る脳は左側にあるのですが、音楽を司る脳は右側にあるそうです。失語症になってしまったために、彼女は「ありがとう」という言葉を周囲に伝えることができなくなりました。しかし、ある日、彼女は「言葉では無理でも、歌うことで伝えることならできるのではないだろうか」と思い、言語としてではなく、ありがとうという歌詞をメロディーに乗せて歌うように口にしたら、驚いたことに声が出たのです。ありがとうと言うことはできなくても、ありがとうと歌うことならばできた。この発見により、彼女は少しずつ自分の声を取り戻しました。

現在は病気になってから2年の月日が経過しているのですが、彼女はnoteに「歌の練習」と題して自分の歌声を載せていました。これを聞いた時に、大袈裟ですが涙が出そうになるほどの感動を覚えました。なんて綺麗な声なんだろう、と。失語症は言語中枢を破壊する病気らしいのですが、壊された言語中枢は「リズムを表現する能力」を司っている部分なのだそうです。だから、現在は言語とリズムを取り戻すための練習を頑張っていると書かれてありました。私は、なんだかもう、いろいろなことに心が打たれてしまって、自分のことをとても恥ずかしく感じました。そして、同じくらい「人間は、なんと素晴らしい存在なのだろう」ということを思いました。月並みな言葉になりますが、諦めたらダメなんだなあって思いました。手を伸ばすこと、たとえ届かないとしても、それでもなお手を伸ばし続けることが大事なんだなって思いました。手に入ったものに合わせて満足するよりも、手に入らないとしても自分から手を伸ばす方がおもしろい、ということを思いました。

ぎゃ~!もう素晴らしくて感動です!!泣いちまいます!本当に本当にそうですね!この、気を向け関与をすることで、バラバラだと思っていた対象が自分と一緒になる感覚って、本当に自分を豊かにしてくれますね!圭吾さんのこうした発想や観点がいつも超超超超大好きです。これをいろんなモノに対してやろうとすると、あるときに「おや?この世には関与のないものがまったくなかったじゃないか!!」という気付きにつながっていますね。その気付きというのはとても深いところから愛と癒やしを自分に与えるものだと思うので、そこに向かう気の向け方使い方、関与の仕方をするのはすんばらしいことだと思います!!なんとよき考え方でしょうか!!はわわわ~

ありがとうございます!!宇宙に主語はない的な話を以前聞いたのですが、私は水拭きが好きです。床を磨くことと自分を磨くことをイコールに感じるから好きです。食器洗いも好きです。食器を洗うと自分が洗われる気がします。他者にしていることは自分にしていることと同じ、などと書くと綺麗事めいていやんなっちゃいますが、なにかを「文字通りやってみる」ことは効果的だと超超超思います。たとえば、自分の命を燃やしたいと思った時は具体的に何かを燃やしてみるのは効果的だと思います。命を燃やしたいと思っているだけではダメで、ゴミでも落ち葉でも鶏肉でもししゃもでも嫌な上司の上着でもなんでもいいから七輪を用意して実際に燃やすと楽しいと思います。燃える炎を眺めながら、絶対に「実際に燃やして見なければわからなかった何か」を掴むと思います。比喩を比喩で終わらせず、実際にやってみることが好きです。やる前に思うことと、やった後に思うことって、必ずどこかが違いますよね!!この世のほとんどは自分の思い込みに過ぎなかったのだと思える瞬間は愉快です。実際にやっちゃうことの愉快さは不滅です!!

こんなことを書くことができる圭吾さんの、どこがちっぽけなものでしょうか!爆笑、そして尊敬です!成金クソ野郎、悲しみのクズなどの言葉で、腹から笑いました!!わかります、わかりますとも。わたしも素敵な身なりをしていると「フフフ、どう?このドレスは。ファビュラスでしょう優雅でしょう。みんなでお花になって踊りましょう。おほほほ」などという思いが湧いて、悦に入ります。しかし、ひとたびボロを着ると、己から哀愁が漂ってくるのです。自分は貧相だ。幸薄だ。自分の姿は周囲の人にいい感じを与えていない。そんなわれは今生きながらにして墓石のようだ。つまらない、取るに足りない、疲れた捨て犬なのさ…という気分になってしまいます。

生きながらにして墓石のようだ、を読んで爆笑しました!!たのすぃ〜!!なんでこんなに楽しいのでしょうか!!決してポジティブな話をしているわけではないのに、社会的に褒められるようなことを話しているわけではないのに、腹を抱えて笑えることの豊かさ!!ごいす〜!!こんなことを言っちゃうことは大変失礼なことかもしれないのですが、失礼を遥かに凌駕する親しみを込めて叫ばせてください。これはもう、我々、実はただのクソガキなんじゃないだろうか説を。小学校の教室で待機する我々、壇珠生徒と圭吾生徒。二人はなにやらニヤニヤしております。これは、授業がはじまることが楽しみだからではなくて、教室のドアに仕掛けた黒板消しが担任教師の頭部に直撃するかどうか、それが楽しみ過ぎてニヤニヤしておるあの感じです。一言で言えば、悪戯。漢字で書くと重々しいから、ここはイタズラと書きましょう。何歳になってもイタズラを愛する我らの童心、これこそが宝なのではないのかと!!懲りずにイタズラを仕掛け続ける、この「仕掛ける」ということを何歳になってもやめられない、我々の童心こそが至宝なのだと!!

これを機に、私は世界に向かって叫びたい。みなさま、最近イタズラをしていますかと。嫌な上司に差し出すお茶に、しっかりボロ雑巾の絞り汁を入れていますかと。友達と入ったカフェで、水を持ってくる振りをしながら友達の水にだけ大量のシロップを注ぎ込み、友達にひと泡吹かせていますかと。旦那が憎くて憎くてたまらない時、眠っている旦那の口にホコリを入れたことはありますかと。あなたは、寝言を言いながらホコリを食べている人間の顔を見たことがありますかと。そういうところからなんですよと言いたい。学校に行く目的は、何もいい成績を叩き出すことだけではないのですよと。高得点を叩き出す喜びもあれば、イタズラを仕掛ける喜びもあるのですよと。将来役に立つ知識を学ぶ喜びもあれば、まったく役には立たないけれども死ぬまで「楽しかった記憶」として輝き続ける瞬間もあるのですよ、と。

壇珠さんと語り合う時間には、なにかこう「ダメでもいい」という圧倒的肯定の空気を感じます!!ダメでもいいって、最高の矛盾だなと思います!!論理的には破綻をしています!!ダメでもいいって「上でも下」とか「男でも女」とか「北千住でも南千住」と言っていることと同じで、全然そんなことはないと思います。全然そんなことはないのに、そうかもしれないと思わせることの魔力!!規定の枠を無効化するエナジー!!ごいす〜!!今日も楽しくお返事を書かせていただきました。たのしさに勝るただしさは無し。今日も生きていてくれてありがとうございます!!壇珠さんが生きていてくれることによって引き出された今日の俺があります!!生きているだけでいつの間にかいい仕事をしている俺たち、結構素敵な存在だと思います!!引き続きいい仕事をしていきましょう!!新しいイタズラのアイデア、閃いた順にどんどん実行していきましょう!!そして腹の底から笑いましょう!!無駄こそジョイ!!無駄こそジョーーーーーーーーーーーーーーイ!!!!

バッチ来い人類!うおおおおお〜!