自分の軸は、自分の外側にある。
他人軸ではなく自分軸で生きようと言われる。他人からどう思われるかではなく、自分がどうしたいかで決めようと言われる。言いたいことはわかるのだが、私は違和感を覚える。自分の軸は、自分の外側にある。他人軸と自分軸の境界線が消えるように生きるのが本当だと思う。古武術では「相手との関係に軸を置く」と教わる。自分一人でリラックスをしていることは簡単だ。だが、奇襲を受けたり思わぬ出来事が発生すると、簡単に軸はブレる。一人でいる時に「これからは人に優しくしよう」とか「愛を持って生きよう」と思うことは容易である。問題は、誰かといる時にそれができるかだと思う。
東京在住のN様からご連絡をいただき、七里ヶ浜でお会いした。N様は鬱症状に悩み、布団から起き上がることができなかった。これまでは誰かのために動くことが多かったが、今日は自分のために動かなければ死ぬと思って、私に連絡をくれた。私に会うと決まってから、あれだけ重たかったまぶたや体が軽くなり、七里ヶ浜までは気分ルンルンで来ることができた。海沿いのコンクリートに腰をかけ、N様は身の上を語った。身の上を語るほど、あれだけ明るかったN様の雰囲気がどんどん重くなっていった。幼少期の家族関係が心に傷を負わせた。そんな話をN様はした。私は「それは本当なのだろうか」と思った。確かに、そう思う限りN様の中では本当になる。だが、それが本当の意味で本当のことならば、重くなることはない。本当の出来事は重くない。ただ、そうであるだけだ。重くなるということは、偏りや、歪みがある。誤解を恐れずに言えば、N様を苦しませているものは家族関係ではなく思い込みだと感じた。
会話がうまく流れる時は、お互いの間をエネルギーが循環する。だが、会話が滞りを感じる時は、誰かが自分一人の内面に深く潜り込んでしまって、目の前の人間を見ることができなくなっている。嫌な言い方になるが、延々と独り言を聞かされているような、愚痴を聞かされているような気持ちになる。目の前の人間を見ないで、ただ、自分の内面に深く潜り込んでしまった時、その人は自分自身さえも見ることができなくなっている。自分ではなく、自分という幻想を見ている。思い込みの幻想に囚われて、そこから出ることができなくなっている。厄介なことに、苦しみや悲しみという感情には「気持ち良さ」がある。悲劇に浸る陶酔感がある。だが、私はその陶酔感が好きではない。よろしく浸ってんじゃねえよと思う。お前一人で気持ちよくなってんじゃねえよと思う。お前が大変なことはわかった。だが、言わせてもらう。だからなんだ。お前は同情されて生きたいのか。愚痴を吐くために俺を呼んだのか。俺をゴミ箱にしたいのか。ゴミ箱にしたいなら結構。好きなだけゴミ箱にしてくれ。だけど、言わせてもらいます。人間をゴミ箱にする限り、お前もゴミ箱になるぞ。お前は、本当にそれでいいのか。
N様は「自分の気持ちを言葉にすることが苦手だ」と何回も言った。わかる。それはわかる。だが、あまりにもそれを言うものだから、私は言った。あなたは、苦手だと言う言葉に逃げているように見える。できないに逃げるな。やるに立ち向かえ。結局お前も逃げているだけじゃないか。自分がされて嫌だったことを、親からされて嫌だったことをするな。できないに逃げるな。やるに立ち向かえ。人を愛する方法は無限にある。言葉が無理なら、料理でもいい、花でもいい、まなざしでもいい、肌の温もりでもいい。無理をしろと言うわけではない。愛することを諦めるな。愛は関与だ。自分を守るな。自分を守るほど、お前はどんどん弱くなる。人間関係のゴールは自分一人だけ気持ちよくなることではないだろう。一緒に気持ちよくなることだろう。一緒に幸せになることだろう。だから、できないに逃げるな。やるに立ち向かえ。
7月1日(土)朝10時から大阪の十三で、7月2日(日)朝8時から名古屋の東山で、坂爪圭吾の演奏会を開催します。全部で二時間。最初の十五分間は全員で軽く体を動かして、体軸を整えます。体軸が整ったら、残りの時間は(休憩を挟みながら)喋ったり歌ったりします。私はこうして言葉を書いたり、歌を歌ったりするけれど、やっていることはエネルギーの攪拌なのだと思う。音楽をやっているようで、やっていることは音楽ではない。目には見えない「気」を練り上げて、精度を上げる稽古をしているのだと思う。古武術も音楽も人との会話も、自分の凄さを見せつけるためにあるものではない。人間の凄さを、俺たちの可能性を思い出させるためにあるのだと思う。自分一人だけでは、自分を知ることはできない。だからこそ、他者がいるのだと思う。能書きを並べるよりも、実際に目撃してもらうことが一番手っ取り早い。みなさまのご参加を、心よりお待ちしています。
バッチ来い人類!うおおおおお〜!