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【往復書簡】人類に贈れる最大のエールは、自分の命を思い切り生きること。

壇珠さんの記事へのお返事です。

壇珠さん、おはようございます!!今、福岡県博多市にあるホテルのロビーからお返事を書いています。先日、鍼灸師をやっている男性にお会いしたのですが、印象的な話を聞きました。私たちはよく「丹田に力を入れる」という表現をしますが、正確には「丹田に力があることを感じる」ことが大事だと言うのです。その方は趣味で総合格闘技をやっているのですが、強い選手ほどリラックスをしていると言います。力を入れるという意識だと、体が緊張をして強張ってしまいます。しかし、力があることをただ感じるだけならば、全身の力は抜けたまま、それでいて隅々まで神経が行き届いていて、全体を俯瞰することができるようになります。

格闘技の世界では、一点集中になると必ず負けるそうです。たとえば、右ストレートがめちゃめちゃ強い選手と戦うことになったとします。そうなると、どうしても右手ばかりに意識がもっていかれてしまい、不意打ちをくらって必ず負けます。そんな時、大事になるものが宮本武蔵が言うところの『観(かん)の目』になります。現代人は、スマホやパソコンの見過ぎにより、頭の緊張が大変なことになっているそうです。だからこそ、空や海を見る時のように、全体を見るともなく見ること。それでいて、相手の全体をしっかりと捉えることができている状態が、理想の状態なのだと伺いました。

私はこういう話が大好きなので、男性に「強い選手と弱い選手の違いって、何があると思いますか?」と尋ねました。すると、男性は「強い選手はすぐに戻ってくる」と言いました。顔面にパンチを喰らったら、どれだけ強い選手でも一時的には全身が緊張します。しかし、強い選手ほど、瞬時にリラックスをした状態に戻ってくるのだそうです。逆に、弱い選手とは、ダメージを引き摺ってしまって本領を発揮できなくなる選手だと聞きました。この話を聞いた時、僭越ながら「俺だ」と思いました。手前味噌ではありますが、私は切り替え力だけで生きてきた感覚があります。それはそれ。これはこれ。熱海の家が土石流で大変なことになろうが、過去。意識を切り替えて「俺には今日しかねえんだ」と前を向くと、何かしらチャンス的なものが舞い込んできます。俯いてばかりいると、チャンス的なものを見落とします。格闘技の話が好きなのは、彼らが全力で『今』を戦っているからです。リングの上では、過去も未来もありません。その潔さ、清々しさが好きなのだと思います。

・・・って、麗しい女性を相手にいきなり格闘技の話をしてしまって申し訳ありません!!女性を相手に出す手紙じゃねえ!!だがしかし、勝手ながら「俺と壇珠さんは、人生という真の総合格闘技を共に生きている戦友」という仲間意識があるために、ええいままよと書いちまいました!!きっと我々の読者の方々も、広い意味では全員総合格闘家だと信じています!!温室でぬくぬく暮らすことも別に悪いことではないけれど、何処かで「生きている実感が欲しいぜ」と燃えたぎる何かを持っている戦友・・・今日も、そんな戦友全員に向けて言葉を綴っていきたいと思います!!うおっしゃーー!!

圭吾さん、おはようございます!避難所生活を終えて、また荒野に放たれたのですね。圭吾さんの身を案ずる者としては複雑な思いがします。深い部分ではいつも大丈夫だとわかっていながらも、表面的な情けが言うことを聞きません。寒い、暑い、寂しい、心細い、などの思いが、軽くあってほしいと常々思ってしまいます。早く遊びましょう!!わたしもなる早で日本に帰国します!!思いの丈を語りあい、また一緒に歌いましょう!!

ありがとうございます!!ありがとうございます!!とてもじゃないけれどブログには書けない出来事が日々勃発しているために、リアルでお会いできる日が超絶楽しみです!!私には家もお金もごじゃりませんが、土産話だったら無限にあります!!土産話セレブです!!しかし、実際に壇珠さんにお会いできたら、過去よりもリアルな今が圧倒的な輝きを放ち、結局今を遊び続けて土産話を一切しない予感もあります。そんな俺たちが、好きです!!

わたしは自ら『気随身体術』と名付けた、身体の好き勝手に動くというおかしなことをしております。これはなかなかに奥深く、トレーニングと呼ぶことのできないものです。なぜなら、練習や訓練ではないからです。そのため、なにかがうまくなったり、なにかを達成できたりはしません。ただその場で動きたい動きをするだけなのです。しかし、えも言われぬ満足感や解放感のある不思議なものです。わたしはこれがとても好きです。(中略)

身体の好きなようにしようとすると、「身体ではなくて、心の好きなようにしているのではないか」という疑問とどうしても対峙することになるのですが、ここが深遠なポイントです。でもわたしが勝手にやっていて発見した限りのことですが、その疑問は答えが出て解決するのではなくて、その疑問自体が成立しなくなる時が来ます。身体と心は別のものなのではないと感じたり、「好きなようにしている」という言葉の定義が変わったりして、いつの間にかどうでも良くなっています。この身がひとつあれば、われらはいつだって自分と出会い、楽しみ、遊ぶことができますね!!

ここが深遠なポイントです、という表現に吹きました!!面白くて、深くて、すごいです。私のシックスセンスが「これは大事な話だぞ」と囁いたため、早々に試しました。好き勝手に体を動かすと、まず、自分の輪郭が溶けました。ぐにゃぐにゃ動いていると、やがて世界もぐにゃぐにゃしてきて、なんでもありだぜベイベーというコジコジ(さくらももこ作)の世界観に突入しました。そして、自分の呼吸が深くなっていることを発見しました。

壇珠さんの影響を受け、最近、ようやく漫画鬼滅の刃を読み始めました(現在は七巻の途中です!!)。鬼滅の刃にも呼吸というワードが大量に出てきますが、鍼灸師の男性も「強い奴は呼吸が違う。筋トレより呼吸を意識した方が絶対強くなる。呼吸が浅くなるから腹筋はNG」と断言していました。ピアニストである友人も「ピアノは呼吸が全部。最初の一音を出す前の呼吸で全部が決まる」と断言していましたし、沖縄のミスコンで優勝をした女性も「これまではジムを三箇所掛け持ちしていたが、全部辞めて整体師の先生と一緒に呼吸に集中をしたら勝った」と断言していました。マジで呼吸は大事なんだなと最近思っていたのですが、ここでも出てきました。呼吸。うまい表現が見つからないのですが、気随身体術を通じて「自分は自分でありながら、自分を動かすための道具でしかない」という感覚を得ました。自分を動かすために、体が勝手に最善の働きをしている感覚でした。これはとても興味深い遊びですね!!日常に織り交ぜつつ、男のワンネスを深めます!!

悲しく残酷な出来事も、われら一生物の痛ましい過去の経験であり、ひとつも他人事ではないのだと思います。とても変な話なのですが、だからこそどんなことも各細胞におまかせして良いということでもあると思います。わたしが胃の細胞なら、肝臓の細胞の代わりはやってやれません。でも、肝臓が元気でいてくれないと、胃も元気がなくなります。だから、胃の心配なんてしてくれなくていいし、胃の細胞になろうとしなくていいから、肝臓として輝いてくれたらいちばん助かります。自分の命も他者の命も”でっかい自分”の各細胞だと思うと、自分と他者との境界線はくっきりと明確になり、かつ完全に溶け去ってなくなります。俺たちは一蓮托生の一生物であり、それぞれの持ち場がそのまま使命のようなものですね!!

本当ですね・・・私たちは分断された個を生きているように錯覚(?)させられますが、実際は一つの大きな命を生きているのだと思います。だからこそ、非常に利己的な理由から「お前らも元気でいてくれ!頼む!そうじゃねえと、オラも元気になれねえんだ!」と思います。人類に贈ることができる最大のエールは、自分の命を思い切り生きることだと思います。私は、頑張れと言われることがあまり好きではありません。熱海で避難生活をしていた時、遠方の人々から「頑張れ」と言われまくったのですが、正直「お前が頑張れ」と思いました。お前が頑張る姿を見ることで俺は頑張れるんだよ、と、正直思っちまいました。同じように「応援しています」と言われることもあまり好きじゃありません。俺の応援をしている暇があったら、そのエネルギーを自分に使え。自分を応援しろ。お前がお前の命を燃やす姿を見せることが結局一番俺の応援になるんだよ、と、思っちまいました(へへへ)。

同時に、矛盾するようではありますが、安易に頑張れとは言わない人から「頑張れ」と言われた時は燃えます。ハッ!となり、目が覚め、眠っていた力が蘇り、自分一人では出せない力を発揮できたりします。同じ言葉なのに、それが響く時と、まったく響かない時があります。言葉によって制約から解き放たれることもあれば、言葉によって制約を受けることもあります。

私は、言葉には二種類あると思います。喚起させる言葉(インスピレーショナル)と、凍結させる言葉(ジャッジメント)です。喚起させる言葉とは、自分の内側にある部分に接触して、どんどん思いが湧き出してくるパワーを与える言葉です。それに対して、凍結させる言葉には決めつけや押し付けが含まれています。そのため、俺はお前のことを誰よりも理解していると言われても「あ、そう」となり、冷めます。胃には胃の言葉があるように、それぞれの臓器にはそれぞれの言葉があると思います。表面的には同じ臓器でも、相手は自分とは違う存在である、自分はまだまだ相手のことをしっかりとは知っていないという前提があると、よいやりとりができると思います。相手を「知りたい」と思うことが、知性になるのかな、などと思います!!

死の他にも、生殖に関することもそうです。性行為や出産や授乳をいかにも悪いことのように扱うのは寂しいことだと思います。それらを奥まった美しき秘めごととして丁寧に扱うのは好きですが、恥ずかしいこととして扱うのが嫌いです。誰もが自然と興味をそそられ、生命力と喜びを感じることだというのに、はしたないことのように扱ったり、グロテスクなこととしてまるでホラーのように扱ったりするのは悲しいことだと感じます。出産がめでたいことなら、互いの喜びとともにある性行為もまた、めでたいことであるはずです。性を否定して誕生だけを祝うのは、種まきを忌み嫌って収穫だけを喜ぶという、ある角度から見れば大変浅ましいことのような気がします。

本当にそうですね!!種まきを忌み嫌って収穫だけを喜ぶ浅ましさ、とは、的確な表現・・・素晴らしいです。恥ずかしいこととして隠すと、永遠に育たない部分があると思います。私は、究極、セックスも呼吸だと思います。それは、別の角度から見るとリズムなのかなと思います。気持ち良いダンスを踊るためには、自分のリズムを理解するだけでは足りず、相手のリズムを理解する必要があります。二人のリズムが一致をして、はじめて官能のダンスを踊れるのだと思います。これは私の感覚ですが、男の器は「いかに女性を自由に踊らせられるか」だと思います。女性に「俺のリズムに合わせろ」と言うのは、違う気がします。なぜならば、女性の方が深淵な世界を生きているからです。解き放たれた女性が龍のように上昇をした時、はじめて、男性も一緒になって上昇をすることができる。その逆は、ない。遊と言う漢字の語源は「神が遊ぶとき、はじめて人間も遊ぶことができる」という象形文字から来ているそうですが、私は、女性に同じ匂いを感じます。女性が気持ち良くなるとき、はじめて男性も気持ち良くなることができると感じます。

しかし、今は、全部逆になっていると思います。女が男に尽くすのはダメです。逆です。男が女に尽くすべきです。それでいい塩梅だと思います。男が女を襲うのはダメです。しかし、女が男を襲うのは超アリです。どんどん襲えと思います。以前、壇珠さんが「女は出せ。男は出すな」と書かれていましたが、本当にそれだと思います。現在、日本は、ダダ漏れの男性が多いと思います。自分が気持ち良くなることばかりを考えているマザコンファッ○ン野郎が多く、イヤです。俺は男に惚れたいのです。カラオケに行ったらマイクを話さないで歌い続ける男は最悪です。それを盛り上げる女もダメです。男を調子に乗らせたらダメです。それはあげまんとは言いません。真のあげまんは、男をいい男にします。逆もまた然り。真の男は、女をいい女にします。ここに循環が生まれると思います。問題の9割は、自分がいい男(いい女)になることで解決をします。いつまでもウジウジしているのは、男女共にダメです。いい男(いい女)を獲りに行くマインドが大事だと思います。

なんとなく生きていて、「別段生きていたくなんかないのに、しかたなく生きているだけ」だと思っている人は、本当は生きていたい自分に、自覚がないのだろうと思います。ものすごく生に執着のある自分を、認識していないのだろうと思います。なぜなら、実際に「生きない」「人生がなくなる」ということについて考えてみていないからだと思います。死について、リアルに考えたことがない。死がぼんやりしてしまっている人にとって、生もまたぼんやりするのは当然のことだと思います。

「生きたくないのに、仕方なく生きている」と思っている人を間違っているとか悪いとかおかしいとは思いませんが、個人的には「別におふくろのことなんかなんとも思わない」「いても邪魔なだけ」と考えていて、いざ亡くなってみて初めてショックを受けてべそをかいている人に似ていると思います。そういう人には敏感な人にはない強さがあったりしますが、わたしはたとえば「いざ母を失えば悲しきことだろう」というように、自分の感覚を探ろうとして、そこに自覚を持とうとする人と一緒にいるのが好きです。

「生かされているから、仕方なく生きている」と思うことを、意図的に選んでやっている人はすげえと思います。たしかにね!と思います。わたしは、「今回の生を、とにかく死なずに生き抜ければいいんじゃねえの」と考えるのも好きです。「なにかを成さねばならない。財を得なくては、結婚しなくては、子どもを残さなければ、学歴を職歴を立派にしなければ、なにかを身に付けなければ、生きる資格なんかない」などと、どれだけ人生にプラスを得ようかと考えるのよりも、「生き延びられれば成功」「あとはおまけ」「ただの娯楽」と考えるほうが好きです。エナジーエコだし無駄がないし優しいし広いし賢いと思います。

けれども、”「なにかを成さねばならない。財を得なくては、結婚しなくては、子どもを残さなければ、学歴を職歴を立派にしなければ、なにかを身に付けなければ、生きる資格なんかない」のに、それができないから生きたくない、ただ死ぬわけにもいかないから仕方なく生きている”、というのは悲しい。たまには頭を使って、錆びた思考に油をさしてみやがれと思います。「じゃあてめえいざ目の前に押したら死ぬボタンが現れたら躊躇なしに押しやがるのかァ!!」と思います。いや、いくらなんでも急すぎるので、押す前にこれをしてあれをして、、と思うくらいなら、その”この世界への執着”を刮目して見てみないのはなぜなのかと思います。ほら見たことか、少しは生きたままやりたいことがあるじゃないか!!と思います。

め、め、名文過ぎやしませんか旦那!!全然削れませんでした!!喝を入れられました!!喝を入れられることが好きです!!好きなカツは丼です!!

俺、人生はパッケージツアーじゃねえんだよって思います。学校を出て企業に就職をして結婚をして子供を育てて家を買って老後を迎えて死ぬとか、そんな都合よく人生はいかねえんだよ、と。むしろ、私は都合悪さこそが人生であると言いたい。想定外の出来事が起こった時に「面白くなってきたぜ」と言えるだけのふてぶてしさが人生を面白くするのだと思います。自由には二種類あると思います。金で解決する自由と、金以外で解決する自由です。金は便利です。超便利です。金があれば全部誰かに用意をしてもらえます。しかし、金だけでは得られないものがあります。それが知恵です。知恵とは生きる力そのものです。食えるキノコの識別能力や、素手で魚を獲る能力、その辺にあるものでシェルターを作る力は生きる力に直結します。金には常に「失う恐怖」が付き纏いますが、知恵は永遠に奪われません。そして何より、知恵は楽しい。手掴みで魚を獲れた瞬間の歓喜は原始的で、最高です。

私は思います。世の中が便利になるほど人類は退屈をするのだと。別に自分が本気を出さなくても生きていける。その便利さが、本当は自分の本気を知りたい私たちを耐えざる欲求不満の地獄に陥らせているのだと。死にたがる奴がいたら無人島に流刑をすればいいのだと思います。そうすれば、彼らは必死で生き始めると思います。漂着したロープを使って首吊り縄を作るのではなく、その縄を使って絶対魚を仕留めに向かうと思います。生きる方向に舵を取るのが生命だと思います。私は、なぜかそこに対する信頼があります。命は生きたがっている。命は燃えたがっている。大事なことは生温い優しさではなく、自分を正しい場所に置くことなのだと。こんな場所に置かれたら自分の本領を発揮しないではいられないと燃え立つほどに、自分が本気を出せる舞台を誰もが求めていると言うことを、本能が察知をしています。

生きるのがつらいと言う人がいたら、私は「つらいんじゃなくて、それはつまらないだけだろ」と言いたい。生きていれば確かに辛く苦しく悲しい出来事にも遭遇します。二度と立ち直れないと思えるほどのダメージを受けることも、一度や二度ではありません。しかし、私たちが生きることができるのは残酷なまでに『今』だけであり、いつまでも過去の出来事を味のないガムのように噛み続けていても、誰も幸せになりません。人類に贈れる最大のエールは、自分の命を思い切り生きることであります。悲しむ暇があったら、広い世界を見ることだ、俺。はい。そうです。これらは全部自分自身に言い聞かせていることであります。底の底では退屈をしている錆びた自分に油をさして「じゃあてめえいざ目の前に押したら死ぬボタンが現れたら躊躇なしに押しやがるのかァ!!」と能動的にセルフ恐喝をしたいと思います。男の旅は、武者修行。どれだけ悲壮感を漂わせてみたところで、拭い切れない珍道中感あふるる我々の死前書簡、今日も生きる力になっております!!ありがとうございます!!今日も明日も明後日も、我々、死ぬ気で生きましょう!!死ぬから!!最後には死ぬからぁ!!うおおおおぉぉん!!(啼泣)

バッチ来い人類!うおおおおお〜!