「鳩」

大阪の天王寺にあるマンションに暮らす女性から「私は普通ではない暮らしをしているのですが、坂爪さんならきっと面白がってくださると思うから遊びに来ませんか」と連絡をもらった。何でも興味本位でひょいひょい足を運ぶ私は、その女性とはまだお会いしたことがなかったが家に行きますと返事をした。普通ではないとはどういうことだろう。軽く胸を弾ませながら指定された場所に行ったが、その後、身の毛がよだつ現実を目の当たりにした。

十階建てのマンションの最上階に彼女は独り暮らしをしていた。単身者向けの、風呂トイレ別のよくあるワンルームマンションだ。しかし、そこには確かに「普通ではない」風景が展開していた。玄関を開けると、ペットショップでよく嗅ぐような匂いが充満している。彼女が「狭い玄関ですみません」と謙遜をするが、狭いとか狭くないとかよりも、家全体に充満している匂いが気になって仕方がなかった。獣の匂いがする。本来、人間が暮らしている空間には絶対に発生しない匂いに満ち満ちている。これが彼女の言う普通ではないなのだろうか。だとしたら、彼女の部屋には一体何が待ち受けているというのだろうか。恐怖にも似た不穏な気配を感じながら、彼女の部屋に入った。そして、私は自分の目を疑った。受け入れられない現実を目撃した。

彼女の部屋は窓が全開にされており、そこを野生の鳩が大量に飛び交っていた。室内も、まるで満員電車のようにカーテンレールの上に鳩が所狭しとひしめき合っている。当然、家の中は鳩の糞で汚れている。壁紙はすべて剥がれ落ち、ベッドカバーの上にも座布団の上にも机の上にも机の上に置かれたデスクトップパソコンの周辺にも、至る所に鳩の糞が落ちている。彼女は、そういった環境で暮らしていた。確かに「普通ではない」と思った。だが、私にはそれを面白がる余裕が微塵もなかった。人間の狂気とはこういうものなのかと、恐ろしくなって硬直することしかできなかった。彼女は台所からお茶を持ってきて私に差し出す。コップを受け取り、私はコップを床の上に置いた。床のすぐ近くを鳩が飛び交う。六畳の部屋に鳩が三十匹以上は居るような、そういう密度の空間だった。床に置いたコップはすぐに倒されるだろうと思い、私は再びコップを手にとった。異次元空間に自分を馴染ませることができず、私は深い呼吸を意識した。大量の鳩を眺めながら、薄れ行く意識で「ここにいちゃダメだろ」と思った。本来、ここにいるべきではないものが大量にひしめきあっている姿を目撃すると、精神がゲシュタルト崩壊をする。公園で鳩を見ても何とも思わないが、ワンルームマンションに大量の鳩がひしめき合っている姿を見ると精神の均衡が崩れる衝撃を受ける。ここにいちゃダメだろ、ここにいちゃダメだろと意識が現実を拒否するのだ。

息を深く深く吸い深く深く吐くことでどうにか精神の均衡を保ちながら、彼女の話を聞いた。彼女自身、最初は普通の生活をしていた。数年前まで、彼女はデザイン会社に勤めていた。だが、過労によるストレスで精神が徐々に異常をきたすようになり、やがて朝が来ることに不安を覚えるようになり、家を出ることが日に日に億劫になり、人と会うことに恐怖を覚えるようになった。結果的に彼女は会社を辞めて、無職になった。無職になると無職特有の孤独や不安を感じるようになる。自分は誰にも必要とされていない。自分には何も力がない。自分には一切の繋がりがない。そうした不安を慢性的に感じるようになっていた時、マンションのベランダに一匹の鳩が来た。その鳩は翼を怪我していた。上手に飛べなくなった鳩を見て、彼女は憐みを覚えた。なにか食べさせてあげられるものはないだろうかと家の中を物色し、適当なものを見繕っては鳩に餌をあげた。鳩はそれを食べた。生き物との交流は、孤独に苦しむ彼女の心を慰めた。これが、彼女と鳩との出会いだった。

一匹の鳩の世話をしていると、やがて仲間の鳩もやってくるようになる。ここに行けば餌をもらえるぞと鳩の方も理解するのだろうか。一匹、二匹と、やがてどんどん鳩が集まってくる。とてもじゃないけれどベランダには収まらない量の鳩がやってきた。彼女は「仕方ないから」と、窓を開けた。ちょっとだけならいいかと思って、やってくる鳩を部屋の中に招き入れたのだ。

それから数ヶ月の月日が流れ、いまでは彼女の部屋は鳩の住処になった。彼女の話を聞きながら「普通の人と、普通じゃない人の境界線はどこにあるのだろう」と思った。鳩が大量にひしめきあう空間にはじめて入った時は、ただただひたすら狂気だけを感じた。ここにいちゃダメだろと思い、ここにいちゃダメだろと思う自分の思いが精神の均衡を激しく乱した。だが、彼女の話を聞いていたら「これは誰にでも起こり得ることだ」と思った。自分だって、立つべき地面を失い誰からも必要とされないと感じる時期を長く過ごしたら、自分の空間にやってきた鳩に餌をあげてしまうかもしれない、そして自分の部屋に鳩を招き入れて自分の家を普通ではない状態にしてしまうかもしれないと思った。普通の人と普通ではない人との間にある境界線は、決してはっきりした何かがある訳ではない。誰だって、いつの間にか自分でも気がつかないうちにその境界線を超えてしまうことがある。彼女の頭は、決して異常でも何でもなかった。普通に会話をすることができたし、鳩が大量にいることを除けば非常に真面目な人柄だと感じた。彼女は話す。自分が一番辛かった時期に坂爪さんのブログに救われた、だからその感謝をいつか実際に伝えられたらと前々から思っていた、と。私は、それを聞いてものすごい複雑な気持ちになった。ブログを読んで力をもらったと伝えてくれることは本当に嬉しいことだと感じた。本当に嬉しいことだと感じながらも、大量の鳩がひしめきあう空間にいつまでも馴染むことができない自分がいた。いつまでも、いつまでたっても気持ち悪いとか怖いとか狂ってると感じる自分の思いを鎮めることができなかった。平和の象徴であるはずの鳩を見る度、今でも彼女を思い出す。そして、あの時に感じた相反する感情を思い出す。ここにいちゃダメだろ、ここにいちゃダメだろと感じたあの風景を思い出す。

バッチ来い人類!うおおおおお〜!