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憲法から考える政治と宗教③

昨日の記事では、教団の解散で問題を解決したことにしてはいけないと書いた。

今回は、日本の政治と宗教のあるべき関係について考えてみたい。

日本があるべき政教分離とは

日本は政教分離と聞くが、神道政治連盟・日本会議と自民党とのつながりのほか、毎年靖国神社には政治家が参拝している。これは正しい政教分離の在り方なのだろうか。

なぜ憲法に[信教の自由]が謳われているのか。それは国教である神道が国民をして戦争に向かわせるために使われたからだろう。天皇は神だ親だと教えられ、本人は「(英霊となって)靖国で会おう」と(遺族が非国民のそしりを受けないよう)自ら特攻に志願し、親は我が子の死亡通知を見て「息子が英霊になってくれて嬉しい」と泣いた。腹を痛めて産んだわが子の死を、嬉し涙だと言って泣くのはどんな気持ちであったろうか。
二度とそのようなことがないように、[信教の自由]が盛り込まれたなら、この目的は、達成されているか。

宗教的活動の禁止

現在、旧統一教会の会合であいさつをすることが教会の宣伝になり権威付けになると非難を浴びているわけだが、それならば靖国神社の参拝も、宣伝になり権威付けになるのではないか。
旧統一教会は社会的に問題のある組織であるが靖国神社はそうではないという点で論点にならないようにしているのだろうが、憲法に照らせば宗教という時点でどちらも同じである。また、神社本庁および日本遺族会による「英霊にこたえる会」の「首相や閣僚による公式参拝」を要請する運動に応える形で参拝が行われるのは、国からの特権ともいえるだろう。

加えて、2つの高等裁判所判決で憲法の定める政教分離原則に反する公式参拝と認定され、これらが判例として確定、明確に違憲とされているにもかかわらず首相や閣僚による公式参拝が行われる現状は、三権分立が機能していないことも表している。

支持団体の周知

もう一つ、旧統一教会が自民党議員の選挙活動に信者を動員していたことが問題になった。しかし、公明党も創価学会を支持母体としているのだから、選挙応援が皆無とは考えづらい。創価学会に便宜を図る政党ではないから問題ないということが憲法的に確かなら、自民党も旧統一教会や神道を支持母体としているなどと堂々と謳えることになる。
別に複数あっても構わない。支持団体を明確にしていれば、旧統一教会の支持を受けている自民党(もしくは立候補者個人)という一つの判断材料にできた。

今回の問題は、統一教会が選挙応援をしていたということそのものよりも、それを国民が知らされていなかったということではないか。投票する側が判断の材料とすべき重要な情報を隠された状態で投票させられたということだ。これを公平な選挙とは言わない。
民主主義の崩壊と言える事態だ。

もう一度考えてみてほしい

もう一度、憲法に照らして、政治と宗教の関係はどのようにあるべきか、考える必要があるのではないか。

靖国参拝はよいのか。それがよいなら他の宗教を参拝してもよいのか。それならば(問題さえなくなれば)旧統一教会もよいのか。
特定の宗教団体や思想を持つ団体が選挙応援をしてよいのか。よいのであればその力を持たない新興政党や小規模政党との平等性をどうやって守っていくのかという前向きな議論へと進んでいけばよい。

ここまで3回にわたって、政治と宗教について考えてきた。
次からは、信教の自由について、また別の角度から考えてみようと思う。

それでは、また。



世界や自分自身をどのような言葉で認識するかで生き方が変わるなら、敬意を込めた敬語をお互いに使えば働きやすい職場ぐらい簡単にできるんじゃないか。そんな夢を追いかけています。