憲法から考える政治と宗教②
昨日の記事では、特権を受け、政治上の権力を行使してはならないのは宗教だけに限っていいのだろうかということを書いた。
今回は、旧統一教会問題でにわかにクローズアップされた、宗教と政治の関係について考えてみたい。
実現できない約束よりも何が問題だったのか
首相は「社会的に問題のある団体との関係を断つ」というような曖昧なことしか言わない。そして、細田さんも同じ言葉を使っているということは、自民党内でその言葉を使うよう統一されているということだ。
今の文脈でそう言われれば、聞いている側は当然「旧統一教会と」問題を断つと言っているように聞こえるが、社会的に問題があると断言できなければいつでも関係を修復できるようにしておきたいという意図もあるだろう。
それは、もし旧統一教会の協力がなければ自民党は与党でいられないし、あくまでも与党であることにこだわるなら旧統一教会と関係を切るなどできないということが分かっているからだろう。
そもそも、自民党にとっては(志を同じくする統一教会にとっても)、不当な法難にすぎない。下の記事を見てもらえば分かるように、悪いことをしたとは思ってなどいない。
であれば、そんな約束の前にするべきことがあるのではないか。
解散すれば問題は終わるのか
まずは多くの被害者がいるこの教団を解散すれば問題が終わるのか。法人格を奪ったからといって、宗教活動はできるのに、それで問題を終わらせたことにしていいのかということだ。
旧統一教会が騒がれているのは、それタイムリーだからというだけではないのか。自民党は旧統一教会から何を得たのか。旧統一教会側は何を得たのか。それは、国民にどのような影響があったのか。
他の教団に問題はないのか。あるとしたらそれは何なのか。その問題は解散させれば解決するのか……。
旧統一教会の何が悪いのかを明らかにしないまま解散だけしても、カルトはなくならない。信者がみんなサンクチュアリ教会(ひろゆき氏のTwitter参照)に行けばいいのか。エホバの証人の支援なら政治家が受けてもいいのか。いや、いいのかもしれない。だったら旧統一教会だって別に支援していいんじゃないか。
憲法第二十条の2で「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」と約束されているが、大方の人は特に抵抗もなく「うちは浄土宗」「うちは日蓮宗」などと受け入れている。なぜ教団二世の場合は問題なのか。何がスピリチュアルアビューズに当たるのか。それは、教団によって区別できるものなのか、それとも一般的なキリスト教や仏教でも起こりうるものなのか。
問題はたくさんあるはずだ。そして、鈴木エイト、紀藤正樹、有田芳生ら、それに詳しい人たちがたくさんいる。問題を本当に解決するつもりがあるなら、いくらでもやりようがあるだろう。
(続く)
世界や自分自身をどのような言葉で認識するかで生き方が変わるなら、敬意を込めた敬語をお互いに使えば働きやすい職場ぐらい簡単にできるんじゃないか。そんな夢を追いかけています。