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敬語~間違いはあるが正解はない

私が副業として行っている敬語講座で、受講生から正しい言い回しを教えてほしいと言われたときに、「敬語に間違いはありますが正解はありません」と答えることがよくあります。

たとえば自分の雇い主に向かって食事を促して言うときに「どうぞ頂いてください」は間違いです。しかし、それならば「どうぞ召し上がってください」が正解かといえばそうとも限りません。それが本当に発話者にとって伝えたい言葉だったのか、状況から見て言うべき内容だったのか、いろいろな要素から鑑みて適切な言葉であろうものをその人なりに手探りで見つけるのが言葉というものだからです。

これを記述主義と規範主義という相反する二つの考え方から説明します。

記述主義

記述主義とは以下のような考え方を指します。

記述主義は、言語が実際に話者によってどのように使用されているかを分析する非判断的なアプローチです。規範主義とは正反対です。さらに、記述主義で言語を使用する正しい方法も間違った方法もありません。また、判断にパスせず、言語のユーザーに「正しく」発言または書いてもらうことを試みません。記述主義者は単に言語の使用を観察、記録、分析するだけです。

https://ja.strephonsays.com/prescriptivism-and-descriptivism-4304#menu-2

たとえば以下のようなテーマを知るには必要な考え方です。
・この10年で日本語がどのように変化したか
・20代以下と60代以上でどのように言葉遣いが異なるか
・地域による言葉遣いの差
etc.

これは、教育ではなく研究というスタンスですので、私は取りません。

なんと言おうか、なんと書こうかと考えるときに、ネットで検索してよく使われているらしい言い回しを真似して使うこともあろうかとは思います。それでも、それが”良い”方法ではないことは、恐らく検索している本人も分かっていることではないでしょうか。

規範主義

規範主義とは、以下のような考え方を指します。

規範を作るべき、規範を守るべき、あるいは規範から逸脱したものを正すべきとの主義。

https://www.tokyo-meisei.ac.jp/jped-course/kentei2020writing/

敬語について、私の考え方を上記と照らし合わせるなら、以下のようになります。

規範を作るべき

今の敬語には、「見られる」などの受身形、「お待ちになる」などの付加形、「いらっしゃる」などの特定形があります。
しかし、受身形はその名のとおり「受身」を表すので、「課長が見られる」と言ったときに課長が誰かに見られたのか、課長が見たのかが分からず使いづらいのです。

それであれば、ら抜き言葉と呼ばれる「見れる」を可能表現として認めたほうが、敬語の自由度は上がります。

そういう意味では、私は敬語にも新しい規範を作ってもいいのではないかと考えています。

今ある規範を守るべき

前項のような一部を除き、敬語には既にルールがあります。したがって、もっぱら今ある規範を守るべきと考えます。
なぜならば、敬語はオリジナリティを競うものではなく、相手に誤解なく伝わることが目的だからです。

規範から逸脱したものを正すべき

この点について、私はなぜ逸脱したのかが重要であると考えます。
なぜなら、規範に従うところに配慮はないからです。

商品を買ってくれた客に向かって「ありがとうございます。」とお礼を言うのはマニュアルに書かれていることかもしれませんが、中にはお礼よりも待たせたことへのお詫びが必要なこともあります。先に客からお礼を言われた場合には「どういたしまして」と伝えるほうがよい場合もあるでしょう。どんな場合であっても「ありがとうございます。」しか言わないならば、それは感謝の気持ちを表す言葉では既になくなっています。

私が「敬語に間違いはあるが正解はない」というその心は、規範から逸脱するためにこそ規範が必要だということです。

それでは、また。


世界や自分自身をどのような言葉で認識するかで生き方が変わるなら、敬意を込めた敬語をお互いに使えば働きやすい職場ぐらい簡単にできるんじゃないか。そんな夢を追いかけています。