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【小説】九九九羽鶴

 ある日、珍しく定時で上がった私は、どうしてか小学生の頃の通学路を通って帰宅していた。表通りはまだ明るかったが、一本裏に入った途端に、明るさも温度も数段下がったように感じられる閑静な道だった。
 夕闇が迫る路地でその洋館は、ひっそりと浮かび上がっていた。
 鮮やかな躑躅を傍に従えた白いコリント式の柱には、所々黒い汚れや小さな罅があったり、蔦が巻き付いたりしていたが、決して心ぶれた様子はせず、趣があった。その数歩先にある艶消しの茶色い重厚な扉に嵌め込まれたステンドグラスは、塵一つなく磨き上げられていた。
 私はその門の佇まいに心惹かれた。まるで淑やかな淑女のように物静かな美しさを放っていた。こんなに素晴らしい家の横を通って私は通学していたのだろうか、と門を眺めていて、私はあるものに目を留めた。
 柱に絡んだ蔦を避けるようにして、一枚の貼り紙があった。雨で少し波打ってはいるものの、年季が入っていないことがありありと伺える白いコピー用紙は、アンティークな門の中でどこか居心地が悪そうに見えた。
「折り鶴を得意とする方、募集します。一週間のノルマを達成すれば、働き方は自由です」
 私は貼り紙の文言を読み上げた。私の声はすぐにしっとりとした夕風に攫われた。
 下に書かれた一週間の給料は、ささやかではあるものの悪くはなかった。今している事務仕事で生計は成り立っているが、ちょっとした小遣い稼ぎには良さそうだった。
 私はこの家の内装を見てみたかったこともあり、コリント式の柱の間を通って玄関ポーチに足を踏み入れた。足元のタイルが、僅かに差し込む夕日を反射した。取手の側には『ご自由にお入りください』と書かれたプレートがあった。扉の横に、程よく錆びた金属製の表札のようなものがかかっていた。
『千羽鶴』
 それが苗字なのか、それとも施設か何かの名前なのか判断がつかないまま、私はよく磨かれた取手を握って扉を開けた。
 
 パンプスのヒールが心地よく絨毯を踏んだ。靴を脱ぐための玄関や、脱いだ靴を置く靴箱は見当たらないが、足元の絨毯が上等のものだという感覚が、私の足をそれ以上前には進ませなかった。私はそこで立ち止まってぐるりと室内を見回した。
 室内はそれほど広くないようだったが、三方にある大きな窓が開放的な印象で、実際の面積よりずっと広く見せていた。橙色の光が右側の窓から降り注いでいた。汚れのない漆喰の壁も、赤い絨毯も、上の階へ続く階段も、観葉植物や柱時計も、皆同じ橙を纏っていた。
 右側の窓の前に置かれた大きな机で、一人の女性が何か作業をしていた。入ってきた私に構うことなく、ただ黙々と手を動かしていた。手元は光の具合ではっきりとは見えなかったが、何か私のような者が邪魔してはならない、そんな雰囲気を感じた。もう少し待って、彼女の動きが途切れたら声をかけてみようと思った。
 洋館には静寂が満ちていた。
 
 一分ほどのち、彼女が顔を上げた。
「ごめんなさいね、あなたが入ってきたことには気がついていたんだけれど、途中で止めるわけにはいかないの」
 穏やかな、この洋館によく似合う優しい声だった。とはいえ小さいというわけではなく、静寂に吸い込まれてしまうことなくしっかりと私のもとに届く、透った声をしていた。
「いえ、あの、ここは施設か何か、なのでしょうか。表の貼り紙を見てお邪魔したのですが」
「ここは、千羽鶴を折る施設よ」
「千羽鶴」
 私はあの表札を思い浮かべた。
「ええ。さあ、そこに立っていないでこちらにいらして」
 私は土足で絨毯の上を歩くことを一瞬躊躇ったが、彼女は何も言わないのでそのまま彼女の方へ足を踏み出した。彼女は部屋の隅から椅子を持ってきて、彼女が座っていた椅子の横に並べた。腰掛けると籐の椅子は体重で程よく沈んだ。机には色とりどりの鶴が並べられ、皆一様に天を見上げていた。
「人は色々な機会に願いを何かに託すわよね。千羽鶴はその代表。でも、沢山の鶴を折るのは簡単なことじゃない。だから、私がその思いを受け取って代わりに鶴を折るの。もう随分沢山の鶴を折ってきたけれど、私も歳だから。少しでいいから手伝ってくれる方がいると、かなり助かるのだけど……」
 私はゆっくりと首で相槌を打った。彼女は私の目を見て続ける。
「ノルマは、一週間で百羽。それ以上求めることは絶対にしないけれど、必ず一週間で百羽折ってほしいの。どこで折るかも、一日に何羽折るかもあなたの自由よ。でも、その週の金曜日に私に百羽の鶴を渡すこと、それだけはお願い。その時にまた、次の週の分紙を渡すわ」
 お給金は見たかしら、と尋ねられたので私は頷いた。仕事内容や何か質問はある? という質問には首を振った。
「それじゃあ、最後に採用試験といきましょうか」
 彼女の言葉に私は本能的に少し身を固くしたが、彼女は穏やかに微笑んで安心させた。それからカーテンを閉め、スタンドライトを持ってきた。もう夕日は弱くなり、薄暗くなっていた。代わりにライトが私の手元に鮮やかな夕焼けを作り出した。
 さてと、と彼女は姿勢を正した。
「この紙で鶴を折ってくれるかしら。千羽鶴用の鶴を、一羽、お願い」
 すっと一枚の千代紙が差し出された。よく見る折り紙の4分の1ほどの大きさだ。表にあった躑躅と同じ、鮮やかなピンクだった。
 私は昔折った鶴を思い出しながら、最大限丁寧に鶴を折った。何か立派な込める願いは思い浮かばなかったので、またこの洋館に来られますようにと、そんな願いを込めた。
 最後に頭と尾をピンと立て、彼女に渡した。彼女はそれを掬い上げるように両手で受け取ると、隅々までじっくり眺めた。まるで自分自身を見つめられているようで、息が詰まった。
 彼女が顔を上げる。
「良いでしょう」
「……そう、しますと」
「ええ、あなたを採用します」
 彼女は厳かにそう告げた。私は自然に肩の力を抜いた。
「折り方がとても丁寧です。理想は白い裏地が見えないこと。その点裏が目立ちませんし、角もきちんと尖っています。千羽鶴にこうした丁寧な折り方は最低条件です。それに加え、この鶴にはきちんと思いが込められている。それがわかります。ただ美しい鶴を折るだけなら、何かそういう機械を作ればいいでしょう。でも機械が思いを込めることはできない。あなたは良い折り師です」
 折り師、という言葉は、何かきらきらした輝きを伴って私の心に染み込んだ。彼女の手の中で、私が折った鶴は上を見上げていた。
 
 その後、住所や連絡先などを伝えた。彼女はこの洋館の二階に住んでいると言った。
「見たところどこかの会社勤めのようだけど、副業は禁止されていないのかしら」
「いいえ」
 副業をしようと思ったことがないので、そういう規定があったとしても気に留めていなかった。それに、ここは何か会社の形を取っているわけではなさそうだし、私のような下っ端事務員が細々と鶴を折っていることにとやかく言う人はいそうになかった。
「そう、ならいいわ。じゃあ、早速お願いしていいかしら。これで百枚よ」
「はい」
 懐かしい千代紙の束。この紙で何を作ろうか、と昔はワクワクしたものだ。こんな薄い紙から鶴が生まれ、そして願いを託される。
「もう暗いわ、気をつけて帰ってね」
「ええ、ここから遠くはありませんので」
 外に出る。もうすっかり暗くなった路地に白い柱が浮かび上がり、躑躅色が艶やかに夜風に震える。アスファルトを叩くヒールの音が、私に寄り添って付いてきた。

 
「こんにちは」
「いらっしゃい。段々に日が伸びてきたわね。自然光で作業できる時間が増えて嬉しいわ」
 これまでは家に帰ってもすることがないからと、急ぐこともない仕事をしていて定時に上がることは稀だった。けれど、彼女の手伝いをするようになってからは、定時に上がって鶴を折るようになった。彼氏ができたのではないか、などと上司のお姉様方に囁かれているのは知っているが、それに気づかないふりをしてこの洋館を訪れる。
 どこで折ってもいい、とは言われたが、私はこの洋館以外に相応しい場所を思いつかなかった。最初こそ自分の部屋で折ってみたが、雑念ばかり浮かんで、純粋に思いを込められそうになかった。彼女にそう言うと、それならここで作業してくれて全く構わない、ということだった。
 私は机の下でパンプスを脱いで、柔らかな絨毯をストッキング越しに感じながら鶴を折った。
「この千羽鶴はどちらに?」
「右眼林檎寄生病の女の子の平癒祈願」
「右眼林檎寄生病、ですか」
「ええ」
 彼女はどこへ送るのか教えてはくれるものの、それ以上のことは何も言わない。尋ねればさらに教えてくれるのかもしれないが、私もそれ以上尋ねることはしなかった。

 彼女の手伝いを始めて知ったことだが、世の中には千羽鶴を求める場面が随分と沢山あるようだ。
 坊主演奏のコンクール必勝祈願、亡くなった蠑螈いもりの慰安、〇次元研究学校合格祈願、蜉蝣の長寿祈願、脾臓の平和祈願、家を出る姉への幸福祈願、右眼林檎寄生病の平癒祈願。
 私は鶴を折りながら、それらについて思いを巡らした。
 坊主演奏のコンクールというのは、演奏者が皆坊主なのだろうか。それとも、坊主のあのじょりじょりという僅かな音で音楽を奏でるのだろうか。坊主の演奏コンクールではなく、坊主演奏と言うのだからそちらの方が相応しい気がする。坊主が奏でるその控えめな音に耳を澄ましたい、と思った。
 蠑螈の慰安は大変だった。蠑螈の大きさに合わせて、折り鶴も指先にどうにか乗る程度の大きさにしてくれという依頼だった。肩が凝り、目は乾き。その小ささでも、当然普通の大きさの鶴と同じ丁寧さが求められた。あの小さな千羽鶴は、蠑螈と共に灰となってしまったのかもしれない。
 〇次元とは点だと聞いたことがある。点は線と同じく一次元で、〇次元は何も無いところだと思っていたので驚いた。誤解は解けているものの、〇次元の研究について聞いて、昔漫画で読んだワンシーンを思い出した。「〇次元へ入るとどうなるの?」「消えるんだよ、なにもかもきれいさっぱりなくなるんだよ。」〇次元へと吸い込まれながらそう答えたお爺さんの笑顔が、忘れられない。
 蜉蝣の寿命は一日。口も腸も持たない彼らは食事ができない。蜉蝣の長寿というのは、何か象徴的なものなのだろうか。
 脾臓の摘出は昔一般的な手術であったらしい。今は脾臓の果たす重要な役割が知られている。平和を願われている脾臓は、今もきちんと依頼主の身体にあるのか、それとも摘出されてしまったものなのか。
 姉への贈り物として千羽鶴とは、なんと素敵な姉妹だろう、と兄弟のいない私は依頼について聞いて思った。しかしとある指示が付いていた。全ての鶴を、普通の鶴で作ること。つまり、俯いている様が連想されて縁起が悪いからと嘴を曲げない千羽鶴用の鶴ではなく、嘴を曲げた鶴で千羽鶴を折ってほしい、と。兄弟にも様々な形があるのだろう、そしてそれは必ずしも美しいものだけではないのだろうと、そう思った。
 そして、右眼林檎寄生病。その名の通り右目から林檎が生えてくるのだろうか。進行するとどうなってしまうのだろう。身体の中を林檎の根が這い回り、やがて内臓を締め付け、破裂させ、突き破る様を想像した。
 
 私はいずれの鶴にも一つ一つ思いを込めて折ったが、彼女には到底及ばなかった。彼女の手には皺が刻まれ、数え切れないほどの千代紙を撫でてきた指先の指紋はほとんど潰れかけて大きなタコのようになっていたが、動きは矍鑠としていた。手つきは熟練していて無駄がなく滑らかだった。しかしそれは機械的な作業ではなく、全てに慈しみと愛情が溢れた手つきだった。長いすらりとした指、美しい手に愛撫される鶴が羨ましくさえあった。こんな人に折ってもらえているのだから、願いは必ず叶うと信じられた。
 できた鶴に裏地は全く見えず、首はピンと立ってどこよりも遠くの天を見上げている。狂いなく対称の鶴はもはやどちらが首でどちらが尾なのか判断がつかず、まるで二つの頭が見上げているように思えた。
 私たちは俯いて、真っ直ぐに天を見上げる鶴を折った。
 
 私に課せられたノルマは週百羽で、彼女が言った通り増えることは決してなく、かといって減ることもなく毎週きっかり百羽だった。それは、納期と呼んでいいのか躊躇われるが、納期に余裕があろうと一週間しか納期がなかろうと変わることはなかった。
 千羽鶴は必ずしも千羽折らなくてはならないというわけではないが、彼女はしっかり千羽折ることをこの仕事をする上での信条としていた。
 彼女は依頼を同時に二つ受けることはしていなかったので、納期に余裕がある依頼であれば私が数週に渡って百羽ずつ折っていたが、納期が短い時などは彼女が一人で残りの九百羽を折っていたことになる。けれど彼女の手つきは、機敏ではあるもののいつも同じように丁寧で嫋やかだった。寝ずに折っているのだろうか、と思ったが、彼女はいつも潑剌として寝不足の気怠さは微塵も見られなかった。
 毎日きちんとお洒落な服に身を包み、真っ白に輝く髪を編んで纏め、うっすらと白粉をはたいて紅を差していた。歳を取るならこうでありたいと思うような、マダムと呼ぶに相応しい身なりと振る舞いだった。今まで重ねてきた歳月を優雅に身に纏っていた。
 私は鶴に願いを込めることだけでも彼女に近づきたいと思った。一つ一つの作業に心を込め、精一杯の慈しみを持って鶴に向き合った。
 私は右の瞼を突き破ってたわわに実る林檎に思いを馳せながら鶴を撫でた。


 ある土曜日だった。私の仕事はカレンダー通りの休みなのだが、毎日洋館を訪れた。洋館に満ちた静寂が心地よかった。
 彼女はいつも土曜日に千羽鶴を完成させていた。バラバラだった鶴を繋ぎ合わせていくその芸術的な手つきに、私はうっとりと見蕩れた。千羽の鶴は彼女の手の中で全てを委ねていた。
 その日の千羽鶴はフレスコボールの大会の必勝祈願だった。フレスコボールというのは、ビーチでやる羽子板のようなものらしい。千羽鶴がこんなにも様々な世界を見せてくれるとは思わなかった。
 仕事終わりだと右の窓から射す光しか見られないが、休日は午前から洋館に来られるので、左、正面、右、と光が射す窓の移り変わりを眺められる。そしてそれに合わせて机と私たちも移動した。

 正面から射していた光がだんだんと右側に移動してきた頃、千羽の鶴が全て繋がった。それは見事だ。元は薄っぺらな紙だったものが、今や全てに思いが込められて天を見上げている。
 千羽鶴を他人に委託するということは、あまり思いの込められない鶴なのかもしれない。けれど彼女はそんなことを気にしたりはしない。一羽一羽、思いを込める。たとえ鶴が送られた先で蔑ろにされるとしても、疎まれるとしても、やがて捨てられてしまうとしても、彼女の慈愛は等しく注がれる。
「お疲れ様です」
「ええ、あなたもね」
「いえ、私は、」
「本当に助かっているのよ。他にも何人か雇ったけれど、あなたほど思いを込めて鶴を折る方は他にいなかったわ」
「私なんてまだまだです。でも、あなたのような折り師に認めていただけるなんて光栄です」
 そう言うと彼女は口を噤んで目を逸らし、出来上がったばかりの千羽鶴を陽に翳した。照れているのかもしれない。

 不意に、彼女の手が空を切った。
 一瞬の出来事だった。その時ほど彼女の手が乱暴に動くのを見たことはそれまでなかった。
 彼女は美しく連なった鶴の一つを毟り取った。しかしすぐに上の鶴が降りてきて、一羽の鶴の消失はわからなくなってしまった。毟り取られた鶴は背に穴が開き、翼が少し歪んでいた。私が驚いて見つめると、彼女は立ち上がって階段を登り、姿を消してしまった。
 次第に、もう彼女は今日の仕事を終えてしまったのではないかと不安になった。帰るべきかと腰を浮かせかけた時、ようやく彼女が大きな箱を手に姿を現した。私の前に箱を置く。彼女が蓋を開けて、私は息を呑んだ。箱には大量の鶴が溢れていた。色も柄もばらばらだったが、皆同じように一度糸が通された跡があり、そして翼が歪んでいた。
「これは、一体」
 彼女は先程毟り取った鶴をその箱に投げ入れた。鶴は、かさ、と箱の中に落ちて、そして他の鶴と同じように虚空を見つめた。
「これで一九〇羽」
 そう言うと彼女は蓋を閉ざした。
「私が作る千羽鶴はどれも、九九九羽鶴なの。一羽は私のもの」
 右の窓から陽が射す。彼女の表情は逆光でよく見えない。
「いつか、千羽になったら、そうしたら私の願いも叶うかしら」
 彼女は皺だらけの細く長い指を、箱の上で在所なさげに絡ませ合った。若い頃はそれは美しかったであろう彼女の手には、一つの装飾もなかった。
 箱の中で鶴はかさかさと密やかな音を立てた。きっとあの箱に、翼の歪んだ彼女の夢が眠っている。


 次の日洋館に行くと、彼女は左の窓の前に置いた机で鶴に埋もれ、うつ伏せに死んでいた。
 心臓の動脈の破裂が原因で、苦しみはほとんどなかっただろうということだった。彼女の死に顔は穏やかだった。彼女の周りに散らばった鶴は、ただ少しの歪みも無く美しく天を見上げていた。まるで鶴が彼女を、何処よりも遠い場所へ連れて行ったかのようだった。
 彼女に身寄りはなく、葬式では私が唯一の参列者だった。義理で出席した町内会の役員が眠そうに椅子に座っていた。

 私は悩んだ末、一九〇羽の鶴が入った箱を彼女と共に火葬した。彼女と鶴は混ざり合い、一緒になって空へ昇っていった。
 私は立ち昇る陽炎に、彼女と彼女が作った数えきれないほどの鶴たちの幸せを願った。

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