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新しいページをめくっていく

『めげずに新しいページをめくっていく』ってことなんではないかと思う。

なにかと言うと生きることについてであるが、私としては気がついたら生きていたという認識なので、当然だが「私生きることを選びます」などとお立ち台に登って宣言したつもりもないし、そんな記憶もない。


はじめのうちは呑気に生きていたので特別不平不満もないが、中学生になって大阪から世田谷区(東京)に転校してから血がにじむようないじめに遭い、「なんなのだこれは!?」「これに対して私はどう対応したらいいのだ!?」と大きな壁にぶつかった。
「生きるってことは楽しいだけじゃないのだ」「では生きるってのは辛いことであるかと言えば、それがすべてでもないだろう」などと終わりのない自問自答の時期があった。

壁にぶつからなければわざわざ考えもしなかったことが多いので、そういう意味で「あなたにとっていじめは必要だったのでは」とか言う人がたまにいるが、そんな人には「ふざけるな!」と言いたい。生きるか死ぬかの瀬戸際に身を置きたい人なんていないだろう。
必要悪(ひつようあく=よくないことではあるが、社会や世の中にとって必要で、なくすわけにいかないものやこと)とかいう言葉で片付けられるのは、今でも全く納得がいかない。

生きることというのが、「この世界で、いかに安定して災いに巻き込まれず生きていくか」って考えるのは当然かとも思う。だってヒドい目に遭えば、「もう二度とあんなヒドい目に遭いたくない」って思うのが当たり前であろう。でもそれを一番に優先してしまうと、多分生きることは「いかにリスクをおわないか」ってことになってしまいやすいかと思う。
「ある程度の不平不満があっても、今の職場を変えるのはリスクがある」とか、「今の安定した状態を維持するためには、我慢できないことも我慢しなければならない」とか、そのために自分の意思を押さえ込むようなことをしてしまいやすい。
そんなして、ずっと自分の意思を押さえ込んでいたりしたら、「自分ってものがなにがスキで、なにがキライなのか?」みたいなことは、全然わからないままである。
そんなことをずっと続けていたら、終いには「じゃあ、なんのために生きてんの?」って疑問が出てきてしまう。

生きるほどヒドい目にも遭うこともあるだろうし、それで次の一歩が出せなくなってしまうこともあるだろう。長く生きればそれだけ次の一歩の足は重たくなってしまうこともだろう。
それでも生きることを自分の意思で辞めることは出来ないように思う。「私生きることを選びます」と宣言していないのと同じように、「私生きることを辞めます」と宣言してみても、シャッターが閉まるかのように生きることが終了してくれたりはしない。
なにもかも無視して強引に終了させることも出来なくもないだろうけど、私はそれを行うことに引っ掛かりがある。

例えば、厳しいクイズ問題を出されることにあったとしても、クイズ問題を出してるステージをぶっ壊して解決とはならないような感じだろうか。ヒドいことが起きてるとして、その外側にはヒドいことをわざわざ発生させてるものが、しっかりと存在しているような気がするのである。
強引にぶっ壊すことは出来ても、それをやるのはなんだか「ルール違反」のような気がするのである。


だから、『めげずに新しいページをめくっていく』ように歩いていきたいっていうことであって、そうあらねばならないってことではなくて、それが私は出来ているってことでもない。
怯えたように身を縮こませて生きるっていうのは、なんだか違うような気がするだけだ。

(まるでピクサー映画のソウルフル・ワールドみたいであるが)
私は元々、ものすごく何も起こらない安定したところに居たような気がしてて、「こんな安定だけしてたらなんの変化もないし、なんにも気がつかないではないか、ずっとこんなんでいいのか!?」とかの思いがあって、それでこのフィールド(場所)にわざわざ参戦して来たような気がするのである。
いつのまにか気がついたらこのフィールドに居なくなっていたとして、それで私は「なんであのフィールドにいる時に、もっとおじけ(怖気)づかずに色々挑戦しなかったんだろう」とか思いそうな気がするのである。


日常生活でこんなことを言ってしまうと「そんなの現実的じゃない」とか「それは現実逃避をしているだけだ」とか言われることが多いので、軽々しく口に出したりしないように気を付けている。

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