『永遠の人(1961年)』を観ました。

「相手の気持ちを考えて」とかいう言葉を、相手の気持ちを考えられない人に向かって言ってみても、わからないのである。
そういう思いが元々なかったのかもしれないし、たまたま育たなかったのかはわからないが、結局んところないのだから、言ってることの意味がわからないのである。

このお話は大地主の息子(仲代達也)が足を怪我して、戦地から戻ってくるのであるが、名誉の戦死ができずに使い物にならないから返品されてきたようなもので、自分でも世間でも声には出さないだけで「情けない男だ」とか思われているのであろう。
使用人でもある小作人の娘(高峰秀子)は美しい女性になったが、この娘には
好きな男がいて、その男が戦地から帰ってくるのも待ち焦がれている。
「身分が上の俺がこんな思いでいるのに、使用人のあの娘が幸せになってたまるか」ということで、大地主の息子は娘の家で娘を”手ごめ”にするのであった。

なにしろ”手ごめ”と言葉があるのである。
言葉があるってことは、こういう行為が多く行われていて、あんまり多いもんだから、それを指す言葉ができたということであろう。

”手ごめ”=手荒い仕打ちをすること。力ずくで自由を奪い、危害を加えたり物を略奪したりすること。暴力で女性を犯すこと。

”いじめ”という言葉も、同じような流れでできた言葉のような感じがする。
内容は”暴行”や”傷害”という犯罪であるのに、それ用の言葉を作ることで、なんだかその行為が重いものには感じられなくなる。


大地主の息子には母親が不在である。横暴な振る舞いの父親の姿からは「女は子供を産んで、あとは男の言う通りにしていればいいんだ」というのが感じられる。この家での母親は、潰されて早くに亡くなったか、反抗して逃げ出したのではなかろうか。
そんな家で育った息子は、相手の気持ちを考えられないであろう。ましてや相手が女であれば、気持ちを考える必要がないと思うかもしれない。

今作は因縁の物語である。だから暗い作品かといったら、そういう印象もない。
言われるまま従う妻ではなくて、夫と夫の父親に反抗し続ける姿は「売られた喧嘩は買ってやろうじゃねえか」的な強い生命力を感じる。ずっと憎み続けるっていうのは、凄まじい気力や体力がないとできないことである。

『喜びも悲しみも幾年月』は明るい家族の物語であったが、『永遠の人』は憎しみの家族の物語である。これは表と裏のように見えるが、どちらも強烈な生きる生命力を感じる物語である。

木下惠介監督作品の走るシーン好きだ。
『喜びも悲しみも幾年月』では島に着いた夫が、家族に向かってあぜ道を走る。『永遠の人』ではいなくなった子供を探して、母親があぜ道を走る。
登場人物が走ると、カメラもいっしょに走りだす。走る姿からは人間の強烈な生命力が感じられる。

人間には人を愛おしいを思う気持ちもあるし、人を憎らしいと思う気持ちもある。どちらかが正しいわけではなく、どちらかが間違ってるわけではない。
人生は思い通りにならないこともある。それでも私たちは生きていくのだ。

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