『プロミシング・ヤング・ウーマン(2021)』を観ました。
『プロミシング・ヤング・ウーマン』予告編:https://dai.ly/x81086d
やられたらやり返したらいい、だって現実ではなくて作りもの(映画)の中のお話なんだから。
とはいえ、なんでもやり返したらいいってもんでもなくて、そこには観る側のバランスみたいのがあって、「こちら側がこんだけやられたんだから、あちら側にはこのくらいしてもいいだろう」というバランスが壊れない形で成り立っていてはじめて「やっちまいな!」って気分になる。
「悪口言われたから、手足を骨折させてやりました」「好きになったのに私のこと好きになってくれなかったので、相手の家庭を崩壊させてやりました」こういうのはやりすぎだし、むしろ相手に同情してしまう。そんなものををずっと見せられたものなら、観るのをやめて立ち去るであろう。
作り手としてはそういうのは困る。最後まで観てもらいたい。だって観てもらえないと、なにも伝わらないではないか。
男に復讐といっても、主人公のキャシー(キャリー・マリガン)はそこまで相手を傷つけるようなことはしてない(そういうシーンは見せていない)、酔っ払ってると思って自分の家に連れ込んだ男が、ベッドに寝かせていざ行為におよぼうとしたら「おいテメエ、何やってんだって聞いてんだよ!」と真顔で言われる。実は全然酔ってませんでしたという、テレビのドッキリ企画程度である。
男だけではない、共犯とも言える女にも仕掛ける。大学時代の女友達をグテングテンに酔わせて、男に襲わせるように仕向ける。しかし、ここでも実際に男が女友達をどうしたかは見せてはいない。
本当はなにがあったのかは見せてはいないし、本当はこうでしたという答えもない。だから「実際にはヒドい復讐していました」でもあり「実際にはそこまでヒドい復讐はしていませんでした」でもある。そこは、結局どちらかわからないのである。
ここには見る側のバランスに配慮してるような感じがする。復讐を少しでもやりすぎることで男性側が「やれやれこういう女には困ったものだ、すぐ大袈裟に非難して、それでいて被害者ぶる」とか言い出して、あたかもそれが多くの意見のように扱われてしまう。はじめから女性側には圧倒的に不利なバランスが、今の世の中にあるような気がする。
そんな復讐ゴッコをしている女性を見てどう思うだろうか?
男性なら「そんなことずっと引きずってると、いつまで経っても幸せになれないよ」とか、女性なら「みんながみんなそういう男性ばかりではないわよ。やさしい男性もいるわよ。なんなら紹介しましょうか」とか思う人がいるではないだろうか。
そこで次に、キャシーとやさしい男性との恋愛がはじまるのである。
『私は私らしく、私の生きたいように生きる』という考えではなく、ずっと『世の中の持っている性的イメージの中』に存在させられている主人公。
観る側はこの主人公であるキャシーを追い続けるが、これではまるで観る側を飽きさせることなく、呆れさせることなく連れて行くガイドさんのように感じる。私たち観客の大好きな餌を吊り下げて、ガイドさんが私たちをどこに連れて行くのかというと、ある男の独身最後のバカ騒ぎパーティーである。
根底にはゴリゴリの決して壊れない(妥協しない)内容があって、それを笑いやホラー・スリラーの形で観せて行く。何故なら、こういう話をそのまま見せられたら、きっとツラすぎて最後まで見れないだろうから。
この見せ方こそ、女性のメイクとかドレス姿のような感じがする。女性の鎧であり武装という意味である。それで行き着く先ってのも、やはり今の世の中というものを感じさせる。
私は性欲ってものはドラブルの元だから、はじめからなかったらいいと思う。でもきっと必要なものだからあるんではなかろうか。
例えたら、はじめは持たされてないけど、いくらか大きくなったら持たされるナイフみたいなもので、危険な道具である。使い方を誤るとケガをするし、誰かを刺しコロすこともありえる。食べ物を切り分けたり、料理には欠かせなかったりするので、使い方次第であるが。