『サニー 永遠の仲間たち(2011年)』を観ました。

今ではすっかり忘れてしまったとか思ってた。いや忘れてしまったフリをしていただけで、忘れることなんてできっこなかった。
そんな想いが、ある偶然の出会いで目の前に出てきてしまった。もう忘れてるフリなんてできないし、逃げも隠れもできない。それにこのまま死ぬまで自分を誤魔化して生きるのも、真っ平御免だ。

そういう潔さが今作の魅力であろう。そして、今作は胸熱のシーンが多く、泣きすぎて困ってしまう作品だ。

今の自分というものは、相手の顔色を見て自分を変えているような気がする。
「こういう部分は受けがいいので出していい」「こういう部分は奇妙に思われるので出してはいけない」そういうのを器用に調整して、周りの人との摩擦をできるだけ少なくして生きている。

もう今は「本当の自分」かどうかなんてもうどうでもよくなってしまったが、器用に振る舞う以前の私は、調整することもできないむき出しの「本当の自分」であったと思う。それはいつ頃だろうか、どれくらいの年齢の頃だろうか。

もう子供ではない今の自分というのは、うまいこと生きているつもりでも、本当はなにか大事な部分を隠して生きているんではなかろうか。そうやって振る舞っている私を見て、かつてのむき出しの自分なら何と言うだろうか。
「そんなんで、ちゃんと生きてるって言えるのか」とか言われたら、返す言葉もない。

なんとか生きている間に「あの時の落とし前をつけたい」をつけたいと思っている事は、誰にでもあるんではないかと思う。
あの時どうしょうもなくあきらめてしまったが、今度こそ最後までやり遂げたい。もう二度とあんなあきらめ方はしたくない。
そんな意気込みでこの世界に生まれてきたような気もするし、”生きる”っていうこと事態が、そういうことなのかもしれない。

世の中はこういうもんだとか、そういうやり方は通用しないとか、そういう雑音は相手にしないでいいのだ。物分かりよく大人しくかしこまってるなんてのが、アホらしく思えてくる。そんな無敵な気持ちになれる作品だ。

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