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僕らの生活に、入り込んでくるリズムって? 『リズムから考えるJ-POP史』読書会(第1回【闇の自己啓発会】ラプソディー編)

緊急事態宣言が出される前の三月某日、都内の会議室にて、imdkm『リズムから考えるJ-POP史』の読書会を行いました。いまnoteで最も話題を集めているといっても過言ではない【闇の自己啓発会】に触発され、この機会に自分達も読書会をとりあえずは一度やってみようということで、昨年秋に呼び掛けがあった「のれん分け」キャンペーンに乗っかる形で始まった企画です。

本家【闇の自己啓発会】に参加されている江永泉さんを今回はお招きし、池堂、荒岸と3名で実施しました。テーマは「音楽」、それも今回は「J-POP」。自分にとっては初めての試みで不安もありましたが、時折江永さんにフォローしていただいたり、それぞれの個人的体験を引き出し合ったりしながら、楽しく話が出来ました。音楽への接し方は違いますが、参加者は3人とも90年代半ばまでの生まれ。これくらいの世代の人達が集まって「リズム」という視点から考えた時、「J-POP」の見え方はどのように変わるのか。ご笑覧いただけましたら幸いです。
※ちなみにタイトルの「ラプソディー編」に深い意味はありません。音楽、ということで何となくつけてみたので、また変えたりするかもです
※諸事情で第2回を先に公開していますが、読む順番は特に気にしていただかなくて大丈夫です

【荒岸】来穂:パスタの製麺機の購入を検討している。「不毛連盟」のテルミン担当。
【江永】泉:ヘドバンしすぎてカラオケでドン引かれたことがある。闇の自己啓発会。
【池堂】孝平:以前週2で通っていたラーメン屋が食中毒を出した。不毛連盟に参加。

《まずは雑談から入ります》

【池堂】本日はお集まりいただいてありがとうございます。春の訪れを感じる、いい天気になってよかったです。最近のトピックスでいうと、『雑草で酔う』の著者が逮捕されましたね。
【荒岸】あれびっくりしました。雑草だから法に触れないという触れ込みだったような。
【江永】一応、現時点(2020年3月)ではグレーゾーンっぽいお茶を売ってたから逮捕されたっぽい。担当編集者が見解を出してましたね。
一応、2020年3月時点では麻薬とは定義されていないはずの植物(の「お茶」)の販売だから違法ではないというような話で、本のタイトルからしてそうですが、いうなれば脱法雑草みたいな触れ込みだったはずです。
【池堂】脱法雑草ってすごい響きですね。そういう意味では、J-POPという今回のテーマはタイムリーな題材かもしれません。
【荒岸】タイムリーって何なんですか。
【江永】なろうで小説も書いてたんですよね。『異自然世界の非常食』ってタイトルで書籍化されてました。私は未読でしたが、異世界の大自然で引きこもり生活をはじめ(なぜか掲示板的なものにはアクセスできるらしい)、妖精と出会ってタンパク質があるから非常食にと捕獲したりするんだけど、いろいろあって共生関係になって、サバイバルしていく話らしい。感想探すと、生物的にも思想的にも薬物的にもグロテスクとか、妖精たちが般若心経ゴスペルを大合唱するとか、クトゥルー神話感があるとか出てきます。
【荒岸】倫理観のない『ダンジョン飯』。
【江永】例えばポストアポカリプスものとかもそうですが、異世界転生って国家が機能していないどころか存在しない無法地帯を容易に描けるし、そういう無法地帯が舞台なら何してもその物語世界内での「違法」行為にはならないですからね、定義上。まあ自然権や自然法を考えるとそう単純でもないですが。
【池堂】異世界に転生して大麻栽培して大儲け、みたいな話も、実際書けてしまうわけですね。

《メンバーの音楽遍歴について》

【池堂】今回の課題本、imdkmさんの『リズムから考えるJ-POP史』を読んでから、改めていろいろ聴いていたんですが、とりあえず宇多田ヒカルってやっぱりすごいですね。『初恋』はアルバム通して延々聴いてます。
【荒岸】ここに今いる人たちって全員90年代生まれじゃないですか。物心がついた時にはJ-POPが確立されていた。僕なんかは中田ヤスタカあたりから音楽を聴き始めた人間で、中学の頃に初めて買ったCDがperfumeの『⊿(トライアングル)』なんですけど。
【江永】それぞれがいつから音楽を聴き始めたのかという話を最初にした方がいいかもしれませんね。
【池堂】自分は親がカーステ等で流してた影響で、サザンとか普通に聴いてましたし、あとはコブクロとか、いきものがかりとかもそうですね。Mステは毎週観ていて、ランキングに入った楽曲は知ってる、みたいな感じでした。能動的に音楽を聴き始めたのは、eastern youthとかZAZEN BOYS等に出会った高校の時ですが、そういったバンドを見つけた場所はニコニコ動画でした。あと、自分は出身が宮崎なんですが、宮崎って民放が2局しかなくて。NHKを除くと基本チャンネルが二つしかないから、地元では今見ていない方のチャンネルを「裏番組」って言ったりするという。そんな感じだからバラエティの放送日も都会よりずれていて。一度大晦日に帰省した時、SMAPが解散した年だったんですけど、家に着いたらその日が宮崎では「SMAP×SMAP」最終回の放送日で、親がそれを見てました。
そんな環境でみんなどうするかというと、ケーブルテレビに加入するんですね。だからむしろ帰省した時の方が、逆に見れるチャンネルは多くなるというわけなんですが、高校の時はそれでスペースシャワーTVをよく見てました。深夜の「Digital Archive X」でりんご音楽祭の様子を見たりとか。自分の音楽の流れはニコ動からスペシャ、で今はYouTubeとApple Musicという感じです。

【荒岸】プラットフォームをどこに定めるかでそういうのがだいぶ変わってきますよね。僕の場合はラジオで、「SCHOOL OF LOCK」。Perfumeが夜11時くらいからそこで「Perfume LOCKS!」ってコーナーを持ってて、同じ番組の中で9mm Parabellum BulletとかBase Ball Bearのコーナーもあって。そこからロキノン系を聴き始めました。クラスのみんながいわゆるJ-POPを聴いてる中でその対抗軸として、言ってしまえば中二病的な感じで、俺はロキノン系を聴くんだ、という感じで聴いていたので。この本では例えば第五章とかにロキノン系はまとまって出てきますけど、今の視点だとセカオワとかRADWIMPSとかはもうお茶の間にも浸透してて、ロキノンみたいなものもJ-POPとして括れるところはあると思うんですが、2000年代後半くらいはいわゆる「Mステ的な」J-POPとは区別して聴かれていたと思っていて。
今回『リズムから考えるJ-POP史』ということですが、幅広くJ-POPの対象を取った結果、どこからどこまでがJ-POPなのか、本書はそのあたりの輪郭が分かりにくかったと正直感じたところはあります。これが「J-POP史」じゃなくて、「J-POP論」だったらまだ分かったんですが。
【江永】RADでいうと『おしゃかしゃま』2009とか、なんかやばい曲みたいな感じでしたね。メインストリームではなかったというか。映画『君の名は。』2016の挿入歌(『前前前世』)以降はすごいメジャーという感じになってましたが。

【荒岸】僕が聴き始めたのはまさにその頃なので。クラスの隅っこでラジオ聴いていたイメージですね。セカオワも「SCHOOL OF LOCK」で初めて紹介されたときに聴いていて(※「SCHOOL OF LOCK」はインディーズのころからセカオワを結構推していた)。インディー時代は「虹色の戦争」に象徴されるような曲調はポップだけど歌詞は暗いイメージだったのが、メジャーになってからは「炎と森のカーニバル」になって、「Dragon Night」でEDMになるみたいな。「あのバンドはメジャーになって変わった」と個人的に一番思ったのはセカオワです。
【江永】二人とも音楽はずっと聴いてきたんですね。
【池堂】高校生までは自分で使えるお金というのがほとんどなくて、臨時収入があると市内に3店舗あったBOOK OFFを自転車で周るという生活。だから動画サイトは自分にとって文化的な事物とつながる数少ない貴重な場所でした。ニコ動でいうと音MADとか、あとなんかアニメのカッコいい場面だけ切り取ってバックに曲流して、というMADシリーズあるじゃないですか。doa「英雄」とかをバックミュージックにしたりして。あそこから音楽の知識を得ることも多くて、実はその中にeastern youthの曲を使ったMADがあったんです。その曲がとても良いと思っていたら、原曲もニコ動にあるのを見つけて。そこからいろいろ辿って探すようになっていきました。
【荒岸】eastern youth使うのは渋いですね。
【江永】ニコマス(アイドルマスターMAD動画)のMVで楽曲にNumber Girlとか、洋楽とか使ってるのもありましたね。
【荒岸】みんなオフスプリングは「DoRaeMooooooooooooN!」から知りましたもんね。
【江永】「恋のマイアヒ」とかもそうですね(O-Zone『Doragostea Din Tei』2003のこと)。あと「もすかう」とかも(Dschinghis Khan『Moskau』1979)。

バラエティ番組の企画「空耳アワー」(1992)に倣って、洋楽をあえて日本語のように聴取して妙な字幕をつけたFlash動画がつくられていた。
【荒岸】めちゃくちゃ流行ってましたね。江永さんはどんな感じだったんですか?
【江永】私はニコニコ動画は全然利用してこなかったんですよね。
【荒岸】意外。
【江永】ニコ動は見てなくて。音楽雑誌とかもほぼ読まず。いわゆるポピュラー音楽は、アニソンやドラマの主題歌とか挿入曲から知って、いろいろ覚えていく感じでした。カラオケとかで歌えるような曲を探して聴いてた。アリプロ(ALI PROJECT)とかにはまったり。
【荒岸】アニソン聴いてるとそういうルートになっていきますよね。
【江永】で、2010年代に入ってからYouTubeでボカロ(Vocaloid)とかを聴き始めました。そこからどんどん検索してMVを視聴したりするようになった。検索は便利ですね。アニメの曲を探していくうち、何かのアニメで聴いたメンデルスゾーンの曲を探しはじめて、ハイフェッツの弾くツィゴイネルワルゼンにたどり着く、みたいなことも起こる。あるいはニコマスで様々な音楽にであったひともいるでしょう。ともあれ、私はニコ動も登録しておらず、2ちゃん(現・5ちゃんねる)も参加したことなくて、具合の悪い(?)個人ブログとかを漁ってました。ニコ動とかで話題になっている事象について語っている記事から情報を仕入れてました。kihirohito『護法少女ソワカちゃん』(2007-)などを聴いたり。話していて思い出しましたが、ゲーム音楽も好きでした。ただ買いたいゲームがすぐ手に入るとかではなかったので、やったことないゲームの攻略本とか読んだりしてました。
【池堂】あー攻略本だけ読むのは自分もやってましたね、分かります。
【江永】そういう感じでインターネットカルチャーに触れ、二次創作とかト書き形式のSSとか含め、ネットで小説を読むようにもなり、そこでいろいろミームを摂取していった感じですね。

《J-POPの“史”ってなんだろう?》

【池堂】今回はimdkmさんの『リズムから考えるJ-POP史』読書会ということで。ここの3人が比較的いろいろと話しやすく、かつ難解過ぎない内容という感じで選んだかなと思います。なのでテーマは「リズム」になるのかと思うんですが、実際のところ今、音楽のリズムに対するリスナーの意識って前より高まっているのかもしれません。個人的にはMCバトルとかで独特なフロウを強調するラッパーが目立ったりとか、そういう軸で評価される場が前よりも広がっているような気がしています。
【荒岸】個人的には境目として星野源が、ソウルミュージック的なものの面白さを前面に出してきたのかなと。今までもジャニーズ系のアイドルがファンクやソウル系の曲は出してましたけど。
【池堂】SMAPのアルバムのメンバーが超豪華なのは有名な話ですよね。
【荒岸】Official髭男dismとかKing gnuとかが、星野源が作った流れに乗って出ていったような理解を僕自身はしています。
【池堂】その元をたどると、例えば第一章に出てくるTRFとか、第三章のm-floとかになっていくということなんでしょうかね。
【江永】全体を通して面白かったのが、リスナーって聴取感覚がけっこう変わるという観点。例えば舌が肥えるといった言い回しがありますが、耳も感性が変わるんだなと(思うに、「肥える」という言い回しだと単線的な発達を自明視しているようになりますが、もっと多様な方向の変化、変遷がある気もします)。
【荒岸】それは確かに、肌感覚で分かりますね。
【池堂】第一章でいうと、カラオケでよく歌われる曲は、人々にそのリズムを染み込ませていく役割を担うという話が出てきます。小室さんはそれを狙ってやっていたんですね。
【江永】「史」みたいなのをやろうとすると、今の自分たちと同じ「耳」を持つ人を想定しがちじゃないですか。でもそうじゃなくて、その時々の「耳」というか、感性の作られ方というところを意識して書かれているから、そこはすごく丁寧に感じました。
【荒岸】imdkmさんはまず通説というか、既存の「J-POP史」的なものに対するオルタナティブな視点を用意しようという動機でこの本を書いていますよね。今回この本を読書会の第一回に持ってきたわけですが、この機会に通説の方もちゃんと勉強したいなと思いました。

《はじめに アジアンカルチャーの隆盛と日本》

【池堂】最初にK-POPの話が出てきていましたけど、本筋とは離れるんですが、以前観た『パラサイト』のエンディングが良い曲だったなと。

【荒岸】あの曲良かったですよね。最初カントリー調で、ギターソロになると80年代、ゲイリー・ムーアみたいな感じ。
【池堂】いかにもK-POP的なダンスミュージックじゃない、韓国のドメスティックな音楽シーンで聴かれている曲なんでしょうかね。そういったシーンもいろいろ探ってみたいなと思っています。
【江永】この章では音楽(とその担い手)のアイデンティティという話をしてましたね。
【池堂】本書のエピローグで出てくる、三浦大知が「JなしのPOP」を追求するという流れと表裏一体という感じで、「はじめに」においてこの内容が置かれている。今までは「洋楽」と「邦楽」の対立構造の中でJ-POPが解されていたところ、その対立項を取っ払っていこうという立場ですよね。「「外と内」はまだ有効か?」(P12)とあるような問題意識から始めています。実態はもっと複雑で、そうした状況を宇多田ヒカルや三浦大知などから紐解いていこうという。
【江永】逆にそこでは、どういう流れなのかという見通しは確かに把握しづらくなっています。「史」としては見えづらい。系譜ではあるんだけど、「どこからどこへ」という線引きは見えづらくなっている。「輪郭としての分かりにくさ」というのは、そこから来ているように思えます。
【荒岸】もしかしたらそもそも本当は「史」を書く気はなかったというところはあるかもしれないですね。
【江永】現在ウケているものにどう辿り着くかという視点で、飛び飛びで系譜を辿っていった形ですね。繋がるところは繋がるけど、切れるところもある。
【池堂】今のJ-POPを考えるうえで、いろいろな見方を提供していくというスタンスですよね。
【荒岸】各論という感じですね。
【江永】あ、「おわりに」で著者のスタンスは明示されていましたね。「コースというよりはアラカルトだ。しかし、整合性のある「史観」や方法の一貫性を追求することに対するぼんやりとした懐疑を覆い隠してまでそれらしい一冊にしたいとも思わなかった」(P250) 。

《第一章 小室哲哉がリスナーに施した、BPM感覚と16ビートの“教育”》

【江永】J-POPとダンスミュージックの蜜月というのはその通りだなと思いました。私、DA PUMPの『if…』2000とかは『USA』2018以前から聴いていて。ウルフルズ『ガッツだぜ‼』(1995)とかモーニング娘。『LOVEマシーン』(1999)とかも聴いてました。
【池堂】やっぱりこの章の面白いところは「小室哲哉が日本人の耳を教育した」というところですね。海を越えたところにあったダンスミュージックが、ディスコにカラオケが入ってきて、そこで小室哲哉の曲を歌うことを通じて、気づかないうちに浸透していく。そうして、日本人の感覚にシンコペーションが入ってきた。
【荒岸】全体通して一番へえっとなったのはこの章でしたね。
【江永】平成以降に生まれたひとが読んで一番へえーとなるのはこの章という気がします。
【池堂】逆に槇原敬之が当時出した曲にシンコペーションがないとか、言われてみればそうなんですけど、新鮮でしたね。あと「ザ・ベストテン」の時代と、オリコンが出てきた時代の音楽番組の違いとか、90年代のSMAPの話とか。この第一章に大事な要素がたくさん入っているような気がします。
それから小室について「TRFを通じてリスナーを教育した」と言っていたのは坂本龍一でしたけど、実は坂本自身も近いことを言われてたはずです。本人たちが言っていたのか誰かが論じていたのか忘れてしまったんですが、リスナーの耳を、「機械で作られた音楽」を楽しめる耳に「教育」したのはYMOだった、という話をどこかで読んだことがあります(結局、出典は見つけられなかったんですが……)。いずれにせよ、そのことを坂本龍一本人が自覚していたから、インタビューの中で「教育」という言葉が出てきたのかなと思いました。
【江永】テレビ番組のイントロからの影響も「教育」という観点で考えられそうですね。例えば『笑点』(1966-)のテーマ曲。ああいうのをずっと聴いてるとリスナーの耳が慣れてくるという。志村けんがファンクを取り入れた「ひげダンス」もまさにそうですよね。

志村けん 〜日本にファンク・ウィルスをばら撒いた男〜
http://www.sapporo-posse.com/d-funk/

(池堂注:志村けんさん逝去の報が流れてから、まさにこのあたりの話が一斉に広まっていったのも記憶しています。亡くなられたことは、いまだにどこか信じられないような思いを抱いてしまいます)

《第二章 90年代末の“ディーヴァ”ブームと和製R&Bの挑戦》

【江永】ここで面白かったなと思ったのは、ディーヴァブームにおける「声質」の話でした。
【池堂】洋楽を聴くとき、歌詞の意味は分かってないけど、音がカッコいいから聴くみたいな。そんな聴かれ方がJ-POPにも入ってきたということですよね。歌詞をじっくり聴くというよりは、その声まで含めて音として楽しむみたいな。それにしてもMISIA「つつみこむように・・・」ってめっちゃ名曲ですよね。この曲の分析はとても面白かったです。

【江永】最初このイントロを聴いたとき、たしかに人の出した声かわからなくなりました。
【荒岸】R&Bはヒップホップを聴き始めるようになってから触れたので、今まで聴いてこなかったんですよね。
【池堂】R&Bってやっぱり歌メインだから?
【荒岸】R&Bって歪んだギターないじゃないですか。
【池堂】そういうことか。この本を読んで啓蒙された方がいいのでは?
【荒岸】それは正しい。とはいえ変な話、J-POPってふわっと聴くもんじゃないですか? なんというか、音楽は何を聴くかって聞かれたときに、固有のミュージシャンの名前とか、ジャズを聴く、ロックを聴くって答えはあっても、「J-POP」を聴くって答えるのはあまりない気がして。
【池堂】流れてくるものを受動的に聴く、という性質が強いのはあるかもしれませんね。音楽を能動的に聴こうとすると、それはJ-POPというよりは、例えばMISIAの曲はR&Bとして聴けるし、RADはロックだし、って感じになると思うんですが、J-POPってランキングと紐付いているというか。そこに上がってきたものをある程度受動的に聴くという感覚は一部ですが、あるとは思います。
【江永】ドラマの主題歌とか、あとお店で流れてくる有線放送の曲とか、そういうのですよね。
【池堂】でも、そうやって流れてきた音楽に、実はシンコペーションが仕込まれていたりして、日本人の感覚を変えていく。
【江永】J-POPを通して、新しいリズムが生活のいろんなところに浸透していっているというのがあるわけですね。一方でこれはYouTubeとかが出てくる前の時代の話で、今はより能動的に音楽を聴きやすくなってもいるかもしれない。
【池堂】ただそれも自分が好きなタイプのものばかりに触れて、なかなか未知のジャンルにタッチしにくいところもあるんですけどね。YouTubeも自動でミックスリストとか作ってくれるんですけど、あれともうまく付き合わないといけないなと思います。本当、気を付けないと同じのばかり聴いてしまう。

【池堂】この章では「ループ感覚の台頭」というところから、Dragon Ashとかも登場しますね。
【荒岸】この時期からトラップの考え方が作曲に表れてたのかとか、興味深い部分もありましたけど、難しいですよね、ヒップホップの位置づけって。
【江永】私が一番はじめにラップ音楽と出会ったのは、プレイステーションの『パラッパラッパー』(1996)というゲームだったと思います。ただ、あんまり音楽的にどうこうはよく分かっていなかった。この話で今思い出したんですけど、この本にはゲーム音楽の話は入ってないですね。「ダンスダンスレボリューション」ってあったじゃないですか。
【荒岸】あー! ありましたね、それが出てきたのっていつぐらいなんですか?
【江永】最初にアーケードで『Dance Dance Revolution』筐体が登場したのが1998年だったみたいですね。
【池堂】一番初めの時って流行ってたんですか?
【江永】それぐらいの時期の「こち亀」で取り上げられていた覚えがあります(秋本治『こちら葛飾区亀有公園前』116巻「ダンス・ダンス・盆踊り!!の巻」など。1999年)。
【池堂】こち亀は先行して取り上げるみたいなところもあるじゃないですか。
【荒岸】とはいえみんな「ダンレボ」は知ってますもんね。
【江永】J-POPの普及の過程って曲を聴くだけじゃなくて、さっきも出た『パラッパラッパー』も含めて、ゲームによる「教育」という話も入ってきそうですね。
【荒岸】後半の第七章ではニコ動とか、それこそ「踊ってみた」の話が中心に出てきますけど、J-POPの普及の過程ではそれ以前からメディア論的な、プラットフォームの重要性はやはりあるわけで。
【池堂】第七章はこの本の中では異質ですけど、TRFとニコ動の間に「ダンレボ」を挟んだら見えてくるものもあるかもしれないですね。

《第三章 m-floから考える、和製R&Bと日本語ヒップホップの合流地点》

【池堂】この章はm-flo『EXPO EXPO』を中心に取り上げられていましたね。特に2ステップをフィーチャーした「come again」に見られる「多層的なグルーヴ」なるものが分析されている。「ポップミュージックというフィールドだからこそ可能なこと」(P100)とされた『EXPO EXPO』の作品としてのレベルの高さが分かりました。
【荒岸】構成の複雑さとか、しっかり考えられているのが伝わるのはもちろんなんですが、あくまで自分の好みとしては8ビート、16ビートで単純に突っ走るロックなんだなとも感じました。高校の時くらいまではBPM140以下の曲は聴いてなかったので……。
【池堂】まあこうしてみるとJ-POPって、80~90年代くらいからダンスと密接に結びついてくるんですね。そうすると「踊らない人」たちにとっては、対象外というわけではないんですが、受容の仕方がやっぱり変わってきますよね。
【荒岸】正直なところ、打ち込みサウンドもそんな好きじゃないです。
【江永】打ち込みって、聴いているときにいつでも判別してますか?
【池堂】ドラムの音だと残響音がないなとか、空気感とか、そのあたりで普段判断してると思います。
【荒岸】電子っぽさって何となくわかりますよね。
【池堂】でも打ち込みの音もどんどん進化していきますからね。第一線のプロドラマーから素材となる音を集めたりして。やっぱり結構断られるらしいんです。機械に仕事奪われるなんてたまったものじゃない、と思ったらそうなりますよね。実際かなりそれで生の音に近づいて行っているわけで。録音技術の黎明期から似たような話はあって、SPレコードの時代に「自分のスタイルが模倣されるから」という理由でレコーディングを拒否した、フレディ・ケパードというコルネット奏者の逸話が残っていたりします。
(後で調べてみたらそれは通説で、当時のビクターが無給で録音させようとしたからだとか、様々な説が出てきました。またケパードは2代目「ジャズ王」と呼ばれていたのですが、そのスタイルは「初代」キングのバディ・ボールデンの模倣から始まったということで、興味深く思います。ちなみにボールデンは発狂して早逝してしまったこともあり録音は残っていないのですが、ケパードは僅かながら録音が残っており、ボールデンのスタイルを現代に伝えています)

逆に、電子音でつくられたビートを人力で再現するドラマーも今ではいるので、そのあたりのせめぎ合いも面白いですね。まさに『初恋』で宇多田ヒカルとレコーディングしたクリス・デイヴがそうですが。ビートメイカーのレジェンドJ・ディラが作ってきた、敢えてタイミングをずらすことで音がよれてまるで人力のように聴こえるビートを、本当に人力で再現するなんていう神がかり的なことをやっているドラマーが、ポップ・ミュージックの第一線で引っ張りだこになって、アデルとかエド・シーランとかに起用されているのが面白いなと思います。そこでは基本的には普通のことをやっていますが、音色がすごい独特だからクリス・デイヴって分かるという、そんなところも魅力的ですね。

【江永】岡崎乾二郎編『芸術の設計』の「音楽の設計」の議論を思い出しました。電子音と人力音みたいなテーマは、ボーカロイドでも語れそうですね。今となっては問題含みの言い回しですが、初音ミクの「調教」など、歌唱法に繋がる話ですよね。
【荒岸】そうですね、「もはやこれ生きた人間じゃん」みたいなノリとか。そんでもって、実は初音ミクも僕は苦手なんですよ。ボカロの曲とか全然わからなくて。
【池堂】自分もそうですね、ニコ動を見ていた当時からついていけてなかった。
【荒岸】機械音声以外の部分に関しては良いな、と思える曲はもちろんあります。あの世界観が好き、とか。声が好きという人ももちろんいるでしょうけど。GUMIとかの声はまだ聴けるな、という感覚があるので、技術は進歩しているんだろうとは思います。
【江永】最初期の人たちはサイバーパンクっぽさとかを推していたのかな。そういう話もあったと思います。また、これは雑な印象なんですが、オクターブ一つ上とか、とにかく歌の中でどれくらい「変わった声」を出せるかがすごい、という評価基準が小集団ではしばしば生ずるように思います。替え歌や変な声真似が流行ったり、歌というのはそういう仲間内での遊びにも開かれていますよね。ボーカロイドの曲に、そういう姿勢で面白がる近づき方もあったと思います。初音ミクって、まず人間に出せるか出せないかぎりぎりの高音を使ったりするじゃないですか。
【荒岸】「初音ミクの消失」の頃とかってそんなイメージありましたね。
【江永】一種、コミカルに聴いているひともいるし、同時代の売れ線の曲と全然違うからとベタに聴いていたひともいる。そういう感じだったんじゃないかとも思います。一方、そこで「歌ってみた」カルチャーが膨らんできたら、今度はやっぱり人間でも歌えるか、歌うにはどうすればいいかという話にもなって。歌唱法自体が「初音ミクっぽい声を出す」、機械音声によって洗練されるという部分もあったのかなと思いました(例えば黒嵜想「ボイス・トランスレーション」2018の記述はこうした観点からも読めるのではないかと思います)

あとボカロ文化って、これも印象論ではあるんですが、ティーンズの女性が担い手になっている部分ありませんか(これに関しては、稲葉ほたて「「彼女たち」のボーカロイド」2019のような記事でも語られているようです)。
【池堂】それってなんというか、雑なんですけど『恋空』みたいな世界観の延長でってことですか?
【江永】あー。どちらかと言えばSound Horizon(2001-)のファンなどと近い……? ボカロPで言うとマチゲリータやmothy(悪のP)、あるいはハチ(米津玄師)やじん(自然の敵P)などのリスナーを念頭に置いていました。ボカロ外で言うと、例えば、矢沢あい『NANA』(2000-)や嶽本野ばら『下妻物語』(2002)以降でのアリプロや大槻ケンヂのファンのような……。ええと、自分も少し判然としていないので整理してみます。
自分の印象なんですが、90年代末からゼロ年代初頭にかけて、ギャル、オタク、耽美などがぐしゃっと混ざってる感じがするんです(自分のなかで混ざってるだけかもしれませんが)。サブカルとかガーリッシュって言えばよいのか。例えばゴスロリはじめ、日本の少女文化にもっと詳しければうまくまとめられるはずですが……。
ケータイ小説の話が出たのでそこを考えてみます。ボカロ曲の歌詞が、感傷的な内容を比較的平明な語彙で語る、いわゆる「ポエム」っぽいという感触からケータイ小説とボカロ曲を関連づけたのだと思います。それはある程度はそうだと思います(とはいえ、全く逆に、わかりそうでわからない寓話的な内容を連ねる場合も少なくありません。リスナーの側で隠喩めいた歌詞に対して独特の意味、しばしば都市伝説めいた内容などを注釈として付していく「考察」文化というものもありますね)。
非現実的なシチュエーションでこそユースの「リアル」が描ける、というひとつの型があると思います。それこそ新海誠作品などがイメージしやすいですが。で、ボカロ文化にもそういうところがあるように思います。では、ケータイ小説もそうなのか、というと難しい。
美嘉『恋空』(2005-2006)は、どこまでほんとうに信じられていたのかはわからないけれど、感動実話、ノンフィクションを標榜しながら登場したはずでした。事実か否かと別の水準で、「リアル」感のようなものが評価されたといえる気がしますが。
色々言えそうではあります。日本近現代文学には、例えば村上龍『限りなく透明に近いブルー』(1976)みたいに、荒廃したユースカルチャーの中での自意識を描く(しかも主人公には作者のリアルが投影されているかのような意匠をまとっている)という型があり、こういう疑似「リアル」ものとして受容された90年代後半の女性作家の小説として、篠原一『壊音 KAI-ON』(1993)や桜井亜美『イノセントワールド』(1996)をあげることができます。ケータイ小説の嚆矢であるのはYoshi『Deep Love』(2000-)ですが、ユースの「リアル」感に訴えかけるという点で、90年代のこの辺の小説がケータイ小説に先行していたかもしれない作品として検討されるべきだと思っています(また個人的には、ケータイ小説の傍らに猫田道子『うわさのベーコン』(2000)を置きたい気持ちもあります。高橋源一郎にのっかり過ぎかもしれませんが。もちろん私はkiki『あたし彼女』2009も好きです。ホラー系のSaori『呪い遊び』(2006)など、ケータイ小説が恋愛もの一辺倒でない話もしたくなります。またケータイ小説界のウラジミール・ソローキンとでも呼ぶべき、ぁいり姫の作品、例えば「彼氏ゎ赤ちゃん」などもよく読んでいました。が、ユースの「リアル」感という話を逸してしまうので戻ります)。
なんか話がごちゃごちゃしてすみません。ゼロ年代初頭にかけてギャル、オタク、耽美がぐしゃっと混ざってると言ったのは、リアリティの水準が混乱していると言いたかったのでもあって。例えばヤンキーマンガを読んでいるひとがその世界観を真に受けているのかある種の異世界として見ているのか、あやしいところがないかと思うんですが、そういう感触がケータイ小説にも感じられるように思います。
『恋空』と同じゼロ年代のライトノベルで言えば、橋本紡『半分の月がのぼる空』(2003-2006)は不治の病+恋愛もので、疑似「リアル」な小説です。同時代の非オタク的な「純愛」ものの枠組みとそんな変わらない。そして当たり前ですが現に不治の病のひととたまたま巡りあって恋に落ちる(恋に落ちた)経験をしている読者というのは多くないはずですが、それは共有された「リアル」な妄想でした。他方で、死神のモモや相棒のしゃべる猫ダニエルなどを中心にしたハセガワケイスケ『しにがみのばらっど。』(2003-2009)のように、非現実的な世界観で、しかし読者たちの感傷や自意識を投影するように読まれたであろう作品もある。ケータイ小説などでさらに話がややこしくなるのは、ユース作者-読者像自体のアイドル的な消費の話と混ざってるところです。例えば2004年に綿矢りさ(当時19歳)と金原ひとみ(当時20歳)が芥川賞を受賞していて、どちらもユース的な内容(綿矢はピアスなど身体改造の話、金原は高校の陸上部員とアイドルオタクの話)だったりする。
ケータイ小説の場合、まずYoshi「Deep Love」シリーズが嚆矢なのですが、これは男性作家が〈女子高生の荒廃したカルチャー世界〉を仮構してつくられたネット発の小説だったわけです。いわば注釈がゼロになった世紀末版の田中康夫『なんとなく、クリスタル』(1980)というか。ただ「Deep Love」で示された世界が(おそらく作者名が露骨に男性的でなかったこともあり)、篠原一や桜井亜美のような〈ユース女性の荒廃したリアル〉を描いた小説として読まれた気配がある。で、美嘉『恋空』に代表されるタイプのものは、〈ユース女性が夢見るリアル感を少し年長の女性作家が書く〉という文化圏として形成されていくことになる。そして〈いかにもケータイ小説を読んでいそう/書いていそう〉なユース女性という類型が形成されて、それ自体が語られ消費される対象にも、被って成りきるべきキャラのガワにもなっていった。長々とすみません。そういう見方をしています。
【池堂】『恋空』以前のケータイ小説って確かによく知らなかったですし、掘っていくと面白そうですね。ケータイ小説、中学の図書室にたくさんあって、いつも人気でした。当時はそれを横目で見ていただけでしたけど。
【江永】「Deep Love」シリーズの一番最初、『アユの物語』が、父親と兄に性的に虐待されて結果として家から出て援助交際しながら自活するようになった女子高生が、同世代の少年(難病持ち)と運命的な出会いをして恋に落ちてまっとうに生きようとか決意するけど最終的にエイズで死ぬ、みたいな話です。これが学級文庫に置いてあったんですよね。

【池堂】そんなのが学級文庫に置いてあるのはなかなか狂ってますね。母校は星新一とかでしたよ。
【江永】まあゼロ年代って『14歳の母』(2006)という14歳で妊娠出産するドラマが水曜22時から流れていたりする時代だったので。初音ミクも、そういう雰囲気と近接しているところがあります。だから、例えば米津玄師がハチの頃は、堕胎をにおわせると「考察」されていたような『結ンデ開イテ羅刹ト骸』(2009)とか、何曲かユース少女荒廃カルチャーと『地獄少女』(2005-2009が中心)的業深ホラーを足したような曲を発表したりしています。ゼロ年代以後でその系統のひとだと、『鬼火』(2011)でデビューしたMASA(まさ)や、『コインロッカーベイビー』(2013)などで知られるMARETUがいます。いま挙げたような曲には『恋空』より以前のケータイ小説にも見られたある種の荒廃業深カルチャーのにおいと、もう少しわかりやすいオタクやサブカル趣味みたいなものを見いだせるように思います。
ほんとうに長々とすみません。さっきの、電子音と歌声との話で念頭にあった記事があって。ボカロ全盛期に女子中学生だったと推定される方の回想的なブログ記事です。

【荒岸】やっぱりこのブログでの書き方を見ると、ボカロの機械っぽい声が好まれていたんですね。
【江永】2000年代初頭にボイスチェンジャーが一般に普及して、誰でも声を変える遊びができるようになった。ヒャダイン(前山田健一)や神聖かまってちゃんが自分には思い出されます。で、たぶんそれと前後して、「両声類」という、女性男性の声どっちも出せるみたいなことがひとつの指標として「歌ってみた」の広がりとともに出てきたvip店長やピコなど。下地としてはアニメ映画『もののけ姫』(1997)の米良美一による主題歌への注目があったのだろうと思います。テクノロジーの普及や様々なカルチャーの流れが絡みあって、ボーカロイド周りでは、私がそれまで親しんでいたのとは違う展開の曲に出会えたように私には思えました。突然異常な程の高音に飛んだり、ありえない早口とかが出てきたり。まずそういうのがボカロで流行った後に、それらを自分の音楽表現でマネする人たちが出てきた。そういう流れとして理解しています。

《第四章 中田ヤスタカによる、“生活”に寄り添う現代版「家具の音楽」》

【池堂】この章は中田ヤスタカについてでした。いましがたの話と被るんですが、スペシャで初めてきゃりーぱみゅぱみゅを聴いた時も、最初人間の声とは思えなかったのを覚えています。ニコ動とかじゃなくて、メジャーでこんなふうに歌うんだって。

【江永】この本に取り上げられていた中田ヤスタカのインタビューで印象に残ったのは、自分は曲を作ることに興味が有るけど、好きな曲があってそれに影響されて、という流れで作曲していたのでない、というところですね。ボーカロイドの歓迎のされかたにも、楽曲づくりに必要な声を人間から調達しなくてよくなったから、という面があったらしくて。たしか米津玄師が、他人と曲がつくるのが難しかったからボーカロイドを使っていたと言っていたはずです。一人で曲が作れる。中田ヤスタカのここでの言い方もそれに近いものを感じました。
【池堂】ボイスチェンジャーで機械っぽい声を出すのが定着していくのと、ボーカロイドが人口に膾炙していく流れとの間に因果関係があるようで、ちょっと分からない部分があり、そこがどうなっているのかは気になっています。
【荒岸】出てきた順で考えるとPerfumeとかがネット文化に影響を与えた側だとは思うんですが、その辺の話は見えにくいですね。
【池堂】作り手側の思想は全然違うとは思います。Perfumeとかは本書にもある通り、サビの歌詞がナンセンスだったり、歌が加工されて音の中で後景化している。でもボカロの曲ってやっぱり歌詞重視なものが多いと感じます。動画内で歌詞を連続で表示させたり、そういうのがなかったらコメント職人が歌詞を流したり。歌が前面に出ているという点で違う。
【荒岸】難しい話というか、Perfumeの中でも売れてる曲は歌詞がちゃんと意味あったり、世界観はしっかりしたものになってたりしませんか、ポリリズムは違うけど、ワンルームディスコとか。一方アルバムの曲は歌詞がナンセンスみたいな、使い分けてる感じはしますよね。
【池堂】そういった使い分けはできる人という気はしますね。
【荒岸】作り手側のやりたいこととは別に、J-POPの中の一曲として受容する聴き手側は、歌詞に重きを置いている人は多い気がする。
【池堂】Perfumeあたりは微妙なところだけど、きゃりーぱみゅぱみゅくらいまでいくとやっぱりあまり歌詞は聴かれてないんじゃないですか? 意味のないことを歌っているのを楽しむ、みたいな受容のされ方があったような気がするんですけど。とは思ったんですが、例えば「にんじゃりばんばん」とかの歌詞に共感してる人が、実は結構多かったりするんだろうか、なんてこともいま、ちょっと頭をよぎったりもしました。それ自体は戯言かもしれませんが、現代版「家具の音楽」というコンセプトが作曲者側にあったとして、実際のところ中田ヤスタカの音楽が聴き手にはどう受け入れられてきたのか、確かにそこはまた違う話になっていきそうですね。いろいろと読んでみたいなと思います。

《第五章 Base Ball Bearから検証する、ロックにおける4つ打ちの原点》

【荒岸】この章は自分が選択的に聴いてきた音楽が取り上げられていたので、面白く読みました。アジカンやベボベ(Base Ball Bear)の4つ打ちの話もさることながら、メロコアの可能性の一つに4つ打ちを置くところが面白かったです。
【池堂】DOPING PANDAをミッシングリンクとして定めるところとか、展開が盛り上がってましたね。
【荒岸】ナンバガとかアジカンとかに比べるとそこまで語られてこなかったDOPING PANDAに着目していたのが興味深かったです。

【池堂】この章ではベボベは確かに4つ打ちを邦ロックにはじめて取り入れたかもしれない、でもそれは狭い意味での4つ打ちではあった、という内容のことが書かれていますね。
【荒岸】ただ実際代表曲が全部4つ打ちだったのはベボベなのかなという気もします。フォーマットを作ったのがベボベというのは納得感がありました。こうした4つ打ちが威力を持ったのは2015年以降だったのかなと思っています。KANA-BOONとかフレデリックとか、この章の最初にも出てきますけど。個人的には起源の話だけでなくて、今4つ打ちが邦ロックにおいてどういう状況にあるのか、という話も読みたかったです。ゲスの極みが、メインは4つ打ちだけどそのうえで色々と実験的なことをやっていたみたいな話。
【池堂】いろんなバンドがそれぞれの形で4つ打ちを自分の表現に持ち込んでいった、という話ですね。
【荒岸】その話をまさに読みたくて。例えばもう解散してしまいましたがWHITE ASHとか、もっと語られるべきだとずっと思っているんです。4つ打ちとかの文脈をうまく取り入れて、ブラックミュージック的な流行りをいち早く取り入れていた。今の星野源までに至る流れの結節点にあるのは、WHITE ASHだったんじゃないかと。

【池堂】この章に関してはあとサカナクションの「夜の踊り子」とか、聴き直していいなと思いました。レイ・ハラカミのピアノをオマージュした話とか。この本においては、4つ打ちの中のバリエーションを紹介するというよりもダンスミュージックの文脈に乗っけた時の邦ロックに見られる4つ打ち、をメインに扱っているという気はします。それもあって、BPMの速すぎない曲が中心になっているのかな。
【荒岸】邦ロックにおける4つ打ちって、フェスの中で踊りやすいだとか、そういう文脈で語られることが多かった気はするので、永井純一『ロックフェスの社会学』みたいな。だから逆に、こういう形で起源を辿る試みは面白いと思いました。

《第六章 KOHHが雛型を生み出した、“トラップ以降”の譜割り》

【池堂】この章はトラップの話ですね。日本語ラップ史の概観も冒頭に言及されていました。日本語ラップとJ-POPはずっとせめぎ合ってきたんですね。「さんピンCAMP」と「大LB夏祭り」の話も出てきます。ECDが「Jラップは死んだ、おれが殺した」とやったりしたそのあとに「Grateful Days」が出て、それに対して「公開処刑」があって、なんやかんややってるうちに2005年、ケツメイシが「さくら」をヒットさせる。そのあとの湘南乃風も大きな存在でした。「純恋歌」は自分くらいの年齢の人が地元でカラオケに行くと、誰かしらが必ず歌っているみたいな、世代的アンセムになった気がします。
【江永】いわゆる〈陽キャ〉なひとたちが歌っていた印象があります。
【池堂】「純恋歌」はレゲエとはいえ、ラップ的歌唱が世に広まるうえで個人的にはやっぱり大きかったと思っているんですが。
【荒岸】2000年代にそういったものは単発としてありましたが、もちろん「高校生ラップ選手権」や「フリースタイルダンジョン」は大きいでしょうね。このあたりの歴史の話はよく言われていることだと思います。ただ僕が気になっている箇所があって、トラップを三連のリズムだけで語っていいのかと。本の中で言うと乃木坂46「帰り道は遠回りしたくなる」のサビ前、「ここ、では、ない、どこかへ」と歌っている部分を紹介する箇所(P170)。

これって確かにトラップの譜割りと同じ(三連符の三つ目が休符)ですけど、正直最初聴いたときに違和感があって。ラッパーっぽい発声の仕方をしてないからなのか、ずれてるように聴こえてしまう。アジカンとか女王蜂とかがやってるのはそれっぽいんですが。
【池堂】そこはまだ過渡期なのかなというか、この曲の他の場所では第一章で出てきたようなシンコペーションが出てきて、そちらは完璧に歌われている。トラップ的三連符もこれからカラオケ等を通してJ-POPのリズムに浸透していくんだとは思うんですが、まだそれがここでは、受容の過程という感じですね。本書で挙げられていた「津軽海峡冬景色」が三連符というのは言われてみればなるほどだったんですが、いままで日本の歌の中に三連符がなかったわけではない。でもそれはこの本で言うと小田和正「ラブストーリーは突然に」みたいに、三連符と「3:3:2」のリズム(調べたらこれは「トレシージョ」というんですね)の間で揺れ動いていたりする。トラップに見られる、より厳格な三連符が浸透していくのはまだこれから、という話かなと。
【荒岸】でも、日本での三連符について、J-POP以前からR&Bとかの影響のもとシャッフルビートは歌謡曲の中で用いられていたし、その流れでJ-POPにだって見られるわけで、紙幅とか先行研究(佐藤良明さん)の関係でカットしたのかもしれないけど、そこを切り捨てて「J-POP史」って言われてしまうとどうしても違和感が残っちゃう。これとは別の話で、この話の後にKOHHが出てくるわけですけど、例えばBAD HOPやJP THE WAVYとかの方がはっきりとトラップらしい三連の譜割りをフロウに取り入れているんじゃないですか。もちろんトラップを最初に日本で取り入れたのはKOHHだと思うんですが。今J-POPで流行っている曲はトラップの影響を受けている、そのトラップを最初に日本でやったのはKOHH、だから今のJ-POPはKOHHの影響下にあります、という話に読めてしまうというか。でもKOHHはあくまで先駆者という立ち位置だと思うんです。それに2013年にKOHHが出てきた時って、三連符というよりは、緩慢な日本語の使い方をしてトラップに乗せているという感じが強調されてるように思っていて。J-POPへの影響は直接的ではなかったんじゃないでしょうか。トラップへの理解がまだ浅いので合っているかこわいんですが。
【江永】この本ではほぼ言及がないですが、別のところでは88risingを評価する記事も書かれていたと思います。もしかしたら88risingをある程度中心に据えた見方をしているかもしれませんね。「イエローミュージックを脱日本化する」というような話が「はじめに」でありましたけど、そのあたりの見方が反映されているのかもしれない。

【池堂】KOHHのフロウがすごいなと思ったのは、本書にもありますが小節線を容易に飛び越えてしまうところに対してで、その間延びしたラップは衝撃的でした。そのリズムの仕組みまですぐには分からなかったんですが、初めて聴いた時思ったのは「こんなふうにラップしていいんだ」という驚きで。ある意味ではきゃりーぱみゅぱみゅの時にも似ています(し、初めてパンクバンドのシャウトを聴いた時とも似ていたと思います)。
【荒岸】僕がKOHHを初めて聴いた時は「歌みたい」と思ったんですよね、ラップっぽく聴けなくて。
【池堂】聴くタイミング次第では自分もそう思っていたかもしれません。
【荒岸】いずれにせよ、KOHHの影響でJ-POPにおいてトラップが流行ったというのには僕は疑問があります。トラップはむしろ間延びというよりは、言葉を詰めるイメージですし。格好良いのは大前提として、「歴史」として捉えた時に、系譜というか、影響関係の中には置きづらいんじゃないか。だから個人的には、もっともっとトラップの様々なパターンと、それらのJ-POPへの影響を書いてほしかったです。
【江永】他のいわゆる音楽本における歴史記述って、どういう書き方が主流なんでしょうか。この本は書き方が特徴的ですよね。「歴史」を書くときって編年体にするのが一般的なのかと思うんですけど、そうではない。かといって回想でもない。
【荒岸】音楽における影響関係って確かに見えにくいというか、どうとでも捉えらえてしまうものなのかなと今思いました。
【江永】例えば文学史とか政治史と同じようにやって、それで済むとは言いきれないところがありますね。
【池堂】そうやって「分散してること」こそがJ-POP史なんだ、というのがimdkmさんの立場なんじゃないでしょうか。
【荒岸】単純にBPMとか、音楽の構造とかで規定されるジャンルじゃないですからね、J-POPって。だからこういう書き方が有効になってくるのかな。その代わり影響関係とかはすごい見えにくいジャンルなんじゃないかと。Imdkmさんはその中で、可能な限り影響関係を見出そうとしていると思います。
【池堂】今までにあったようなJ-POP史観(これが具体的に何を指すのか、もっと勉強が必要ですが)とは異なる視点を間違いなく提示していますよね。この新たな視点を元に、もちろん批判も含めて今後各自やっていけばいいんじゃないでしょうか。

《第七章 動画の時代に音楽と“ミーム”をつなぐダンス》

【江永】ニコ動を通っていないので、この章の話は新鮮でした。
【池堂】とはいえさっきまででだいぶネットカルチャーの話はしてきてしまったのと、会議室の時間が迫っているという状況もあり、駆け足にはなってしまいそうですが。
【荒岸】この本ではアニソンの話はほとんど出てきませんでしたね。邦ロックの話は出てくるのに。電波ソングとか、リズムの面でかなり面白いことをやってるんですが。言ってしまえば、例えばMステや紅白しか見ていない層からしたら、KOHHよりLiSAの方が何倍も知られているわけで。米津玄師は少しだけ出てきますけど、この章だけあんまりリズムの話をしてる感じが無くて、浮いているような気もします。「踊ってみた」からダンスの話に結びつけるという展開ではありますが。
【池堂】宇多田ヒカルの話を最初と最後に持ってきて、そこを背景に話をしてるから、当然漏れてくるものはある。むしろその中でニコ動を取り上げたんだなと自分は思いました。触れなくてもこの本を書くこと自体はできたんじゃないかという中で、あえて取り上げた。
【荒岸】一つだけメディア論に近いですもんね。この章だけ異質。
【池堂】このあたりの流れは実際知らない人も多いので、オルタナティブな文脈でニコ動カルチャーを紹介するという意義はあると思いました。それと個人的に面白かったのはVineとTikTokの話で、Vineなら6秒、TikTokなら15秒の制約の中で、既存の曲が再構成されたり、また違った消費のされ方をする。プラットフォームが音楽に与える影響って甚大で、それこそ蓄音機やレコードの時からそうですよね。またSPレコード時代の話ですが、当時は3分程度しか録音できないから、必然それ以内に収まるように作曲、演奏する。それからドラムを使うと当時の機材は音圧等で壊れてしまうから、録音の際はウッドブロックや小さいシンバルしか持ち込めなかったりとか。でもそんな環境の中で「3分間芸術」と呼ばれたりする名演が生まれているわけで、TikTokの影響下に生まれたヒットもその延長線と考えてしまえば同じことだよなと思いました。

【江永】ところで、アニメとダンスという括りで言うと、木澤佐登志さんが以前ブログで書いた記事が面白かったので紹介しておきます。

アニソンにダンスミュージックがどうやって入っていったのかを考察するという内容ですね。
【池堂】これは読んだことがなかったので、じっくり読んでみようと思います。

《第八章 “人間活動”以後の宇多田ヒカル》

【池堂】やはり本書の肝は宇多田ヒカルというか、特に『初恋』に至るまでの道筋を念頭に書かれていますよね。それまでの章においてもずっと影のように宇多田ヒカルは付いて回っていたんですが、いよいよ前面に躍り出てきました。やはり表題曲の「初恋」、これがまた衝撃だったわけです。冒頭からこの小節線を飛び越えていく歌に度肝を抜かれます。

【江永】『花より男子』シリーズ原作のドラマ『花のち晴れ〜花男 Next Season〜(花晴れ)』(2018年)でこの曲がイメージソングとして使われてて、初めて流れてきた時、ある種ぶん殴られたような感覚を味わいました。それは全然聴いたことのない譜割りだったからなのかと本書を読んで納得できました。ずっとドラマの主題歌を通して宇多田ヒカルを聴いている勢の自分からすると、例えば『HERO』(2001年)の主題歌だった『Can You Keep A Secret?』とかのイメージから全然違っていて。
【池堂】宇多田ヒカルの作曲法というか、分からないんですけど、「私の作詞は作曲から始まる」(P226) と本人が言っているという。作詞と作曲が切り離すことのできない一体不可分という感覚って、どんなものなんでしょう。メロディーと歌詞が同時に思い浮かぶということなのか、もっと感覚的なものでしょうが。
【江永】シンガーソングライターという存在が成立したのは大きそうですよね。そうでないと、作詞と作曲が不可分という発想にはなかなかならない。
【池堂】小室さんは自分では歌わないですもんね。そういえば「Automatic」について、「七回目のベルで」という歌詞がメロディーの中で「な・なかいめの/べ・るで」と切られることについて、言葉が途中で切れることが特徴的だ、言葉の意味を解体しているんだといったような評論が発表当時から多かった(非常にざっくりとしたまとめ方ですが)ことに対し、宇多田本人が「本当に意味が分からなかった」(P224)って言ってるの、面白いですよね。この「言葉が途中で切れる」話、大学の講義で聴いたのを覚えてるんですけど。本人からしたら「そんなの音楽なんだから当たり前」という以上のものではないんですね。もちろん、じゃあこの評論が的外れかというとそうではなく、聴き手側にとってやはりそれは意味の解体だったことは間違いない。「Automatic」を聴いて「こんなところで言葉を切ってもいいんだ」と思った人がいたはずですよね。宇多田ヒカルの意図と聴き手側の意識は、そこにおいては離れていくわけです。
【江永】宇多田ヒカルは、ニューヨークで生まれて、その後も日米を行き来してるからなのか(そういう話に還元していいのかは躊躇もありますが)、日本語の捉え方が変わっていますよね。アメリカの影響を受けて変わったというより、日本的な枠でもともと日本語を受容していないような印象があります。
【池堂】「誓い」のリズム構造もすごくて、非常に変則的なうえ曲の中で転回していく。リミックスを頼まれたスクリレックスが「これ俺いじれないじゃん」ってなった話とかすごい面白いです。『初恋』はドラマーにクリス・デイヴを起用していますが、柳樂光隆さんの『Jazz The New Chapter5』収録インタビュー曰く、宇多田ヒカル本人から電話がかかってきたらしいですね。クリス・デイヴ自身も小節を非常に独特な、大きな捉え方をするドラマーですが、この人なら確かにこれくらいの変則的なリズム構造は一瞬で理解するはずです。なんというか、こんな高レベルの作品がJ-POPの中で当たり前になってきたら、すごいことになりそうだなと思います。エピローグの三浦大知の話にも連携しますけど、この章で言うと「Too Proud」のフィーチャーを通してアジア圏のラッパーたちとつながったりだとか、欧米圏とはまた別のグローバルへの展開を見せている。これからのスタンダードとは何か、ということを見せつけられた思いです。

【荒岸】「J-POP」の「J」を解体するという話になっていくんですね、「J-POP史」と言いながら、商業的な国内市場の話をあまりしていなかった印象で、それよりは海外とどうつながるかに重きを置いている。Imdkmさんが系譜的な見せ方というよりは拡散していくような書き方をしていたのは、そういう狙いがあったのかな。

《エピローグ 三浦大知と“J-POP”以後》

【池堂】いま荒岸くんから出てきた話が最終的に、エピローグでいう「天皇」の話というか、三浦大知が「歌声の響」の歌唱者として選ばれた話につながっていくんですね。自分が前に読んだからかもしれませんが、綿野恵太さんの『「差別はいけない」と、みんないうけれど。』のラストに天皇制の話が出てきたことを連想しました。本書では示唆段階で留まってはいますが、本当はこのあたりで突っ込んだ話をもっとしたかったのかもしれません。

【江永】もちろんこの本に沖縄の話まで大きく盛り込むと取っ散らかってしまうという部分はあるとは思うんですが、モチベーションの背景にはあったかもしれませんね。
【荒岸】普通にこれはこれでまた別の批評の題材として読みたいですよね。
【池堂】imdkmさん自身も「ポップミュージック論の末尾で軽々しく触れられるほど単純ではない」(P245)とは書いています。
【江永】沖縄の文化や事象がJ-POPに与えた影響という視点での論も読みたいです。例えば、本書で挙げられていた安室奈美恵は沖縄出身ですよね。十分それだけで本が書けそうな内容になる感じがしますが、国内植民地主義というか、オリエンタリズムの一環としての沖縄文化受容とはまた別の、今のJ-POPと沖縄の関係、それこそ本書の末尾からつながっていくような論は、あるとすれば気になります。
【荒岸】その観点で言うと、DA PUMPの「U.S.A」を沖縄から見た日米関係という視点で読み解く評論が面白かったですよね。この手の話を深く掘り下げていく人が、今後さらに出てくることを期待したいなと思っています。

《おわりに》

はじめての読書会でしたが、直接関係のない話も含めて大変盛り上がり、会議室の時間を何度も延長する羽目になってしまいました。読書会の後はお好み焼きをみんなで食べて、さらに本屋へ移動。次の課題本について話し合ったり、あやしげなビジネス本の棚を眺めたりして楽しい時間を過ごすことが出来ました。今はなかなか気軽にはできない行為です。せめて家にいるときは、積んである本を読み、ちゃんと聴いてない曲を聴いて過ごさないとですね。そして読書会もどうやら遠隔でできるので、細々とでも続けていけたらいいなと思っています。本記事の内容が、皆さんにとって何らかのヒントとなるものになっていましたら幸いです。読書会って楽しいですね。
次回は編著・大和田俊之『ポップ・ミュージックを語る10の視点』で読書会記事をお出しする予定です(実は本記事より先に公開しています)。よろしくお願いします。


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