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9. 型があるから型破り、型がなければ形無しだ。

2019. 7. 13

「型があるから型破り、型がなければ形無しだ。」

これは、祖父の言葉だ。


祖父は、高校の国語の教師として働いていた。

そのため定年後もよく「松本先生」と呼ばれていたが、どちらかというと国語の先生・高校の先生としてではなく、「剣道の先生」として呼ばれていたと思う。

大学の頃から剣道をしていて、地元の剣道界ではなかなか有名だったらしい。

7段がどれほどのものなのか、いまいちつかめないが、残念ながら8段への昇段試験は何度受けてもダメだったようで、本人曰く「若い頃の無理がたたって肘が伸ばしきれない」ことが原因で求められる動きができないことが原因だったようだ。(確かに肘は完全に伸ばしきれない状態になっていた)


国語の先生 + 剣道の先生 という祖父の特徴が合わさって、僕は保育園に通っていた頃から「論語の暗唱と剣道の面打ち」をさせられていた。

保育園に通う4、5歳の子供が

「子曰く、学んで時に之を習う、また悦しからずや」

と意味もわからず暗唱していたことを思うと、ちょっと笑ってしまうが、今となってはいい思い出だ。
なんでそんなことをさせられていたかといえば、祖父が孔子を崇拝していて、論語をの研究に勤しんでいたからだ。

当時の僕は正直やりたくなかったのだけれど、祖父が楽しそうにしているのを見て、そこでこんなのやりたくないと言えるほどの子供ではなかったこともあり、黙々と暗唱していたし、小学生の頃には暗礁だけでなく「ノートに論語の文章を書き写す」という課題もこなしていた、いやいやだったけど。

とはいえ、勉強する、覚えるという基礎がここで培われたのかもしれないと思うと、今だからこそ感謝の気持ちも出てくる。


面打ちは、祖父の家の階段の柱に面がくくりつけてあって、それに向かって「めーん、めーん」とやっていたのだけど、結局剣道を始めることもなくサッカーを始めてしまった。
「子供に、親のやりたいスポーツを強要してはいけない」ということを僕に教えてくれた。


こうやってネガティブなことを書いているが、祖父のことは好きだったし、今の自分の人格は、祖父の影響を強く受けていると思っている。

色々な話を聞いたし、多くのことを教えてくれたが、その中の一つに


「型があるから型破り、型がなければ形無しだ。」


がある。


これは、この言葉のまま、

「型があるから型破りができるのであって、型がない状態で型を破ったら、それは形無し(台無し)だ。」

という意味だ。


どんなシチュエーションで話したか、何度も聞いたのかそれとも一度だけだったのかはもう覚えていない。

この言葉をGoogle先生に聞いて見たところどうやら祖父のオリジナルではなかったようだけど、僕にとっては祖父の言葉だ。


言葉を聞いた当時、それほど自分に響いたわけではなかったけど、なぜかずっと頭の片隅にはあって、今となってはこの言葉の大切さも身にしみてわかる。


サッカーでも、サッカー以外のトレーニングでも、原理原則や基本的なトレーニング手法、その目的、根幹になる考え方などは「型」にあたるだろう。

それは突拍子のないものでも、誰も知らない新情報でもないけれど、前提としてそれがないと、そこから新たな発見や創意工夫は難しいはずだ。

今日ある人と話している中で、「サッカーの指導者でも、最新の戦術とか選手の動かし方とか、そういうことばっかりに気を取られて、そもそも原理原則が抜けていたり、どうやって人の体が動くだとか、トレーニングでどんな反応が体に起こるだとかそういう基礎を学んでない人が多い」という話を聞いた。

これはトレーナーでもフィジカルコーチでも同じだと思うけど、最新のトレーニングだったり、目新しいものに跳びついて、「そもそも」が抜けていれば何にもならない。
自分も気をつけたいところだ。


どうやって型を作っていくかは難しいこともあって、僕自身明確な「型」を認識できているわけではなく、いつもいつも不安になる。

多分この不安は、今後もずっとついてきて、「よし型がわかった、ここから型破りだ!」なんて考えることはないだろうけど、「そもそも」にあたる部分が「型」だと思えば、常にそれを追い求める必要があるのだろうし、それがないままそれっぽいことをやっても多分「形無し」になってしまうんだろうと思う。


自分のことだけでなく、誰かを指導する側の視点になると、もちろん型にはめることは必ずしもいいことではないかもしれないが、型を与えなければ、あるいは自分で型を身につけるように導かなければ、やはりその後の型破りは期待できないかもしれない。


「自主性、主体性」が大切だとか、「自分で考えて行動できることが必要だ」とかいうけれど、その基準を作るものも「型」だろうし、その基準が曖昧なままそれを求めても、それは「白紙のキャンパスに絵を書いてくれ」と言っているようなもので、なかなか難しい課題だ。

ベースとなる基準は作ってあげて、さあそこからどう使う?ってところが大切なはず。


これは学校教育でも同じなのかな。多分ね。(教員免許一応持ってます)



なんだか最後はまとまりがなくなってしまったが、結局思うのは、もっと祖父と話しておけばよかったな、ということと、大切な人はいつ会えなくなるかわからないから、できるだけたくさん時間を共有した方がいいよね、ということかな。


fin.


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