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歌舞伎の楽しみ 〜「愛想づかし」、「縁切り」〜


歌舞伎によくあるパターンが
 見染め →  通い → 愛想づかし → 殺し  があります。
特に、世話物の花魁、芸者によくある演目です。
深い仲だった男と女が事情があって縁を切る、、、。
その場合、
① 縁を切るのはたいてい女性の方から
② その動機は止むに止まれぬ義理詰であることが多い
③ 大抵それが満座の中で行われる
④ 男は女の事情に気づく余裕もなく、恥辱と受け止め後に「殺し」になる
⑤ 「縁切り」の場がドラマの中で最大の見せ場になる
 主な人気の演目では、
「御所五郎蔵」の皐月  「伊勢音頭恋寝刃」のお紺  「お祭佐七」の小糸
「縮屋新助」の美代吉  「籠釣瓶花街酔醒」の八つ橋  など
この場のヒロインが、大抵芸者か遊女なのは、酒の席という賑やかな場所での悲劇という劇的条件が状況を作りやすいからなのでしょう。
この時の舞台では、必ず下座で胡弓を入れた演奏が行われ、女が男の顔を見ずに愛想づかしのセリフを言うのも一般的で、女の苦しい立場を表す決め事になっています。

愛想づかしにも二通りのパターンがあります。
① 「御所五郎蔵」「伊勢音頭恋寝刃」〜〜 真実男を愛しながらの愛想づかし
② 「籠釣瓶花街酔醒」「縮屋新助」〜〜 必ずしも男に惚れているわけでない女
 ②の代表的な女である「籠釣瓶花街酔醒」の八つ橋を見てみましょう。
彼女に惚れている客が、本気になって身請けまで考えているので余計始末が悪いようです。
八つ橋と佐野次郎左衛門
顔にアバタがある佐野の絹商人の次郎左衛門が、江戸の吉原で、兵庫屋の花魁八つ橋の花魁道中を見て一目惚れ、夢中になって通い詰めます。
いよいよ身請け話が決まりそうになった時、八つ橋は、繁山栄之丞という愛人がいることから次郎左衛門への愛想づかしということになります。
一旦国へ帰った次郎左衛門は再び吉原で八つ橋を訪れ、名刀でもある妖刀の籠釣瓶で斬りつけ、ついには廓での百人斬りにまで進んでしまいます。

八つ橋は、以前、姫路藩士清水三郎兵衛の娘でした。父親が死んでその跡片付けの金にも困っていました。そのため、当時、清水家の中間だった権八の世話で、江戸吉原の兵庫屋に身を売って八橋と名乗りました。いわば、権八は保証人、親代わりの親判でした。ですから八つ橋はあまり素行の良くない権八でも、その言うことには従わざるを得ない立場にあったのです。
また、八つ橋には以前から言い交わしていた栄之丞と言う愛人がいます。今は浪人に成り下がっていて八つ橋の稼いだ金で食いつなぐ、いわばヒモ、間夫です。
それとも知らず、次郎左衛門は八つ橋に首っ丈で、連日連夜、揚屋の立花屋に通い詰めます。その挙句、身請けしたいと、八橋の抱え主の兵庫屋にも了承させ、身請けがほぼ本決まりになっていました。
商売上の損得で身請けには積極的な揚屋の立花屋、もちろん置屋(抱え主)の兵庫屋も承知しています。
莫大な借金を負う八つ橋、廓の世界のしきたりでそれを拒むことはできないというのが女郎の哀しい宿命なのです。
しかし、八つ橋にはそれを受けきれない弱い側面がありました。間夫の存在です。権八にそそのかされ嫉妬に絡んだ男は八つ橋に次郎左衛門から手を切るように迫ります。
その結果が八つ橋の次郎左衛門への「縁切り」です。
八つ橋にとっては、次郎左衛門は誠実で親切、経済力もある男ですが、所詮、恋の駆け引きには無縁の田舎のお大尽で、そのため、八つ橋も身請けへの結論もなかなか出せず、引き延ばしていました。そこへ恋人から「迫られ」です。
いわば、この女の優柔不断の態度が大事件を起こすきっかけになってしまったのです。
見方によっては、八つ橋は次郎左衛門が膨大に注ぎ込んだ恩を裏切った悪女である一方、廓というしがらみの中で、以前からの恋人への愛を貫く純粋な女だったともいえます。
次郎左衛門には思いがけない衝撃的な愛想づかしですが、八つ橋には廓のしきたりにも関係ない、一人の女として真実のまことに徹するために決意した、いわば「いじらしい女」「可愛い女」だったともいえます。


この演目は古典的な「縁切り」「愛想づかし」とはいささか違います。
八つ橋は次郎左衛門には済まないと思いつつも、情夫を思い切ることができず、「縁切り」をするのです。
この演目が明治になって書かれた脚本らしい新しさがあるのです。
「愛」を取るか「今の暮らしから抜け出すか」その狭間で揺れる女心、男の恨みより女の苦悩、愚かしさ、哀切さが強く印象に残ります。

「真実男を愛しながらの愛想づかし」のパターンを見てみましょう。
「伊勢音頭恋寝刃」の福岡貢と伊勢の遊女お紺のドラマです。
伊勢古市の廓油屋が舞台です。
阿波の家老の息子、今田万次郎はお家の重宝の名刀青江下坂とその折紙(鑑定書)をなくしてしまい、その行方を探しています。
その一方、お家横領をたくらむ悪人一派の徳島岩次も身分を隠して廓に入り込み、刀を詮索しています。
伊勢神宮の御師、福岡貢は以前、今田家に恩を受けたことから同様に刀を探してやっとの思いで手に入れて、あとは折紙を探す段取りになっていました。
とりあえず刀だけを万次郎に渡そうと、入り浸っている油屋に行きますが、生憎万次郎は留守です。貢はそこで万次郎を待つことにします。
油屋にはお紺という貢とは恋仲の遊女がいますが、仲居の万野は、阿波の客にお紺を取り持つことを頼まれており、貢とお紺を逢わせようとしません。阿波の客岩次は刀の詮索と同時にお紺を身請けしようと思っているのです。

やがて、思いがけなく現れたお紺、貢に満座の中で愛想づかしをするのです。
実は、お紺の愛想づかしは、同じ座敷にいて、折紙を持っている阿波の客(徳島岩次)を誑かし、折紙を奪うための計略だったのです。
そんなことを知らず、貢は、預けてあった青江下坂の名刀で、万野ともみあううちに鞘が割れて斬ってしまうのです。

お紺によって念願だった折紙を手にすることができたのですが、一度血を吸った妖刀青江下坂は、貢の意思に関わらず、次々と関係ない人まで斬り殺していきます。

二つの例を見てきましたが、歌舞伎では、最初に書いたように、通常、
「見染め」の後は、だいたい「縁切り」または「愛想づかし」、そしてその後に
「殺し」というプロセスが多く描かれています。
これは「世話物」に多い類型で女の「縁切り」「愛想づかし」が男の怒りを招いて「殺し」に発展していきます。
歌舞伎ではこれを美化しています。
「殺人」の瞬間において、役者の身体が最も美しく見せることが求められるからです。
もともと歌舞伎は役者の体の線の美しさを見せることがある種の目的であって、それが最も美しく見られる例が「殺人」の瞬間でもあるわけです。
殺される瀕死の身体の動きにはその身体の緊張感があり、殺す側の罪の意識にもまた身体の緊張感がみなぎるのです。
それを「絵」にしたのが歌舞伎なのです。
「殺し場」では人間の緊張した体の線を、また息遣いを見ることができます。
だからこそ、「殺し場」は歌舞伎の最も甘美な、重要な見せ場の一つになりました。
殺される者が逃げ回るのを、刀を振り翳した殺人者が追い回しながら美しい動きを見せる。残酷さと役者の美しい姿態が独特の美学を創造しているのです。

もう一つ、「殺し」を極端に美化した舞台を紹介しましょう。
大坂の演目「夏祭浪花鑑・長町裏舅殺し」です。
殺しの場面が延々と続きます。殺される義父の義平次、殺す団七九郎兵衛、二人とも次々といい格好して見得を繰り返して美しい姿態を見せます。

この演目の特殊性を見ておきましょう。
①  「殺し」が起きている最中、黒板塀の向こう、街並みを高津神社の夏祭りの山
  車が通り、だんじり囃子が聞こえてきます。このお囃子が殺人にいかにもよ
  くマッチしています。役者の動きに密着しているからです。この例では殺し
  を見せるために役者の身体に「だんじり囃子」のリズムが刻み込まれて、そ
  れに乗った殺しの動作の美しさを見ることができるのです。
② もう一つは「泥」です。殺しに使われる懐紙、打掛、帯、髪といったもの
  が、この場では泥が大きく効果をあげています。この場を「泥場」ともいう
  のは、実は「血」の代替物になっているのです。この泥が舅と団七の身体を
  美しく見せ、また殺しの動きに大きな美的効果を生んでいるのです。


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