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6月の風

個展とFANTANIMAが終わり、することが何もなくなってしまった。
大袈裟ではなく本当に、何も。
FANTANIMAまでを無事に終えられたらもう何もしたくないとずっと思っていたのだが、あまりのすることのなさに驚きさえした。


仕方がないとでも言うようにぼんやりと過ごす。しばらくしてハッとし、何かに留まろうと意味もなくスマホを触る。
そんなことを繰り返し時計を見やると、針はいつもの倍速並みで進んでいるのだ。

こんなことでは時間が勿体ないと思い直し、ぼんやりするのはやめて本を読んだり映画を観たり料理をしたりする。
私にとって一人の時の食事は栄養補給なので、料理といってもレパートリーはとても少ない。料理はあまり得意ではない。

ステイホームは2年目ともなるとすっかり習慣になっており、することがないからといって無闇に出かけようという気はまるで起こらなくなった。

以前は意味もなく出かけるのが好きだった。

電車に乗ることもあれば徒歩で済ますこともあった。出先で珈琲でも飲んだ後は目的もなく本屋やデパートに寄ったりするのも楽しみのひとつだったのだが、最近では「出かけたい」という願望自体が消失気味だ。
仕事でもない日に何故用もなく外出しなくてはいけないのか。
コロナ禍による新習慣的なこともあるのだろうが、何かに気付いてしまった感は否めない。


「意味もなく出かける」その中で新しい発見や気づきがあったりするのでそれは無意味ではないと思っていたし実際そうだった。
しかし本当は、無意味なことはどう頑張っても無意味なのではないか。それを「無意味だ」と認めてしまうことは「貴重な時間なりお金なりを無駄にした」と認めることに限りなく近く、それは何やら恐ろしいことのようで無理矢理意味づけをしていたのではないか、とすら思う。


つまりは損得勘定だとでも?
そう思いながら、また本を開く。本を読むのは好きなのでこれは無意味じゃない。
好きなことに関しては「好きだから」で何もかもがまかり通るのだから、私はただ単に出かけるのが好きじゃなかったんだ。そういうことのような気がする。


実際のところ、私は損得勘定のみで動けるほど頭の切れた人間とは言えない。

リカバリーにかかる時間が明らかに長くなった。
自分で思うほどもう若くないのかもしれない。

FANTANIMAを終えたあと様々なものに拒絶反応を起こした。
私の知っている「抜け殻症候群」などではない。目が覚めた時には世の中に心を閉ざしていた。そんな感じだった。
対人や仕事のストレスはそれに拍車をかけ、休みの日は家でじっとする以外できなかった。

ステイホームのせいでも何かの病的なものでもなく、心が冷めてつまらなくなったということでもなく、私自身に起こっている心身の変化なのだろう。
受け容れるしかないのだ。きっと。



仕事の休憩時間、私は近くの池に行く。

その池ではフナが釣れるらしく、天気のいい日や週末にはおじさんがいっぱい並んで釣りをしている。
今日はいつもよりたくさんの釣り人がいた。
私はベンチに座り、釣り人というのは本当にフィッシングベストを着るのだななどと感心しながらぼーっとその光景を眺めていた。
しばらくして、一人のおじさんが大きな魚(フナかどうかは判別がつかないが)を釣り上げた。
あ、と思うも束の間、おじさんは魚を掴むや否や釣り針を外し、すぐにその魚を逃がしてしまったのだ。私はそれを、ただじっと見ていた。

何の意味があるのだろう。
釣るだけ釣ってすぐに逃がしてしまうなんて何の意味があるのだろう。

魚は一度跳ね、瞬く間に逃げ去っていった。
私はおじさんを眺めながら気が付いたらぼろぼろ泣いていた。どうかしている。
私はもうとっくにどうかしているのだ。
駆け出したかった。一刻も早く家に帰りたかった。早く家に帰って人形を作りたい、と強く思った。

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