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スポーツ少年が英語を勉強し始める話 ~ミャンマーのお話~

閲覧ありがとうございます!Keiです。

さて、昨日からnoteを始めたわけですが、まずは私が世界を知り、英語の勉強を始めたキッカケの話について書きたいと思います。

私は大学で国際系の学部に所属し、主に英語を勉強していました。

当時は留学生のお世話をするチューター制度にも参加するほどの熱量でしたが、社会人になってからは英語学習も手付かず…

単語も忘れてしまい、AI相手にも言葉が出てこない状況ですが、将来の夢に向かって学び直しの真っ最中で、勉強し始めたころの情熱は取り戻しつつあります。

今回は私が英語を勉強するキッカケとなった話です。

ミャンマーという国

この話はミャンマーが舞台です。皆さんはミャンマーという国にどのようなイメージをお持ちでしょうか。

ミャンマーは中国やインドといった大国、日本人にも観光地として馴染み深いタイなど、複数の国に接する東南アジアの国です。

1989年まではビルマという国名でしたので、私の両親なんかはそちらの名前の方がピンとくるようでした。

人口はだいたい5000万人くらいですが、面積は日本の約1.8倍です。

見出し画像で見ていただけますとおり、ミャンマーは敬虔な仏教徒が多く、国民の9割がなんと仏教の信者です。

シュエダゴン・パゴダという仏教寺院が有名で、日本の寺社仏閣を思うと想像しえない金ピカのお寺を見ることができます。

この寺院の中のお釈迦様は、派手な電飾で後光が表現されているなど、仏教に関わりのある日本人にとっても興味深いものでした。

Wikipedia シュエダゴン・パゴダ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/シュエダゴン・パゴダ

さて、話を戻しますが、そんなミャンマーに私は17歳の時に訪れることになるのですが、当時は「発展途上国」「貧しい」という、ネガティブ寄りのイメージを持っていました。高校生で不勉強とはいえ、恥ずかしい限りです。

皆さんも色々なイメージをお持ちかと思いますが、この記事を見て興味が湧き、少しでもミャンマーのことに思いを馳せていただけると嬉しいです。

ナショナルチームの衝撃

高校2年生のとき、私は親善野球のチームメンバーとしてミャンマーを訪れました。

現地に住んでおられる日本人の方が、ミャンマーに野球を広めようと活動されており、その方が監督をしているナショナルチームと試合をするというものでした。

初日は、交流はそこそこに早速試合をしてみましょうという流れでした。

こちらは高校生だけでしたが、相手はナショナルチームなので上は30代の方もいました。

だいたい野球は試合前のノックを見ると相手の実力がある程度わかるといいますが、それなりのメンバーが揃っているこちら側からすると、「まぁ試合にはなりそうかな」と、というレベルに見えました。(なんともエラそうな話です…)

体も線が細い方がほとんどで、デカイなと思うような人は1人もいませんでした。

正直、試合は楽勝だと思っていましたが、結果はそう簡単にはいきませんでした。

グランドはデコボコで固く、ゴロのバウンドが変わるイレギュラーはもはや当たり前。

日本人選手は守備が上手い選手も多かったのですが大苦戦。

外野手ですらフライを追うのに足を取られてコケずに捕球するのが精一杯。

しかし、ミャンマーの選手は全く苦にせず、超反応で当たり前のようにボールを捌きます。

技術的には決して上手くはないのですが、結果がアウトなら同じアウトです。

打つ方も、各選手は決してパワーがあるわけではないですがミート力が高い。

粘り強くセンター返しで出塁してきます。

そして…これぞ4番バッター。

チャンスで回ってきた打席はことごとく打たれました。しかも彼は長打力があり、ライナーで素晴らしい打球を飛ばしてくる。

結果は日本チームの勝利でしたが、いわゆる辛勝というやつでした。

日本チームの彼らへの印象は1試合で完全に覆ったのです。

話せるミャンマー人、話せない日本人

さて、試合が終わり、複数日の滞在となる私たちは、ミャンマーの方と一緒に練習をして交流を深めることになりました。

通訳兼トレーナーの方がいましたが、選手同士のコミュニケーションは基本通訳なし。

さて、何をどう話そうかと思案していると…

なんと、複数のミャンマーの選手が日本語を話せるではありませんか!

ミャンマーの公用語はミャンマー語です。

1948年まではイギリスの植民地でもあったため、英語が話せる方がいるとは聞いていましたが、日本語を話す方がいたのは驚きました。

ただ、日本語で会話ができる選手は多くはありませんでした。

ミャンマー語しか話せない方は選手の約2割ほど。

そしてなんと、8割の選手が英語を話されていたと記憶しています。

一方の日本人選手は、いわゆる進学校から参加している選手も複数いましたが、全く英語を話すことができません。

日本人選手は…ルー大柴さんとか芸人の出川さんみたいなやり取りというと伝わるでしょうか。

仲良くやり取りを続けていましたが、内心、私はこの状況を非常に恥ずかしく感じました。

明らかに教育の環境は日本のほうが良いだろうに、この差は一体なんだと。

その後も身振り手振りで交流を続け、打ち解けていけばいくほど、言葉の壁がもったいない、そう感じました。

好きにつながる

日本に帰って、私はいつも通り野球に打ち込む日々に戻りました。

最後の夏の大会が終わり、自分の進路を真剣に考えたとき、浮かんできたのがミャンマーでの出来事でした。

もっと色んな世界を見て、そこに住む人々と自分の言葉で交流したい。

現地で感じた恥ずかしいという感情は、いつしか自分の進路を決定付けるものになっていました。

野球ばかりやっていたので、そこから勉強しても、正直大学受験には間に合いそうにありませんでした。

ただ、進路を考えるときに指定校推薦なども選択できるように成績だけは一定水準を保っていたので、英語を学べる大学に入ることができました。

とはいえ、受験勉強を乗り越えてくる学生は真剣に取り組んできた猛者揃い。

絶対に負けたくないと、大学入学まで毎日英語の勉強を続け、通学中も英語の聞き流しをひたすら繰り返していました。

するとどうでしょう、高校を卒業するころにはすっかり英語が好きになっていました。

以上が、私がミャンマー訪問をキッカケに、世界を知り、英語を勉強し始めた話です。

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