ケータイで詠む短歌とは

言葉で喜び、言葉に傷つく。

 コミュニケーションの手段は、ケータイ電話のメールの時代。クラスメイト、部活の仲間、彼氏・彼女のあいだで。事務連絡も、ケンカも仲直りも、告白も別れ話も、すべてがメール。

 メールで、つまり、それはすべて文字で書かれた言葉によって。

 私はケータイが普及する直前の(ほんの十年前の)女子高生であった。家の電話のベルが二回鳴って切れたら、それは彼氏からの合図。すぐに電話の前に飛んでいって、家族より前に、受話器をとれるように準備する。親機の「通話中」ランプを見て、母親が「いいかげんにしなさいよー」とドアを叩く。それでも真夜中まで、電話を抱え毛布を引っ張り出してくるまり、いつまでも話しこんでいた。牧歌的とさえ思えてしまう、でも、たった十年前までありふれていた光景。

 電話が伝える「情報」は、会話の内容だけではない。声のトーン、会話の間、相手の背後の音(家族の声や流れている音楽)も聞こえてくる。そんなさまざまな情報が伝わることを含めての電話があった。言葉よりも、沈黙や溜息が、気持ちを伝えていた。

 メールの場合は、文字と、それからメールの返信が送られてくる間隔だけが「情報」になる。

「返事が短かったから、なにか怒ってるのかと思った」

「返信が遅いから無視かと思ってヘコんだ」……。

 情報が少ない分、「伝える」ことが難しくなる。推測の部分が増え、もちろん誤解も生じやすくなる。

「別に怒ってないよー。ただ眠かったから」「あ、ごめん、お風呂入ってた」

後からそんなフォローがあって、やっと安心する。

 文字情報で細やかな気持ちの違いを表すために、記号や絵文字・顔文字が発達した。それから語尾。最近の機種は「予測変換」として、メールの文章に続く候補を表示する機能があり、さまざまな語尾を挙げてくれる。「遊びにいく」とケータイメールで打つと、続く文字として「もん」「べし」「にゃ」……と十以上の語尾候補が出てくる。「がな」なんてものまで。「遊びにいく」だけじゃ伝わらない。明るいのか、暗いのか、まじめなのか、冗談なのか。気持ちの違いをだすため、それにぴったりの語尾を選んで送信する。

 短い文章で、気持ちを伝える。自分の思いがちゃんと相手に伝わるように、言葉を選ぶ。つまり、それはもう自由律の短歌みたいなものなのだ。三十一音の定型へ整えるだけで、ケータイメールは「ケータイ短歌」へと変わる。

 昨年六月、東京都下の高校生を対象とした「文芸部の集い」が開かれ、そこに講師として呼んでいただいた。講演後には、高校生たち四十人と歌会を開いた。事前に歌を作って提出してもらい、無記名でプリントに印刷し、それぞれに作品の批評をしてもらった。


  すごいことが起きないなんて知っていた 

  歯ブラシくわえた四月の窓辺  関かお

  り(高校二年生)


 学生にとっての四月は、進学や進級の、一番変化に富んだ季節である。しかしその「変化」に対して、ただもう無邪気にどきどきするすることは出来ない。何かが変わるといっても、周りが少し違うだけのこと。「すごいこと」が起きるのは自分の内部が変わったときにしか起こらないと、もう知っている。通学前の朝の慌しい時間、洗面所の眩しい朝の光を受け、歯ブラシをくわえたままで、ぼんやりとそんなことを思っている。

 授業で作って以来、ひさしぶりに作った短歌だと彼女は言っていた(ほとんどの生徒が小説や詩を書いていて、短歌はこのとき初めてという子が多かった)。場面の切り取り方のおもしろさ、上句の効果的な言いまわし、上句と下句のバランス。とても初心者とは思えない作品に仕上がっている。他の生徒の作品も、短歌の初心者にありがちな「気持ちを言葉にすることのぎこちなさ」はほとんどみられずに、それぞれの思いを31音に当てはめていた。


  君を待ち焦がれる我の髪をただ後ろの方

  から焦がしてゆく日 今村万梨子(高校

  3年生)


 そして、他人の作品の読みについても、活発に意見が交わされた。「焦がしゆく日」を朝日ととるか、夕日ととるか、それだけでイメージする世界が変わってしまう、と指摘し、朝と夕のそれぞれのシチュエーションについての読みを展開していた。

 学力低下や活字離れを嘆くニュースを日頃見かけるため、短歌創作や歌会について、大きく不安を抱いていた。だが、とても良いかたちで裏切られる結果となった。

 とはいえ、確かに和歌・短歌を読みこんで作られた歌の上手さではない。知識やテクニックを駆使して作られた歌でも、読みでもない。しかし彼らには「お勉強」的な堅苦しさではない、自らの感覚に基づいた「詠み」と「読み」があった。

 「思い」を「言葉」にすること、そしてそれを読み取ること。少しでも間違った言葉を使ってしまったり、意味を取り違えてしまったら、友達や恋人をなくすかもしれない。日常に直結したところで、日々彼等は「言葉」と向き合っているのだ。書くことと読むことの重大さを、身をもって知っている。

 「ケータイ」で「短歌」。それはまるで「アイスクリーム」を「てんぷら」にしたり、「着物」に「ブーツ」を履くような、一見突飛な組み合わせに思える。しかし、分析してみると、このふたつが互いの特徴を生かしていることに気がつく。


・短歌は日常の「ふと」したことを切り取る

 文芸。ケータイは常に手元にあり、「ふと」

 した瞬間にすぐにメモ機能に入力すること

 が出来るため、紙に書くよりも便利である。

・ケータイメールでの長文入力はPCなどの 

 文字入力に比べて、手間がかかる。そのた

 め短い文章に向いている。短歌はたったの

 五句三十一音でできる。

・短歌は「携帯式ゲーム」と「脳のトレーニ

 ング」の要素を持っており、道具を必要と

 せずに外出先や待ち時間などいつでも作る

 ことができる。短歌を作ることはケータイ

 ゲームの代用にもなる。

・短歌は「青春」と親しい文芸である。寺山

 修司、春日井建、村木道彦……いずれの歌

 人の代表歌も十代後半、または二十代前半

 に生まれている。ケータイを使いこなす世

 代と、そのターゲットは重なっている。

・「恋愛」は人を詩歌へ向かわせるきっかけに

 なりやすい。これもまたケータイ世代と重

 なる。

・できた短歌をWEB上の「投稿サイト」へ

 送るためにも、ハガキや原稿用紙を必要と

 せず、そのままメール送信できる。自作の

 blogに発表する際も同様に、すぐメール送

 信できる。

・平安時代、互いに歌を送り合うことと、ケ

 ータイメールをやり取りをすることの相似。


 ざっと挙げただけでも、これだけの「相性の良さ」が浮かぶ。「ケータイ短歌」が生まれるためにこれだけの好条件が揃っていたのだ。

 出現も早く、二〇〇一年には、NTTドコモによる投稿サイト「i短歌」がスタートし、ケータイに短歌frashアニメーションを配信する「テノヒラタンカ」が生まれている。

 ケータイ・ネットの出現によって、短歌を詠む若者が爆発的に増えた。もちろん、それまで内在していたもの(机の中にしまわれたノートに書かれていたようなもの)が発表の場を与えられ表面化したこともあるだろう。穂村弘・枡野浩一がほぼ時を同じくして若者向けの短歌入門を出版した背景もある。

 しかし、ケータイメールという要素がなかったら、日々言葉で思いを伝え合うという習慣がなかったら、十代二十代に短歌がここまで浸透することはなかった、と断言できる。

 私はケータイ電話を持つ以前に、短歌と出逢った。

 身の回りに短歌を読む同世代なんていない。歌集は一般書店に並んでいることはほとんどなく、取り寄せなければならないし、価格も高くて、そう簡単には買えない。「短歌の創作講座」というものも見かけるが、学生の生活時間帯で、平日昼間に開講されていることの多いカルチャーセンターには通えない。〈短歌結社〉という謎の組織があることも知ってはいるが、なにをするどんな団体なのか、よくわからない。

 とにかく短歌は「敷居の高い」存在だった。

 ケータイ短歌によって、その壁は易々と超えられるようになった。ケータイサイト上の歌会に参加すれば、同世代の仲間がいる。他人の作品を読みたくなったら、短歌を発表しているサイトに、いつでもどこからでもアクセスできる。結社やカルチャー、雑誌媒体を通らなくても、自分の作品を発表することができる。

 ケータイから投稿できる短歌の投稿サイトも多く開設されている。選者は二十代・三十代の歌人である。「枡野浩一のかんたん短歌blog」(現在は募集は休止中)「笹ドットコム」「テノヒラタンカ」など。投稿し、お互いに批評し合うものとしては「モバイル短歌」がある。投稿数はそれぞれだが、頻繁に更新され、書籍化や同人誌化など他メディアにもまとめられ、活発に活動している

 そしてケータイから投稿を募っている代表的なものとして、「うたう☆クラブ」と「土曜の夜はケータイ短歌」が挙げられる。

 「うたう☆クラブ」は短歌雑誌の老舗である「短歌研究」の、後見開きから始まる七ページほどの選歌欄である。パソコンからのほか、ケータイ電話の総合サイト「The News」の「ケータイ短歌」のリンクから応募できるようになっている。

 従来の投稿方法(雑誌についている送稿券を貼り、ハガキで応募)と比べると、その投稿方法は各段に入り易いものとなっている。若者の短歌離れを懸念しての、従来の歌壇からの歩み寄りといえよう。連載の第一回は二〇〇一年四月号。


  白桃の缶詰を開けたときにたつかなしい

  匂いをさせている膝 (砺波湊 二十八    歳)


  なくてもいいものが私を生かしてる た

  とえば秋のベロアの帽子 (立原あゆこ 

  二十八歳)


  この空とこの海の淡い境目に君の名つけ

  たいくらい好きです (尾崎みのり 十

  九歳)


 「短歌研究」(二〇〇七年四月号)より。投稿者は十三歳から七十八歳と幅広いが、中心は二十代三十代。月代わりの選者(コーチ)に選ばれると、メールでのアドバイスを受けられることが特色となっている。「インターネットと携帯を利用した新しい短歌入門」と銘打たれて書籍化もされている。

 投稿者を見ると、短歌雑誌での掲載ということもあり、短歌サークルに所属している学生や短歌結社に所属している人の名前が多く見られ、作品は口語と文語が入り混じっている。選者も栗木京子、小島ゆかり、穂村弘、加藤治郎と歌壇で定評のある歌人たちが務めている。「ケータイ」よりも「短歌」寄りの投稿欄と見ることができる。

 一方、「土曜の夜はケータイ短歌」は、反対に「短歌」よりも「ケータイ」に近しい。


「ケータイだったら、メールだったら、伝えられる。手紙とも電話とも違うメールだから、より伝えられることってありますよね? 夕陽を見たこと、悩んだこと、好きな人のこと、将来のこと。いろんなキモチが一瞬一瞬生まれては消え、弾けていきます。それはまるでシャボン玉のように。

 そんなキモチや想いを5・7・5・7・7のことばで表現してみませんか? 短歌を作ることは、心の風景を探す旅。あなただけの心象風景が織りなすラジオ番組です。」(番組ホームページより)


 NHKラジオ第一で放送され、毎週土曜日の午後九時五分より、約一時間の生放送。

 「ケータイ短歌」を題材をした番組としては二00二年より数回特別番組として放送され、二00五年に定時の番組化された。たびたび教育テレビとの連動企画があり、二〇〇五年にはNHKスペシャル「ケータイ短歌 空を飛ぶコトバたち…」が放送され、「ケータイ短歌」という存在を広く知らしめるきっかけとなった。

 ラジオ番組としては異例の投稿数を誇り、週平均約六00首の歌が寄せられる。


  あなたごと夏の形を切り取ってわたしの 

  ものになればいいのに (三崎利佳 十

  六歳)


  独りだと思った夜に君からの起きてるか

  いのメールで二人 (パフ 二十二歳)


  忘れれば忘れたということにさえ傷つく

  だろう 忘れたくても (水元透子 十

  八歳)


  青春は形を変えて続いてく50メートル

  先で待ってて (櫻井美里 二十歳)

 

  神様を信じたくなる放課後の雨にあいつ

  と雨やどりして (おみそ 十五歳)


『土曜の夜はケータイ短歌』(竹書房)より。寄せられる歌は従来の短歌のイメージに捕らわれない、自由な作風が広がっている。「かつて」の青春を歌うのではなく、「いま」まさに輝く日々を送る作者による作品はエネルギーに満ちている。 

投稿歌は番組に出演するタレントや歌手、それから歌人により選ばれ、ホームページでの掲載も含め、毎回約50首の歌が紹介される。投稿者の八割が十代・二十代。「短歌作品として高いレベルをめざす」よりも「短歌というツールを使って、十代二十代の思いを浮かびあがらせる」ことに重点を置いた構成になっており、ここでは添削指導や作品の優劣をつけることは行っていない。選ばれた歌に寸評をつけたり、その歌からイメージされる事柄についてのトークなどが交わされる。

パーソナリティは週代わりでタレントのふかわりょうと漫画家の魚喃キリコ。ゲストには石田衣良、長塚圭史、みうらじゅん、五味太郎、陣内智則、緒川たまきと、従来の短歌のイメージとは程遠い、多才なラインナップとなっている。歌人は投稿者と世代の近い、加藤千恵、斎藤斉藤、笹公人、天野慶らが出演している。

放送開始より三年経つが、番組への投稿数は増加傾向にあるという。「ケータイ短歌」はますます若者に浸透している。

 ネット、雑誌、ラジオ番組と、さまざまなアウトプットを持ち、広がってゆくケータイ短歌だが、他のケータイ文芸と比べ、特異な点が見られる。それは「読む」よりも「詠む」に重点が置かれていることである。つまり、作品を作らずにただ読むだけ、という接し方が極端に少ないのだ。

 「ケータイ小説」は、小説を書くことの敷居を低くしたことよりも、小説を読むことを手軽にした功績のほうが大きい。本屋では雑誌しか買わない世代も、クリックして気軽に小説を読むようになった。しかし「ケータイ短歌」はそうではない。ケータイ短歌がこれだけ広まっても、人気があるのは投稿サイトで、人気のケータイ短歌が読めるサイトがある、とは聞くことがない。ケータイ小説は続々とベストセラーになっているが、ケータイ短歌は書籍自体がとても少ない。

 そのため「ケータイ小説」でよく取り上げられるテーマ、高校生の過激な恋愛であったり、ボーイズラブ的なもの、官能小説のケータイ版といったものはほとんど見られない。読者の人気を獲得しなければ、というサービスの意識がないからだ。ケータイメールから派生した影響であろうか、「自分の今の思い」を、三十一音の言葉に託し発信することがメインとなっている。

 「ケータイ短歌」その語感からどうしても軽いものと見られやすい。しかし、私は「ケータイ短歌」こそが今後の短歌という文芸の命綱になるのではないかと見ている。

 「短歌滅亡論」が何度も叫ばれ、そのたびになんとか生き延びてきた短歌。新聞歌壇、カルチャーセンター、短歌結社。それぞれの場に見合ったかたちとなり、影響し合いながら続いてきた。

 しかし、どの場でも、若者離れが深刻化していた。若手が入ってこない限り、文芸として先細りしてしまう。たくさんの作り手が互いに切磋琢磨し合うことによって、作品はより高く、豊かになり、場は活発化してゆく。

 「ケータイ短歌」に対するマスメディアの注目も大きい。「読売新聞」「朝日新聞」「AERA」「日経トレンディ」を始めとする国内の新聞雑誌での記事掲載。英国BBC放送からの取材もあり、「WallStreet Journal」では一面コラムとして取り上げられてもいる。

 「ケータイ短歌」と出逢って、短歌を作り始めたうちのほんの一割でも、近代・現代の短歌に興味を持ってくれたら。ケータイを置いて、歌集を手に取り、実際の歌会に足を運んでくれるようになったら。それだけで「短歌」の命が、少なくとも二十一世紀中は、続いてゆくことができるだろう。「大化の改新」と同じ時期に成立したといわれる三十一音の定型詩。長い長い時を超え、その時代時代の人々の思いを切り取ってきた。言葉でコミュニケーションする時代に、二十一世紀の機器であるケータイ電話を、柔軟にまた貪欲にとり込み、短歌は進化した。きっと三十一世紀には三十一世紀のメディアをとり込んで、続いてゆくのであろう。

 今後の問題点として、短歌の大量生産、大量消費といえる現状が挙げられる。作って送信して、そのまま。ケータイの場合はさらに機種変更とともにデータとして、あとかたもなく消えてしまう。引越しの際に短歌を書きとめた昔の手帳が見つかって、という再発見の機会も与えられない。

 しかしそれは、ケータイに限らず、どの場においても短歌は大量に発表され、そのまま流れてゆく。雑誌、歌集、ネット、そしてケータイ。メディアを超えて見つめ直さなければならない短歌の課題なのである。

初出:國文學 特集ケータイ世界2008年4月


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